もう一度、会いに行ってもいいかな。

白浜ましろ

第一部

序章 精霊、旅の先は

とある別れの話


 とある日の昼下り。

 その室内には、ベッドで静かに眠る女と、その隣に椅子に腰掛けた男の姿があった。

 ちらりと、男が部屋の窓から空を覗いた。

 その空は、澄んだ青をいっぱいに広げて晴れ渡っていた。それは憎らしい程に。

 そよと部屋に入り込んだ風がカーテンをなびかせる。

 風はついでとばかりに男の髪をゆらし、頬をさわりと撫でてから部屋を吹き抜けて行く。

 常であれば思わず目を細めたくなるような心地でも、男の心には響かなかった。

 そんなもの、今の彼にはどうでも良いことで。

 視線を落とした彼は顔をゆがめた。

 ああ、いつの間に。と、手を伸ばしながら思う。

 静寂が支配する部屋の中。己の息の音が嫌に耳についた。

 そっと手を伸ばし、ベッドに横たわる彼女の手を取った。

 固く閉ざされた瞼。

 かすかに上下する胸の動きだけが、彼女がかろうじて生きていることを意味する。

 彼は愛おしげに。けれども、壊さないようにと慎重に。

 そんな女の手を取り、きゅっと握った。

 いつの間に。と。先程から同じ言葉を男は胸中で繰り返す。

 いつの間に彼女の手はこんなにもしわが。いつの間に、いつ頃から――一体いつ頃から、彼女の手は。

 胸中で繰り返す言葉が変わったことに気付かないまま、男は女の手に触れ続ける。

 一体いつ頃から。こんなにしわが目立つように。

 一体いつ頃から。この手は弾力をなくし、こんなに皮と骨ばった手に。

 一体いつ頃から。一体いつ頃から。一体いつ頃から――。

 繰り返す言葉の中で、彼の胸中に何かが否を唱えた。

 お前は知っていたはずだ。彼の中でその何かが嘲笑う。

 思わず男の身体が強張り、冷や汗がふきだした気がした。

 いや、知らない。自分は知らない。

 必死に言い募る様は、何か言い訳じみて聞こえて。

 思わず、乾いた笑みが口の端にのったことに気付く。

 それは男を途方もない気持ちにさせた。

 がらがらと足場が崩れる感覚に、彼はすがるように女の手を握る。

 けれども、握った感触にまた、彼は瞠目させられ愕然とする。

 そして、思い知らされる。そうだ、自分は知っていた。知っていたとも。

 知っていたからこそ、目を逸らして気付かないふりをしていた。

 時を重ねれば重ねる程に、自分と彼女の違いは浮き彫りになっていった。

 老いていく彼女と、変わらぬ自分。

 始めから知っていたのに。生きる時が違うことくらい。

 なのに。

 自分は一体いつ頃からその事実を忘れていたのだろうか。――否。

 忘れた、ふりをしていた。目を逸らしていたのだ。

 そんな中で。


「なにを、泣いているの……?」


 静寂を破ったのは、か細い声だった。

 はっと男の口から吐息がこぼれた。

 その声に彼がのろのろと視線を落とすと。

 固く閉ざされた瞼が持ち上がり、女が苦笑を浮かべていた。

 だって、男の顔が呆けたような顔をしていたから。

 まるで、泣いていることに初めて気づいたと言わんばかりで。

 彼女は彼が触れている手とは反対の手を伸ばそうとした。

 けれども、力が入らずに身じろぎだけにとどまる。

 だから代わりに、彼女は彼が触れている手に力を込めた。

 込めたといっても、思ったより力が入らなかったから、ただ、小さく握り返しただけになってしまった。

 それでも、彼にはたぶん伝わったのだろうなと彼女は感じた。

 だって、自分を見下ろす彼の瞳から、ぽろりと零れ落ちたから。

 頬から顎へ伝って、ぽつと音を立てて落ちた。

 落ちたそれはシーツが吸い込む。

 それは、次から次へと。ぽつぽつ、と。

 あらあら、と彼女は小さく苦笑を浮かべる。

 これでは安心して旅立てないではないか。

 彼の頬へと手を伸ばしたいのに。零れ落ちるものを拭ってあげたいのに。

 もう、そんな力も気力も彼女には残されていなかった。

 それが酷くもどかしくて、泣きたいような、そんな気持ちになった。

 心残りがあるとすれば、彼をおいていってしまうこと。

 老いて、おいていく。それが世界の理なのだとわかってはいても、仕方のないことだと簡単には片付けれない。

 でも、もう。あまり時は残されていないようで。

 少しずつ霞んでゆく視界の中。

 彼女は、まるでかじかんでしまったような唇を懸命に動かして言葉を発した。


「わたしも……探す、から……あなたも、さが、してね……」


 息を呑む音がした。

 さわとカーテンのなびく音が響く。

 微笑んだつもりだったけれども、うまく微笑むことができただろうか。

 ぽつ、男の瞳から最後の涙が零れた。

 カーテンをなびかせる風が男の髪もゆらして。

 窓から差し込む午後の日差しが、きらきらと男の髪をきらめかせた。

 白の色は陽光を弾くと白銀に見えて、女は常々、綺麗だなと目を細めて見惚れていたものだ。

 だから、最後にその様を目にすることができて嬉しかった。

 じわりと視界が滲むのは、たぶん、きっと、その嬉しさからだ。

 目を細めた拍子に、女の目尻には熱い何かがたまる。

 たまったそれが目尻を滑べる――前に、男の手がそれを拭った。

 そのまま男の手が女の頬を撫でる。

 女が大好きな男の手。大きくて、あたたかくて。その手に撫でられるのが大好きだった。

 その感触に小さく笑いながら、女の目が次第に閉じられていく。

 もう、目をあけている気力もなくなってしまった。

 女が最後に見たのは――男の髪色。陽光を弾く、白銀の色。

 遠のく意識の中。女は確かに聞いた。


「また、みつけるから」


 ぎゅっと。男に握られている手に力が込められたのを感じた。

 ええ、と応える声は発せられそうもなかったから。

 女も握られた手に、もう一度、力を入れた。

 でも、あまりうまくできなかった気もしたから、伝わっていないかもしれない。

 彼に伝わっていたらいいな、と。女は最期に思った。

 私も、きっと、あなたをみつけるから。と。



 とある日の昼下り。とある精霊と、とある人との、とある別れの話だ。

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