【落語台本】放生会(ほうじょうえ)

紀瀬川 沙

第1話

▼秩父・武甲山の麓 石灰石の集積地近くの宿場


【令和では人々の信仰心やら徳義心やらもめっきり薄くなってしまって、たいそう息苦しい、いや漢字違いの生き苦しい世の中になったもので。信じること、徳を積むことなど、今ではきっとコストカットのうちなのでしょう。近頃はまったく見かけなくなりましたが、近世江戸の頃までは生き物、亀などを自然に放してやって徳を積むことがあったそうで。有名な浮世絵、歌川広重の『名所江戸百景 深川万年橋』 にも、まぁ綺麗で大胆な構図で、遠景の富士山、近景の隅田川に帆船、眼前に紐で吊られた亀が見えます。こいつを放して助けてやって功徳をって魂胆なんですな。時は下って大正の夏の終わりの秩父です。その頃のお年寄りにはまだそんな心が残っていたようで】


馬車屋の隠居  「やあ、こんにちは。今日も商売はどうだい?」

飯場の監督   「あっ、どうもご隠居さん。今日はまた残暑がひどいね。商売?まっ、それなりです」

馬車屋の隠居  「ああ暑い。そうなのかい。新聞じゃ、さかんに好景気がくる、好景気がくると言ってるんだけどね」

飯場の監督   「そうなんですか。あっしらはそんなの知りません。毎日毎日採掘採掘」

馬車屋の隠居  「仕事に精が出ていいじゃないか」

飯場の監督   「物は言いようですぁ。馬車屋さんだって、儲かってるんでしょ?」

馬車屋の隠居  「それこそ、それなりだろうよ。今じゃ長男に任せてるから」

飯場の監督   「馬には労働争議もなさそうですもんね」

馬車屋の隠居  「今日日はやりの、あれかい」

飯場の監督   「会社からは厳しく取り締まれと言われますが」

馬車屋の隠居  「あんたがかい?」

飯場の監督   「ええ。知恵付けた人夫らとの最前線は、ここですから、そりゃそうなるでしょうよ」

馬車屋の隠居  「難しい世の中になったね」

飯場の監督   「うるせえ世の中ですぁ」

馬車屋の隠居  「こないだの洪水でいろいろ流されたんだろう?」

飯場の監督   「そうそう、困り果てますぁ。水が引いてもまだ、今だってあちこち乾いた泥だらけで」

馬車屋の隠居  「それは劣悪環境と言われちまう。くれぐれもからだに気を付けなよ」

飯場の監督   「ご隠居も」

馬車屋の隠居  「ありがとう。じゃあ、ちと散歩の続き」


【昨今の社会問題に関心ある、ふりだけのご隠居。石灰の運送業も大戦景気とやらで右肩上がりの業績だと跡取りから聞いております。隠居の身とはいえ欲に限りはありません。まだまだ儲けたいと、近頃は第一線から退いて時間も有り余ることもあって、若かりし頃からの深川八幡宮への信心、特に良い事をしていっそう商売繁盛したいという思いが燃え上がっており】


馬車屋の隠居  「こらこら、子供たち。何をわめいて?近所迷惑だぞ」

近隣の子供   「亀、汚いの、亀」

馬車屋の隠居  「亀は万年と言ってな。ありがたい生き物なんだよ」

近隣の子供   「ふーん、でものろまー」

馬車屋の隠居  「そうだ、君たちに1円あげよう。だから、その亀を放して譲ってくれないか?」

近隣の子供   「なんでー?」

馬車屋の隠居  「なんでって。君たちに言ってもわからんよ。それより、ほら、これを親御さんたちに見せてあげなさい。一人1円ずつ上げる。何か買ってもいいぞ」

近隣の子供   「ならいいよ。はい、亀。みんな、行こー」

馬車屋の隠居  「まったく。このあたりがいいかな。次は捕まるんじゃないぞ。ほら、隠れろ隠れろ」


【と言って近くの小川の茂みにほいっと亀を放ちます。次いでご隠居は両手をあわせて】


馬車屋の隠居  「いい功徳をした。八幡様、今の放生をご照覧あれ」


【しばし立ち止まったご隠居。その手の甲に夏場の渇した蚊がふらり】


馬車屋の隠居  「おっと、蚊め。おっと、いけない、いけない。放生した後たちまちの殺生など。小さな蚊だって生きとし生けるもの」


【ちゅうちゅう血を吸う蚊をそのまま眺めるご隠居。いい加減かゆくなってきたと見え】


馬車屋の隠居  「かゆい、かゆい。もうやめとくれ。このかゆみが収まったら、次の仲間を呼んできな。ああ、かゆいがいい功徳をした。八幡様、ご照覧あれ」


【そろそろ屋敷に帰ろうと、手の甲を掻き掻き、天王橋のところまで至りました。するとその橋のたもと、うなぎ屋の主人が、ちょうど昼時の繁盛時と見え忙しなく蒲焼を作っております。こなれた手つきでうなぎを台に乗っけて、きりを通そうとします。うなぎは死地から逃げようとする。それを逃すまいとする主人。これを見たご隠居】


馬車屋の隠居  「ちょ、ちょっと、待ってくれ」

うなぎ屋の主人 「へい、いらっしゃい。蒲焼でいいですか?」

馬車屋の隠居  「違う違う。そうじゃない。何をしているんだ、これは?」

うなぎ屋の主人 「えっ?うなぎの蒲焼ですよ。それが何か?」

馬車屋の隠居  「うなぎを殺すのか?」

うなぎ屋の主人 「えっ?そりゃ当たり前でしょう」

馬車屋の隠居  「なんてことを。殺さずに蒲焼を作りなさいな」

うなぎ屋の主人 「殺さずにできませんぜ」

馬車屋の隠居  「そんな殺生な。お前さんそれでも人の子かい?」

うなぎ屋の主人 「これは変な客が来ちまったよ」

馬車屋の隠居  「かわいそうなうなぎ。そんなこと、絶対に、あたしの目の黒いうちは絶対に殺させやしないよ」

うなぎ屋の客  「おおい、まだ蒲焼できんかねー?」

馬車屋の隠居  「ちょっとだまって待ってなさい。今、主人と話してるんだ」

うなぎ屋の客  「・・・」

うなぎ屋の主人 「ああ、ごめんなさいね。まったく、もう、忙しいのに、困るね」

馬車屋の隠居  「そのうなぎが何を悪いことをしたと言うんだい?お前さん、自分の身になって考えてみなさい」

うなぎ屋の主人 「あたしゃうなぎじゃありませんからね」

馬車屋の隠居  「同じことですよ」

うなぎ屋の主人 「同じじゃないですよ」

馬車屋の隠居  「見解の相違だね」

うなぎ屋の主人 「ここら武甲の石灰屋と同じ、あたしたちも商売ですからね。こうしなきゃ倒産だ」

馬車屋の隠居  「商売と言われちゃうとしようがないね。ああ、わかった、お前さんが強情はるなら、あたしが買って、買って逃がすよ。それでいいだろう?」

うなぎ屋の主人 「また殊勝な。でもまぁ、それならいいですよ。しかたないね。でも、待ってるお客さんもいるんだ」

馬車屋の隠居  「全部取り消しだ。うるさい客にはあたしが同じ額だけ払う。いくらだい?」

うなぎ屋の主人 「1円50銭」

馬車屋の隠居  「わかった。まずはその台のうなぎだ。籠に戻せ。まったく、殺生なことをして。おうおう、見れば見るほどかわいいうなぎだ。ほら、すぐ近くの川に逃げしてやるからな。今度は寝床は遠くに構えろよ」


【と言って、唖然とするうなぎ屋の主人などには目もくれず、近くの小川にぽちゃんとうなぎを放ちます。次いでご隠居は、うなぎが消えていったほうへ両手をあわせて】


馬車屋の隠居  「いい功徳をした。八幡様、今の放生をご照覧あれ」


【それからぶうぶう言う客数人にも同様に金を払ったご隠居。少し考えてから、それもまぁ将来食われるうなぎたちを救えたんだからと思い、両手をあわせて】


馬車屋の隠居  「八幡様、今の放生をご照覧あれ」


【ここにもう用はなく、ご隠居はそのまま屋敷へ帰ってその日は暮れる。またあくる日、同じところを通りがかりますと、うなぎ屋も通常通りの開店営業のさま】


馬車屋の隠居  「やあ」

うなぎ屋の主人 「うわぁ、またですかい?」

馬車屋の隠居  「それはこっちのセリフだよ。今日はこれがまだ一匹目だろうね?」

うなぎ屋の主人 「え、ええ」

馬車屋の隠居  「1円と50銭でいいかい?」

うなぎ屋の主人 「いや、これ、2円でして」

馬車屋の隠居  「昨日より高いね」

うなぎ屋の主人 「え、ええ。なんでも時化が続いて不漁だってんですよ」

馬車屋の隠居  「たかが50銭の値上げなんか屁でもない。ほら、籠へ戻せ。昨日と同じ要領だ」

うなぎ屋の主人 「はい、ただいま。ちなみに、これ、客が付いてて」

馬車屋の隠居  「もう2円でいいかい?」

うなぎ屋の主人 「はいよ、毎度あり」


【二倍の銭をせしめたうなぎ屋の主人などには目もくれず、近くの小川にぽちゃんとうなぎを放ちます。次いでご隠居は、うなぎが消えていったほうへ両手をあわせて】


馬車屋の隠居  「あぁ、いい功徳をした。八幡様、今の放生をご照覧あれ」


【お話は次回に続きます】

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