退職した、飯を作る

健康丸

プロローグ

3/22(月) 晴れ

 最後の出勤まであと1週間となった。商社に40年、案外あっという間である。なんて思っているうちにほら、昼休憩になってしまう。

 弁当を持って会社を出る。歩いて6分、都会という言葉が相応しいここ、大崎に人工的に残された自然がある。何の木かも分からないが、晴れているのならこの木の下にあるベンチで昼食をとると決めている。夏は木陰が涼しく、冬は日差しが暖かい。春秋は言わずもがなである。

 ベンチに腰を落として弁当の蓋を開ける。なんてことはない、普通の弁当だ。昨日の残り物に卵焼き、彩のためのミニトマトとブロッコリー。梅干しの乗った白米。冷えたご飯を食べることもあと数回なのだと思うと、ふと昔が思い出された。

 まだ新婚の頃、自分よりも2時間も早く起きて弁当を作ってくれた妻。出勤前に渡された丁寧に包まれた弁当の包みを昼に開けば、それはそれは気合の入った弁当があった。中身がどんなであったかは今となっては記憶の沼に沈んで思い出せないが、とにかくそれは豪華だった気がするのだ。

 いつからだろうか、弁当から元気がなくなったのは。

 多分、子供ができてからだろう。彼女はそれまで勤めていた会社を辞め、育児に邁進した。私はというと丁度色々な仕事を任されるようになって忙しくなってきた頃だった。夜遅くなることも多く、帰ってきた扉の音でやっと眠りについた娘が泣き出したりして困らせた。娘にどう接していいかわからず、子育てもほとんど任せきりだった。いや、そんなのは言い訳だ。実際にその後息子が生まれたが同様に自分は何もしてこなかった。

 思い返してみれば自分は何もしてこなかったじゃないか。もしかして妻はとうに自分への愛想を尽かせているのだろうか。それは困る。生涯添い遂げたいと思ったのは他でもない、彼女だからである。そう思うと涙が出てきた。もう涙なんぞ枯れ切ったものだと思っていたが、案外自分もまだ捨てたものじゃないのかもしれない。

 「感謝だけでは到底足りない。何か、何か余生をかけて彼女に返さねば…!」


                  〇

 

 仕事を終え、小金井にある家に帰るとテレビを見てくつろぐ妻がいた。子どもたちももう成人して独り立ちしている。家は大分広くなったように感じる。

 「あら、おかえり。早かったのね。定年も間近だと任される仕事も少ないのかしら?」

 時間はまだ8時である。たしかに今までに比べると大分早いかもしれない。

 「待ってて、今ご飯の支度をするから。」

 パタパタと足音を鳴らして妻は台所へ行く。コンロが「カチカチカチ」と音を立てて味噌汁を温め始める。冷えたおかずは電子レンジに放られ、こちらもラップが窮屈そうに「ピュイー」と声を出すまで温められる。5分もしない内に食卓には皿が並び夕食の準備ができた。手を洗って席に着く。

 「いただきます。」

 胸の前で合わせた両手をほどいて、食事を始める。向かいにはすっかり髪の毛が白くなってしまった妻が座っているが、その視線はテレビを向いている。昔はこっちを見てよく味を尋ねてきたものだ。

 「ねぇ」

 声をかけてみる。妻は顔をこちらに向けずテレビを見たまま「んー?」と言う。

 「いつもありがとう。」

 耳が燃える様に熱い。鼓動は全力で走ったときよりも早い。脇には変な汗をかいている。たった一言を伝えるのにこんなに緊張する。なんだか告白しているようで懐かしい気持ちになった。妻もまた鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。

 「どうしたの、急に?」

 「ほら、弁当毎日作ってくれたろ?家帰ったら夕飯があるし、子育ても大分任せっきりだった。相当大変だったはずなのに、ちゃんとお礼を言ってなかったきがして」

 彼女はにやにやしている。どうやらこちらの反応を見て楽しんでいるようだ。ただ、その中に少なからず自分同様に照れが混じっていることも確かである。大人になってこんな風に素直な言葉を使うことも少なくなっていた。

 「本当、大変だったのよ。おかげでほら、頭が灰みたいにしろくなっちゃったわ。」

 笑いながらとんでもない冗談を飛ばしてくる。この場合、笑うのと笑わないのとではどちらが正解なのだろう。

 「それで、今月いっぱいで僕定年じゃない?老後の生活をかけて何か返したいんだけど、何か要望はある?」

 「あら、素敵じゃない。そうねぇ、料理がいいかなぁ。」

 「料…理?」

 「そっ、料理。ほら、結婚してから今日まで私が料理してきたわけじゃない?だから老後は悦郎さんに料理を作ってほしいなぁ。」

 意外だった。もっと何か別の、例えばお金のかかる要求をされるものだと思っていたが、料理とは。しかし、捉えようによっては高価なものをねだれるよりよっぽど難しいお題かもしれない。

 「僕は料理なんてしたことないよ?」

 「あら、老後をかけて何かを返すのではなくって?なに、家事の全部をやれなんて言ってないわ。それに最初は私も一緒に見て教えてあげるからさ、ね?」

 こうなっては腹を括るしかない。「男子厨房に立たず」を擬人化したような男であったが、他でもない愛する妻の望みとあらば、だ。不安と大きく書かれた顔で、妻に頷いた。

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