第44話 原田陽一

 目の前で巨大なウサギに一本背負いされている鮫島を見て、親分はその足を止めた。

 だがあきらめたわけではない、その瞳はこんな時でさえまだ鋭い光を放っていた。


「お前らどこの者だ」


 気の弱いものが聞いたらそれだけですくみあがってしまいそうな、ドスを効かせた低く冷たい声。

 ウサギの着ぐるみを頭からすっぽり着ているため、扉の前に立つ人物の表情はわからない。


「何が目的だ」


 はじめほかの組の者かと思ったが、攻撃してくるが決して致命傷を与えるわけではない彼らのやりかたに、その線はないと親分はふんでいた。

 だがまさか、警察がこんな手の込んだことをするとも思えない。


 だいたいなぜぬいぐるみなのか。

 まるで子供のお遊戯に付き合っているような錯覚さえ覚える。


 同時に説得や金で心変わりするような輩とも考えられなかった。なにかそこに深い執念のようなものを感じたからかもしれない。


 それでも理由も相手も分からず、ただやられるわけにはいかない。

 これでも一国一城の組の主だ。

 親分が短刀の鞘を捨てる。微かな光がその刃をキラリと光らせた。


 一瞬目の前のウサギの着ぐるみが、たじろいだような気配を見せる。

 見えない敵に向かうより、確実なのはこの着ぐるみを狙うことだ。そう判断した親分の鋭い眼差しが、ウサギの着ぐるみに注がれた。


「親分さん、いや原田陽一さん」


 いまにも飛び掛らんばかりの姿勢をとったとき、突然背後から声がかかった。

 気配でわかる。エリザベーラだ。


 フルネームで呼ばれていささか親分は眉間に皺をよせた。だが顔は着ぐるみからそむけられることはなく、耳だけをそちらに傾ける。


「まだお気持ちは変わりませんか?」

「変わらぬ」


 親分こと原田はさっきとまったく変わらない口調で即答した。


「頑固な人だ。貴方の妹さんはこんなに悲しんでいるというのに」


 ギリッと原田が唇を強く噛みしめる。ずっと冷静だった原田に怒りの色がゆらめく。


「さっきから、妹がなんだと。俺には妹何ていねぇ」


 殺気を飛ばしながら叫ぶ。


「おかわいそうに、妹さんそんなこと聞いたら泣いてしまいますよ」


 エリザベーラは困った人だと言わんばかりに肩をすくめた。


「貴方は妹を失った恨みを、罪のない人に押し付けているだけです」


 ここまで否定しても動揺しないところ見ると、どうやら着ぐるみの仲間は、自分の過去をどういうわけか知っているらしい。原田は目の前の着ぐるみを、目を細めるように見つめた。


(自分の過去を知っていて、仲間はただ眠らせるだけ。親分である原田ではなく、俺個人の関係者の仕業なのか)


 原田はそれを見極めるようと、全身の神経を尖らせた。


(だが、相手の要求がわからない。妹の話をだして、動揺させてるつもりだろういが、その後どうしようというのだ)


 静かな泉のようだった原田の心に、さざ波がたつ。苛立ちはするが、相手の出方がわからない限り、話を聞くほかどうしようもないような気がした。


「どういうつもりで俺に近づいたか知らないが、話だけは聞いてやろう」


 そう言いながら、原田は短刀を振りかざし目の前の巨大ウサギに突っ込んだ。


「あまい!」


 原田の予想通り、その瞬間風を裂くような微かな音が聞こえた。

 そして次の瞬間、とても老人の動きとは思えないほどすばやい動きで正確にそれを短刀で叩き落した。

 とてもじゃないが普通でも目で追うことのできないほど小さな針を、確実にこの薄暗い夕闇の中で払い落とすとは、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた男の勘なのか、それいじょうのなにか不可思議な力を隠し持っていたのか、どちらにしろ原田以外の人間には、それは予想外の出来事だったらしく、凍り付いたように小さな息をのむ声が聞こえた。


「山崎さん!」


 針が飛んできた方角から悲鳴に近い女の声が上がった。


「図体がでかいうえ、着ぐるみを着たまま戦おうなんて、ただの自殺行為でしかない」


 一声叫ぶとともに針を落としたその速度のまま、ウサギ着ぐるみめがけて短刀を振り下ろす。


「お兄ちゃん! ヤメテ!」


 刹那、原田の体がまるで金縛りにでもあったかのように硬直した。

 そしてそのまま後ろに飛びのくと、よろよろとよろめき、尻餅をついた。


 いままさに短刀に刺されるところをぎりぎりで免れたウサギの着ぐるみが、地面に大の字に横たわっている。その目の前に、原田はそれがたっているのを見た。


 エリザベーラの隣に手を引かれて立っていたのは、エリザベーラのようにきれいで着飾ったウサギのぬいぐるみでも、いままでの赤いボタンの目の麻薬を運ぶためにつくられた大量生産の安いウサギのぬいぐるでもなく、薄汚れたところどころちぐはぐの布で繕われた紺色のボタンの目をつけたウサギのぬいぐるみだった。

 いや、それがウサギのぬいぐるみであるとわかるのはたぶんそれを直していた張本人だけであろう。

 片方の目だけが色あせた紺色のボタンの目がつけられたそのぬいぐるみは。


「そんな……」


 信じられないものを見るように、大きく原田の目が見開かれる。

 そのまま、まるで彫刻にでもなってしまったかのようにピクリとも動かない。


 片方の目を失くしてしまったという妹に、コートから紺色のボタンを一つとって慣れない手つきで縫い付けて渡したのは、いったいいつのことだっただろうか。

 何度も直しているうちに、大きさが変わってしまった腕も、綿のなくなった垂れ下がった耳も、薄汚れ手垢だらけのそれは、思い出の中のあの時のまま。

 まったく同じ姿でそこに立っていた。


 妹の形見として色あせたそのボタンの目を一つだけ取り、遺体と共に荼毘にふしたはずのウサギのぬいぐるみ。


 原田は貧しい家に生まれた。

 酒飲みですぐ暴力を振るう父、妹が六歳になるかならないときに男と蒸発した母、そんな家庭の中で唯一の救いはかわいい妹の存在だけだった。

 原田は飲んだくれて帰ってくる父親から、妹をかばって毎日を暮らしていた。

 しかしそんなある日妹が病気になった。もちろん薬を買うお金など家にはない。

 父親も妹を助ける努力は見せなかった。

 原田は近所中に頭を下げてお金を貸してくれるよう頼んだが、誰も彼にお金を貸してくれる者はいなかった。

 そしてもともと栄養状態もよくなかった妹は、あっけなくこの世を去った。

 原田は父を怨んだ。母を怨んだ。そして妹を助けてくれなかった病院も近所の住民も全ての人を怨んだ。

 そうして人の道を踏み外した。

 極道になり頂点にたった原田は、妹が唯一母親から買ってもらい死ぬまで大切にしていたウサギのぬいぐるに麻薬を隠し売ることを思いついた。

 それは妹を助けてくれなかった人々から金と健康を奪う、彼にとって妹の復讐だった。


 原田のこぶしが小刻みに震える。


「そうだ、わしは妹を見殺しにした世の中の人間全てに復讐するんだ」


 妹のウサギに釘付けになったまま、自分に言い聞かすように呟く。


「なのになんで、なんでお前がそんなことを言う。いや、そんなことがあるわけ……」


 怒りと困惑が入り混じった目で見詰めたまま、まるで引き寄せられるように手を伸ばす。

 その手がウサギに触れる手前で止まった。


「陽一お兄ちゃん」


 舌足らずな。時に甘えたように、時に悲しそうに自分の名を呼ぶ声。

 妹のウサギのぬいぐるみが原田に近づいてくる。そしてまるでいたわるように原田の頬に触れた。


「私は誰も怨んでなんかいないよ、だからもう敵討ちなんてやめて、やさしいお兄ちゃんに戻って」


 紺色の瞳がジッと原田を見詰める。


 ずっと見ていたのか?

 その目を通して。

 ずっと……


 色あせたその瞳の中に原田は一瞬、確かに妹の姿を見た気がした。

 何かが原田の中で静かに崩れていった。

 それは人を怨み憎み、人を信じず寄せ付けなくなってしまった心の殻だったのかもしれない。


「あ、あぁぁぁ」


 よろよろと妹のウサギを抱き寄せる。


「…………」


 そして妹の名を呟くと共に原田の目から、妹を亡くしたときにすら流れなかった涙が一筋その頬を流れた。

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