三途の川

「……ここは?」

 ふと気が付くと、犬山組の組長、犬山大五郎は花畑の中にポツンとひとり立っていた。犬山の眼前には見渡す限り花が咲き乱れており、どんなに首を巡らせても、その光景は変わる事が無かった。白色や黄色、ピンク色の花々が延々と続いている。まるで地平線の彼方まで続いているように思えた。不思議な事にこれだけの花が咲き乱れているのに花の香りと言うものがまるでしない。どこか作り物めいた景色だった。犬山はこの光景に少し畏れの様なものを感じとっていた。

「……しかし、ここは一体どこなんだ?」

 犬山はここがどこであるか全くわからなかった。そして何故今、自分がここに居るのかもよくわからない。記憶を辿ろうとするが、組の連中と会食をしていた光景を最後に、それ以降の事が判然としなかった。

「オーイ! 誰かいないのかー! 城島ぁ! 坂本ぉ!」

 犬山は若い衆の名前を叫んでみたが、返答はなかった。

「ちっ、あいつらどこへ行きやがったんだ! くそっ!」

 犬山は悪態をつき、腹立ちまぎれに足元の花々を蹴り上げた。数枚の花びらが宙を舞い、すぐにどこかへと消えた。

「……ここに居ても仕方ねぇか」

 花々が散る光景を見て少しは溜飲が下がったのか、犬山はそう呟いて延々と続く花畑を当てもなく歩き始めた。



 犬山が歩き始めてからどれくらいの時間が経ったであろうか。長い時間のような気もするし、それほど時間が経っていないような気もする。

 永遠に続くと思われた花畑は急に終わりをつげ、いま犬山の目の前には川が流れていた。

 川べりに砂利道の様なものは無く、花畑が途切れたすぐ隣を滔々と水が流れている。

 川はあまり大きな川ではなかった。川幅はせいぜい10m程度、深い所でも30cm程の深さしかなさそうであった。流れも穏やかであったため、向こう岸に歩いて渡ろうと思えば十分可能だと思われた。

 ただ少し奇妙なことに、犬山がどんなに目を凝らしても向こう岸の様子が良くわからなかった。そう遠くないはずなのだが、靄のようなものが向こう岸の全体を覆っており、様子が判然としなかった。

「……さて……」

 犬山は少し思案した。足が濡れてしまうのが気にくわないものの、ここでこうしていても埒があかない。

 そう思うとすぐに犬山は川の中に一歩、足を踏み入れた。犬山はそのまま川の中を進み続けた。川の中腹まで来たところで、向こう岸からから声が聞こえてきた。

「……おいで……、……おいで……」

「ん? なんだ?」

 奇妙な声に犬山が顔を上げると、今まで向こう岸を包んでいた靄が少しだけ晴れていた。そしてそこには人と思しき数人の姿を見ることが出来た。

 どうやら先程の声は、それらの人影から発せられた様であった。

「……おいで……、……おいで……」

 その者達の声は常人のそれではなく、まるでどこか違う世界から聞こえてくるような不気味な声であった。

 人影達の風貌も尋常ではなかった。何れの人影も目は窪んでおり、その眼窩に眼球らしきものは見当たらない。土褐色をした顔には何の表情も浮かんでおらず、もはや生者のものとは思えなかった。

 さらに人影達の身体には、痛々しい傷跡が見て取れた。首筋に縄のような跡がある者、手首に切り傷のようなものがある者、身体の到る所から血を流している者。全ての者が何処かしらに何らかの傷を負っていた。

「……なんだおめえら? 俺が犬山組の組長と知っての悪ふざけか?」

 そう言って犬山は向こう岸の人影に睨めつける。そこでふと、犬山はその人影たちに見覚えがある事に気づいた。

「……? おめぇ達、もしかして、鈴木に、篠崎の所の娘に、須山か?!」

 犬山は人影の中の3人を指さし、さも愉快といった様に笑い出した。

 そんな犬山の姿を3人の人影は何をするでもなく、ただ何も映していない眼窩を犬山に向けていた。

 犬山が言った通り、3人の人影は犬山の知り合いであった。ただその関係は決して円満なものではなかった。


 鈴木聡は小規模ながら事業を商っていた。鈴木は商才を発揮し、事業は徐々に大きくなっていった。しかし不運にも、大規模な設備投資をしたタイミングで世界的な経済不況が重なってしまい、急激に採算が悪化した。ここで鈴木は判断を誤ってしまう。急場を凌ぐために、即金で融資をしてくれると言う犬山組系列の闇金に手を出してしまったのだ。すぐに返せると高を括っていた鈴木の予想に反し、景気はいつまでも戻らず、借金の額は膨らんで行く一方だった。

 法外な利息と、昼夜問わない苛烈な取り立てに、鈴木聡は追い詰められ、そしてついに自らの保険金と引き換えに首を括ることになった。


 篠崎夢香は薄幸な少女であった。母親は夢香が小さい頃に父親の次郎と離縁し、今は夢香と次郎の二人暮らしであった。次郎は元々いい加減な性格の男であり、何をやっても長続きをしなかった。そんな次郎に代わって、夢香は高校に通いながらもバイトを複数掛け持ちし、なんとか日々を過ごしていた。

 しかしそんな折に、次郎が犬山組から多額の借金をした挙句に蒸発してしまった。残された夢香は犬山組の取り立てに晒されるようになり、ついには高校を退学し、借金返済のために強制的に夜の街で働かされた。世を儚んだ夢香は手首を切り、この世に別れを告げた。


 そして、須山秀治は犬山組と常に縄張りを争う須山組の組長だった。覚醒剤を巡る事件で警察に目を付けられた犬山は、一計を案じ、須山組にすべての罪をかぶせることに成功した。それに激怒した須山は、復讐するべく犬山組に乗り込んだが、それを予期していた犬山に反撃を食らい、必至の抗戦の挙句、身体中に銃弾を受けて憤死した。


 そんな彼らが川を隔てて、犬山に向かって手招きをしていた。

「……おいで……、……おいで……」

「そうか、そう言う事か! これで全てが繋がったぜ。 ……とっくに死んだお前ぇらが居るってことは、ここはあの世だな? とすると、差し詰めここは三途の川ってやつか!」

「……おいで……、……おいで……」

「ははは! こりゃお笑い種だ! お前ぇらが出てこなければ俺は勝手にそっち側に渡っていたものを、間抜けなお前ぇらはわざわざ死ぬほど恨めしい俺を助けてくれたってわけだ! ハッハッハ! こりゃ傑作だ!」

 犬山は向こう岸の人影達を嘲り笑った。

「……おいで……、……おいで……」

 それでも鈴木達の3人を始めとする亡者達は、何の表情も浮かべずに、ただその言葉だけを繰り返していた。

「は! 一生やってやがれ! ここが三途の川だって事が分かったからには誰が渡るものか! 負け犬のてめぇらはいつまでもそこで喚いているんだな!」

 犬山はそう言うと、元の岸へと踵を返した。

「……おいで……、……おいで……」

 それでも亡者たちはただ繰り返し、そう繰り返していた。

 元いた岸に到着すると、犬山の姿は徐々に薄く揺らぎ始めた

「それじゃあ、達者でな!」

 犬山が亡者たちに向かってそう叫ぶと、犬山の姿は景色に融ける様に消えた。

「……おいで……、……おいで……」

 犬山が消えた三途の川には、亡者たちの声だけが響きわたっていた。



 犬山は目を覚ました。

 手のひらを試しに何度か開いたり握りしめたりしてみる。現実感のある感触に犬山は笑みを浮かべた。

「……ふっ、どうやら俺の悪運はまだ尽きていない様だな、くっくっく」

 犬山の想像通り、犬山はこれまで現世とあの世の境を彷徨っており、三途の川を渡る寸前で現世へと帰還したのだった。

「ほんと、間抜けな奴らだぜ……くくく」

 あの世で最後に目にした亡者たちの滑稽な様子を思い出し、犬山の口から笑いが零れた。


「……しかし、ここはどこだ?」

 しばらくして犬山は自分のいる場所が気になり始めた。

 首を巡らして周りを見ようとするが、今いる場所はやけに暗く、そして狭い。

 周囲に立ち込める甘い匂いに犬山はむせそうになる。

 犬山は外に出ようとしたが、前後左右に仕切りの様なものがあり、動くことがほとんど出来なかった。

「なんだ、ここは? おい、誰かいるのか!? 聞こえているならここを開けろ!」

 犬山は少し息苦しさも覚えて、目の前の壁を乱暴に叩いた。



≪ドンドンドン!≫

「!?」

 突然の物音に、参列者の声がピタリと止まった。参列者の視線は、火葬炉に注がれていた。

「……いま、中から?」

 参列者の一人がそう呟くと、犬山の葬儀に参列した犬山組の組員たちは騒めき始めた。

 火葬場の職員が参列者の前に進み出ると、慌てた様子も見せずに落ち着いた声で参列者を制した。

「……お静かに。故人はこれから永遠のお休みにつかれようとしております。我々の心の揺らぎは故人の眠りを妨げることになります。皆さまどうか、心穏やかにお願いいたします」

 職員は続けた。

「……周囲の熱の影響で、火葬炉の中から音が聞こえることは良くある事でございます。皆様は何のご心配もなく、故人をお送りいただければと思います」

 火葬場の職員はそう言って、表情を変えることなく、ゆっくりと参列者に向かってお辞儀をした。

「……なんだ、そう言う事かよ……。組長のやつ、最後まで驚かせやがって」

 ひとりがそう言うと、参列者達に笑いが起こった。

≪ドンドンドン!≫

「……」

 火葬炉の中からは何かを叩くような音が未だ聴こえていた。

 再び落ち着かなくなる参列者をよそに、火葬場の職員は火葬炉へと近寄る。

「……それでは、故人のご冥福をお祈りいたします」

 そう述べると、職員は点火ボタンに手をかざす。

 職員は虚ろな表情で、時間をかけてゆっくりと、火葬炉の点火ボタンを押し込んだ。

「……おいで……」

 最後にそう呟いた職員の言葉を、参列者の誰も聞いてはいなかった。


≪ゴォォォォォォ!!≫

 火葬炉は激しい音を立てて全てを滅していった。

 火葬場の煙突からは、薄汚れた色の煙が細々とたなびいていた。

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