第4章「一日、師となれば、終生、父となす」

第22話「時計仕掛けの絶望」

 アスファルトに転がったベクターフィールドは、派手にぶつかった時男の愛車を振り向く。急加速した直後に急ブレーキを踏み、急ハンドルを切ったのだ。エンジンが爆発するような事はなかったが、けたたましく鳴り響くクラクションは断末魔にすら聞こえる。


 起き上がるにも剣を杖代わりにしなければならない程、消耗しているベクターフィールドには、勝利の笑みすらない。


「勝った……」


 漸く、その一言を絞り出せたくらい。


 ない知恵を絞るという慣用句の通り、ベクターフィールドが唯一、思いついた策であった。


 ――リトルウッドが仕留められればよし、そうでないならば、帰り道で待ち伏せする。


 リトルウッドと二人がかりで戦うという手は、ベクターフィールドにはなかった。同じく契約を司る悪魔であり、リトルウッドの眷属であっても、ベクターフィールドも相性が最悪である事を知っている。


 ――室内で二人がかりで戦える訳がないぜ。


 ただでさえ機転が利く時男ときおが相手なのだから、連携の取れないベクターフィールドとリトルウッドがいたのではカカシが二つあるようなもの。


 故にベクターフィールドは待ち伏せを選んだ。


 そして、それは正解に繋がったのである。


 ――俺ひとりだったら、飛び出してきても急ハンドルを切って避けようなんて考えなかったろうぜ。


 事実、時男は当初、ベクターフィールドを跳ね飛ばしてしまおうと加速させた。急ブレーキを踏んで事故を起こすか、それともアクセルを踏むかの二択だったのだから、愛車に並々ならぬ思い入れのある時男でも、加速する方を選ぶ。


 ベクターフィールドはギリギリで回避し、その直後に霊を立たせれば、時男といえども策にハマるはず――ベクターフィールドが思いついたのは、ここまで。


 事実、時男はベクターフィールドに回避された事にホッとし、緊張感を張り直す暇がないまま罠にまった。


「ギリギリだ」


 思わず呟くベクターフィールドは、成功を確信していた訳ではない。様々な偶然、幸運が味方してくれたからこそ成立したのであって、本当ならば策などといえるものではなかった。


 もしも跳ね飛ばそうとせずハンドル切っていれば、そしてベクターフィールドが跳んだ方向と同じ方向に切っていれば、ベクターフィールドは粉砕されている。


 しかし現実は、ベクターフィールドは無事であり、時男の車は大破した。


 動く気配はないが、ベクターフィールドは杖代わりにしていた剣を抜く。


 ――リトルウッドと戦って無傷じゃないだろう。


 トドメを刺すんだと、身体を引きずっていくベクターフィールドだが、それを邪魔するかのように携帯電話が鳴る。


「ッ」


 ディスプレイに表示される名前は出たくもない相手だったが、出ない訳にもいかない。


 リトルウッドからだ。


「お前、どこいる?」


 時男から必殺の一撃を受けて尚、リトルウッドの胴間声どうまごえはドスが効いている。悪魔が最も怖れるのは孤独というが、友達が必要な訳ではない。リトルウッドが必要としている相手は、自らが隷属れいぞくさせられる者だ。ベクターフィールドに対し、優しい言葉をかける義理はないし、かける気もない。


 敵対すれば、どちらかが命を散らす羽目になると思っていたベクターフィールドは舌打ちしたい、怒鳴り散らしたい衝動にかられた。


 ――どっちも生きてんじゃねェか。


 それを噛み殺すベクターフィールドは、隷属させられている。


「どこって――」


 説明しようとするベクターフィールドだったが、リトルウッドは返事など待たない。期待などしていないのだ。


「どうせ忘れてたんだろう! お前のミスで、いちいちこっちに迷惑かけるな! 杉本時男が来たぞ!」


 怒鳴る。


 孝代たかよの身体に取り憑いたリトルウッドは、時男が振るう純粋な殺意を込めた攻撃でも、一撃で仕留められるような事はなかったらしい。そして孝代の状態を重く見た時男が、リトルウッドが退くのと合わせて撤退する事を選んだ。


 詳細は知りようがなく、ベクターフィールドはリトルウッドのような決めつけはしない。


 ――痛み分けくらいか?


 問題は時男が死地を脱してきたという現実だけ。リトルウッドに理由の如何いかんは聞いたところで意味などないし、時間の無駄というもの。


 リトルウッドからの無意味な叱責はとっとと切り上げてもらい、千載一遇の好機を活かす事が重要だ。


「その杉本時男を、戦闘不能にしました。今、目の前で車ごと潰れてます」


 ただ浪費は、この時、最悪のタイミングで祟ってしまう。


 トドメを刺すところだという言葉を遮るように、サイレンが聞こえ始めたのだ。


 深夜に響き渡った衝撃音と、今も鳴っているクラクションで周囲の誰かが救急車と警察を呼んだのだろう。


 幸運であり、不運でもあった。



***



 夜明けを向かえた彩子あやこは、気分も体調も最悪である。


 運転席にいた時男はシートベルトとエアバックのお蔭で無事だった。無傷ではないが、重症ではない。


 問題は、処置を受けた時男も駆けつけた孝代の方。


「矢野さんよ。山脇やまわきさんはどうじゃ?」


 憔悴しょうすいしている彩子の横顔から察しはついたが、敢えて時男は訊ねた。


 振り返る彩子は、軽く首を振る。


「……」


 後部座席に寝かされていた孝代は、シートベルトなどしめられなかった。結果は……、


急性きゅうせい硬膜下こうまくか血腫けっしゅですヨ。応急処置はしました」


 その「応急処置はした」というのを彩子ではない者が言ったのならば、「安心だ」といえたかも知れない。


 だが彩子が――医師が口にしたいう事は、別の意味を持つ。



「手遅れ、か……?」



 時男が聞かずとも、その通り。


「えェ。あとは、見取みとり介護かいごくらいしか出来ませんネ」


 孝代は、もう意識を取り戻さない。


 彩子が口にした傷病名を、時男も知っている。


 ――急性硬膜下血腫は意識障害を伴うし、くも膜下出血や脳浮腫のうふしゅを併発しやすい……。


 極めて予後が悪いものの一つだ。


「意識が戻るのは、奇蹟のような確率……」


 時男が椅子に座ったのは、ただそこに椅子があったからに過ぎない。なければ床に崩れ落ちていた。

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