3 伊豆玲斗と継田承子

 あまり興味のない講義など、受けるもんじゃないな。伊豆いず玲斗れいとは文学部棟の教室のひとつで、頬杖をつきながらそんなことを考えた。

 ちょうど、哲学の講義が終了したところである。彼自身、物事を深く考えることは好きなので、哲学に対して拒否反応を示すようなことはなかったのだが、今回は違った。大学に所属する教員および研究者は、当然だが何かひとつの学問分野――という言葉ではその狭さを表現しきれないほど、とにかく狭い範囲の物事に熱中する者が大半である。つまり彼らが熱弁するときの講義内容は、ほとんどの者にとってあまり有用性を見出せないものであった。

 授業のコマの関係で仕方なく取った側面があるものの、これならば何の授業も獲らないでいた方が有意義だったかもしれない。教室から教授が出ていくのを見届けて、伊豆はそんな気持ちをため息として吐き出す。伊豆は真面目かつ、生産性と計画性の高い学生であったため、他のいくらかの学生のように、講義中別の講義の課題に取りかかる必要性もなかった。

 かといって、彼は講義中に執筆活動を進める気にもなれないでいたのである。物語を書き進めるには、かの教授のお言葉は騒がしすぎた。頭の中で構成を練るにも不適な環境。そのため、この時間で彼が得たものは、純粋な虚無感だけだった。

 損をしたような感覚のために、彼はなおのこと、このあとの執筆時間をできるだけ最大限効率よく、有意義なものとしようと、静かに意気込んだ。

 伊豆はリュックを片方の肩に担ぎ、ノートパソコンをしまったケースをイスの下から持ち上げようとする。しかし手応えがない。たしかこのあたりにあったはずなのだが……。彼は少しだけイラついて、左手でイスの下をまさぐった。

 一向に、何も手に触れない。彼はイスの下を覗き込む。何もない。彼はイスから立ち上がり、周囲の席を探してみるが、それでも何も見当たらなかった。

 まさか、誰かが自分のものと間違えて持って行ったのではないか。伊豆はそんなことを考えて、すぐに頭を振った。いや、自分の近くには誰も座っていなかったはずである。間違えて持って行ってしまうような誰かは存在しない。じゃあ、いったい誰がいつ、何のために……?

 髪を染めるようなことはしていないが、光の加減によって青の混じった灰色にも見える彼の黒い髪。その前髪から覗く、鋭いというよりは冷たさを感じさせる細い瞳。それがかすかに、怒りの炎に包まれた。

「――伊豆玲斗」

 そんな状況で突如名前を呼ばれたため、伊豆は睨むように、その声の主を振り返る。しかしその冷たい眼差しに動じることなく、同じく冷たさを感じさせるひとりの女性が、そこに立っていた。

 灰色のロングヘアーは、右側がボリューミーになるように分けられている。毛先が傷んでいるというわけではないが、ところどころ外側や内側に跳ねており、見る者に「ぶっきらぼう」な印象を与えた。目は大きいはずだが、眠たげに上まぶたが半分ほど閉じられているため、まるで寝起きのようなアンニュイな雰囲気が漂っている。伊豆は恋愛に興味がなかったが、彼女には「残念美人」というフレーズがお似合いだなと思った。

 そして一際目を引くのが、彼女の着ている白いTシャツにプリントされた“SAVE THE EARTH”という緑色の文字だった。まるで、環境運動家のようだ。伊豆の通っている大学にも、環境保全を呼びかける学生集団があったが、彼女はそれに所属しているようには見えない。地球環境など放っておいて、惰眠を貪っていそうな印象を受けたからである。

「君のパソコンを、さっき見つけたんだけどね」

 しゃがみこんでいた伊豆は、どこを見ているのかわからない彼女の瞳に見下ろされる。彼は立ち上がって彼女に向き直ると、自分よりも10センチほど彼女の背が低いことに気付く。およそ、165センチメートル。女性にしては背が高い方だなとも思った。

「そうか。ちょうど困っていたところなんだ」

 伊豆は、ぶっきらぼうに返事をする。傍から見れば、クールなふたりはお似合いのカップルのようにも見えた。

「案内するよ。ついてきて」

 彼女はくるりと振り返る。腰まで伸びた髪の毛が、空気をかき回した。

 持ってきてくれたわけじゃないのか。伊豆は首元を右手で掻きながら、その不満を飲み込んで彼女の後ろ姿を追いかける。




 伊豆のパソコンは、図書館の3階、屋外テラスにぽつんと置かれていた。飲食禁止の図書館で水分や簡単な食事を摂取しようとすると、必然的にこういったスペースに来ることになる。

 しかし伊豆は、ここに来たことがなかった。当然、この場所に自分がパソコンを忘れていくこともない。そうなるとやはりパソコンは、退屈な講義の最中、何者かによって持ち出され、ここに置かれたということになる。そしてそれを彼女が見つけたわけだが、そうでなければ一生見つからなかったかもしれないなと、伊豆は恐怖した。

「すまないな。感謝する」

 伊豆は礼を言うと、ケースを持って立ち去ろうとする。しかしケースは、伊豆より先に女に掴まれた。彼女はそれを、ぐっと伊豆に差し出す。

「きちんと動作するか、確認した方がいい」

 心配している言葉に思えないほど、熱のこもっていない言葉。伊豆は一瞬たじろぐが、「ああ」と返事をしてからそれを受け取り、近くのベンチに座る。

 テーブルの上にパソコンを広げた。電源ボタンを押すと、蚊の鳴くような起動音が小さく聞こえる。ユーザー選択と、ログイン画面。ここまで何の問題もない。何食わぬ顔で隣に座って画面を一緒に見ている女が気になったが、伊豆はパスワードを打ち込んだ。

 すぐに、パスワードが違いますという表示が現れる。伊豆玲斗は怯んだ。まさか、隣に女性がいるからと緊張して打ち間違えたわけじゃなかろう。

 再度打ち込んでも、返ってくるのは同じアナウンスだった。一向に、ログインできない。これは、困ったことになった。まさか今更、パスワードを覚え間違えていたというわけでもあるまい。

「ちょっと、貸してくれる?」

 女はそういうと、伊豆の同意を得ないままパソコンをずいっと自分の前まで持ってきて、何やら複雑な文字の組み合わせを打ち込んだ。伊豆は自分のタイピングスピードに自信があったが、彼女の足元にも及ばないじゃないかと、自信を失いつつあった。彼女の指の動きは、一切目で追うことができない。

 驚異的なスピードのタイピングが止んだと思うと、彼女はゆっくりエンターキーを押し込んだ。しばらくして、伊豆の見慣れた画面が表示される。

「……おい」

 伊豆は、眉をひそめながら言った。

「何?」

「……パスワード、変わってたぞ」

「そうだね」

「……何で、それをお前が知っている?」

「変えたの、私だし」

 伊豆は彼女の肩を揺さぶろうとしたが、その両手首は彼女に押さえられてしまう。まるで、予測していたかのような動き。細く白い腕からは想像できない圧力。伊豆は、彼女を糾弾することを諦めた。

「――何が目的だ?」

 ため息混じりに、伊豆が尋ねる。女は悪びれもなく、キーボードの上に指を滑らせた。

「私の気が済むまで、一緒にいてほしくて」

「は?」

「私がいないと君は、このパソコンを開くことができない。もちろん、書きかけの小説を完結させることもできない。人間関係よりも執筆を優先させる君はきっと、この誘いを断ることができないでしょう?」

 誘いというか、脅しじゃないか。伊豆は口に出さない。

「申し遅れたね。私は、継田つぐた承子しょうこ。気軽に、承子さんと読んでくれて構わないよ」

 誰が呼んでやるものかと、伊豆は彼女を睨んだ。

 それを気にも留めない彼女の視線は、ちょうどそこから見下ろせる、図書館前の広場に向けられていた。


(つづく)

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