第10話 初めて、手を……


 旅に出るなんていっても、それこそ何一つ用意はない。

 出かけようって仁堂くんが言って、私がうなずいて、2人で泳ぎだせば出発だ。


 あまりのあっけなさに、笑いがこみ上げてきた。

 元の体のままだったら、せめて着替えとお風呂セットとドライヤー、鏡とリップぐらいは絶対必要。

 キャンプだったら、水筒とか食料だって必要だよ。

 まして、好きな人との最初の旅行なんて言ったら、どれほど荷物が膨れ上がるか想像もつかないな。せめて可愛いパジャマぐらいは欲しいし、2泊だったら、同じのじゃイヤだしね。


 2人で並んで泳ぎだして、少ない足でたどたどしく泳ぐ仁堂くんの横で、私……。

 仁堂くんが方向転換できなくて苦労すると、気がつかなかったふりでそっとぶつかる。

 頭と頭、というより、おでことおでこをそっと寄せ合って、仁堂くんの泳ぐ方向をそっと変えてあげる。

 イカの胴って言われている部分を使ってだ。

 もう、ホント、頭なんだか胴なんだか、足なんだか手なんだか、ややこしい身体だわっ。


 で、おでことおでこを寄せ合って、目と目を合わせて、深海の暗い海流に乗ってかなりのスピードで進んでいく。

 これってね、雪の降る中で2人きりの傘の中、みたいな感じがあるの。

 外界から遮断されて、この世で生きているのは、私と仁堂くんだけ。

 そんな感じ。



 私、勇気を振り絞った。


 そっと、それはもう、そおーっと手を伸ばす。

 仁堂くんの手に向けて。

 仁同くんの腕、足がない分もフル活動で動いている。

 その先に、偶然を装って、手を触れる。


 仁堂くん、ぴくっとしたようだけど、私の気のせいかもしれない。

 そのまま泳ぎ続けている。

 私、偶然を装って、もう一度。

 仁堂くんの泳ぎ、さらにぎくしゃくしたものになる。

 きちんと息ができていなくて、水を吹き出せていない。


 仁堂くんの力強い腕が、空回りしている。

 今度は、明確に、仁堂くんの腕の先に触れる。

 仁堂くん、泳ぐのをやめた。

 私、そっと仁堂くんに寄り添う。


 「あおり……」

 「仁堂くん。

 私だけの仁堂くんになってくれる?」

 今の仁堂くんに、言葉を求めるのは無理かもしれない。

 でも、でもでもでも。

 私は仁堂くんを独り占めしたかった。


 深海を2人きりで泳ぐこの感覚だけでなく、言葉としても仁堂くんの想いが欲しかったの。


 おずおずと、仁堂くんの腕が私に向かって伸びる。

 私の手も、仁堂くんの手に向けて伸びる。

 2つの手が触れ合った瞬間、ものすごいスピードで離れる。

 でも、それでも、またおずおずと腕を伸ばし合い、その先の手を触れ合わせる。


 それを2回繰り返して、3回目。

 ようやく仁堂くんと、手と手を繋ぐことができた。


 うれしいよぉっ!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る