第14話 新生物の誕生

「ピキィィィィィッ!!」


 優しい手付きで慰撫されていた状況から一転し、背中に噛み付かれた無毛種の天竺鼠スキニーギニアピッグは鋭く甲高い叫び声を上げた。

 そして天竺鼠モルモットの黒褐色の肌から、一筋の血液が流れ落ちる。

 突然の痛みと被食者としての扱いに、天竺鼠は生存本能に衝き動かされるようにもがき手足を振り乱していた。

 逃れられない死の抱擁と察知し諦めたのか、それとも自らに迫り来る死を受け入れてしまったのか……その抵抗は弱々しいものへと変じて行った。

 ビクビクと小刻みな痙攣を見せる天竺鼠、それすらも次第に弱まりクタリと力なくアハスエルスの両掌の上に横たわるのみ。


「まさか……失敗したんか?

 1900年を経たウィルスは、既に感染力すらもうしのうてしもとったんやろか……いや……アハスエルス氏が屍者として存在しとるからには、ウィルスは体内で活性化されとる筈や………」


 眼前で繰り広げられる猟奇的な食餌の場面シーンに、来栖龍人は実験動物の行く末から目を離せずにいた。

 一方の紫合鴉蘭はニンマリと悦に入った笑顔を見せて、事態の推移を冷徹に見守っている。


「アハスエルスさん、生き血に興奮する気持ちは理解出来るのですが……殊更に小さい個体の天竺鼠ですからねぇ、余りにも血を吸い続けると乾涸びてしまいかねませんよ。

 ほらご覧なさい、もう一割は萎んでしまったらじゃあありませんか?」


 揶揄からかい当て擦るような鴉蘭の声音に、アハスエルスはハッとしたような表情で顔を上げる。

 その口の周囲まわりは、ベットリと天竺鼠の血で汚れていた。

 感染症の影響で血を欲する躰とはなっているが普段は紳士的なアハスエルス、しかして生き血に塗れる吸血鬼の顔は一種凄惨な雰囲気を漂わせていた。


「あぁ……済みません。

 生き物の血を啜るのが初めてなもので……全く加減が出来ていなかったようですね。

 この子が無事だと良いのですが………」


 輸血用のパックでは得ることが不可能な、生々しい体験を通してアハスエルスの顔は常になく上気しているようだ。


「いやはや、吸血鬼と呼ばれる存在の食餌風景を、僕も初めて拝見しましたが……中々に煽情的エロティックで情念に訴えかけるモノがありますねぇ」


 鴉蘭の正直な感慨を込めた言葉に、龍人も同様の感想を抱いたものの……初めて生き血を啜ったと云うアハスエルスの感情を慮って、特に言葉も発せず天竺鼠の姿を注視し続ける。

 その時アハスエルスの掌の上で、グッタリと横たわったままの個体が、小さく震えるように身じろぎしたように見えた。


「アハスエルスさんっ!

 天竺鼠……動いてませんか?

 ほらっ!ヒクヒク云うて鼻を動かしてますやん!」


 思わず大声をだした龍人を、鴉蘭は軽く睨みながら嗜める。


「来栖龍人君、興奮してしまう気持ちは判るのだけれど……先刻から君は五月蝿すぎるよ。

 ホントにもう、困ったお子さま研修医だよねぇ……君は………」


 興奮し声を張り上げた事実は事実として、深く恥じ入った龍人は詫びの言葉を述べる。


「はぁ……紫合教授、申し訳……ありませんでした。

 驚きの余り……取り乱してしまいまして………」


 引き続きと詫びの言葉を言い繕おうとする龍人に、鴉蘭は人差し指を口に当ててシィッと言うや己が教え子に告げる。


「つまらない言い訳など必要ないから、天竺鼠の姿をよおく観察してい給え。

 これから僕達は、恐らく1900年ぶりに発生する……生命の神秘を目の当たりにするのかも知れないのだよ。

 このような時は、静かに見守ると云うエチケットを覚えておきなさい」


 無言で頷いた龍人の前で、天竺鼠の腹部がビクンと跳ねた。

 みるみる内に無毛の表皮に、血管を網の目のように張り巡らせ、その血管も激しく収縮と膨張を繰り返す。

 アハスエルスに血を啜られていた時の数倍の強さで、激しく強烈な痙攣に見舞われる天竺鼠。

 小さな躰に見合った小さな眼を、飛び出さんばかりに見開き、高まる内圧に押された眼球は外側に三分の二近くも飛び出して来ているように見える。

 口からは血の泡が吹き出し、四つ脚は脳の制御から切り離されその全てがてんでバラバラに動き回る。

 のたうち回る断末魔の痙攣めいた、狂躁の動作はそれから十数秒は継続しただろうか。

 再び細かい痙攣の発作を起こした天竺鼠は、力なくコトリとアハスエルスの掌の上で倒れ伏した。


「今度こそ……死んでしもたんか………?」


 絶望感に満ち溢れた龍人の声が聞こえたのだろうか、先程までの狂態が嘘のように天竺鼠は黒褐色の身を起こし、鼻をヒクヒクと動かしながら周囲の様子を伺う気配か。


「ゆ……紫合教授、これは……コイツは……成功……したんですやろか?」


 恐る恐ると云った風情で、龍人は隣に立つ鴉蘭へ声をかける。


「さあねぇ、実験結果の可否を確認するためには、実証実験が必要だと云うことは……来栖龍人君のような尻の青いひよっこ研修医にでも理解出来るだろう?

 これから僕達が行わなければならないことは、選択肢としてそう多くないと思うのだが……君には理解不能な案件なのかい?」


 言い放つなり懐に手を入れた鴉蘭は、その手に漆黒の革製ケースを取り出した。

 昨日アハスエルスの頸動脈を断ち切った、外科用メスが収納されていた件の匣である。

 匣からメスを抜き取った鴉蘭は、右手にメスを構えてアハスエルスの傍へと歩み寄る。


「アハスエルスさん、申し訳ないのだけれども……その子を少し押さえていてくれませんかねぇ。

 ちょっぴり痛いかも知れないけれど、多分……大丈夫だと思いますよ〜」


 メスを片手にアハスエルスの掌に抱かれた天竺鼠へと近付く彩藍、その猫撫で声とニヤニヤ笑いの張り付いた笑顔の不気味さに、龍人は『このオッさん……絶対に小児科に配置したらアカン人間や……恐ろしいって云うか……にも程があるで………』と感じ、背中を冷たいが走り抜ける感触に、怖気を震ってしまう。


「ほぉ〜ら……天竺鼠ちゃ〜ん……怖くないからねぇ〜………ちょっとだけ僕に切り刻まれてくれるかなぁ〜?」


 迫り来る鴉蘭の姿を認め、天竺鼠はアハスエルスの掌の上で恐怖に固まりブルブルと震えている。


「いやいや……あれは一番やったらアカン怖いヤツやん…………。

 あの天竺鼠も可哀想に……もう既に死んだような躰かも知らんけど……生きた心地はせぇへんのやろなぁ…………」


 龍人の呟きも聞こえぬ程に、鴉蘭はアハスエルスに抱かれた天竺鼠に集中している。


「ピィィィッ!!」


 余りの恐怖に耐えかねた天竺鼠は、脱兎の如く……いや脱鼠の如くアハスエルスの掌から飛び出した。

 飛び出した先には鴉蘭の顔、慌てて顔を庇った鴉蘭の右横を天竺鼠がすり抜けるように飛んで逃げる。


「ピピィッ!」


 顔を庇った鴉蘭の手にはメスが握られていて、偶然にも飛び出した天竺鼠の右後脚を鋭い切先が深く傷付ける。


「ピィィ………ピィ…………」


 落下の衝撃と、右後脚の付け根付近を切り裂かれた痛みと驚愕ショックで、天竺鼠は床面にへたり込み動けぬ様子。

 そんな哀れな天竺鼠を見下ろし、鴉蘭は勝ち誇ったような顔で宣言する。


「この……バカ鼠っ!

 それ見たことかっ!

 最初から僕の言うことを聞いていれば、そんな惨めな格好で深傷を負うことなどなかったのにっ!

 本当に畜生は畜生だねぇ、愚か過ぎて哀しくなってしまうよ」


 半ば笑顔を浮かべながら天竺鼠を罵る鴉蘭、その姿をチラ見しながら龍人は『ホンマに駄目なオッさんや……天竺鼠に飛びかかられて、本気でビビってしもたんやろなぁ………』などと考えながらも、当の天竺鼠の様子からは目を離さずにいた。

 恐らくはメスで切り裂かれた傷だけではなく、落下時の衝撃で脚のどこかも骨折等はしていたのだろう。

 それでも追い詰められた獣の本能で、鴉蘭の傍から離れようと蹌踉よろけながらも這うように逃げて行こうとする天竺鼠。

 床に血の跡を引き摺りながら数十センチは逃げただろうか、その後はうずくまり身動きを止めたと思ったその時、天竺鼠はブルリと身を震わせるといきなり駆け出した。

 あらゆる負傷を感じさせる余地もない、見事な逃走だった。


「おぉっコイツめ、急に元気な様子になったぞ……見給え来栖龍人君、僕達の実証実験は大成功だ!

 アハスエルスさん、これで貴方の治療にも目処が立ったようなものだよ。

 いやいや元気な生き物は良い物だねぇ、可愛い小動物を見ると……本当に癒されるね」


 先程までの小動物を虐めて、傷付けて勝ち誇ったような姿は何処へやら……鴉蘭は眼を細めて天竺鼠を愛でるように眺めている。

 そんな様子をアハスエルスは苦笑いを浮かべ、龍人は呆れ果てたような表情で眺めていた。


「それではアハスエルスさん、この子は貴方にお預けします。

 検体の採取の際には、ご協力を宜しくお願いしますね」


 鴉蘭を見れば怯えて逃げ惑うようになった天竺鼠を、龍人が優しく捕らえてアハスエルスへと手渡した。

 受け取ったアハスエルスは、その両腕に天竺鼠を抱き抱えて鴉蘭と龍人の両名を見送る。


「それでは紫合先生、来栖先生……今後とも宜しくお願いします」


 深々と頭を下げるアハスエルスに鴉蘭は、にこやかに手を振り……龍人はアハスエルスと正対しこちらも深く頭を下げる。


「アハスエルスさん、飼育に必要な物があれば何でもお申し付け下さい。

 私が責任を以って段取りさせて戴きますので、それでは本日はこれで失礼します」


 二人の医師を見送るアハスエルス、その腕に抱かれた小さな動物を見る目は優しげであり、その小さき存在を慈しむような眼差しでもあった。





 ※スキニーギニアピッグ(無毛種のモルモット)とは、1970年代後半に発見され家畜化された種であるが、作中では医学用の動物実験に特化した存在として……1948年時点で存在していると云う設定になっている。

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