第35話 震える

 世界のどこかでは今も戦争が起こり、無惨な殺し合いが行われていて、今この時も、理不尽に命が奪われ、人は死んでいる。でも、そんなことはどうでもよくて、どうでもよくないけど、どうでもよくて、目の前にあるこの、否応ない生と死が、やっぱり生と死で、それが私の世界のすべてだった。

 人はみないずれ死ぬし、人類だっていずれは滅びるわけだし、というか宇宙そのものがいずれはなくなる訳だし、世界中で戦争や貧困で、苦しみ、私たちなんかよりももっと不幸な人たちはたくさんいて、生きていくために自分の腎臓を僅かばかりのお金で売る子どももいる。生まれた頃から実の親に虐待され、幼くしてなんの幸せも知らずに死んでいく命もある。私たちよりももっと不幸な人たちはたくさんいる。そう、たくさんいる。

 でも、そんなの現実じゃない。現実だけど現実じゃない。私の現実はやっぱり、今目の前にある彼の死なんだ。やっぱり、私たちは今この瞬間世界で一番不幸な存在なんだ。


 なかったことにしたかった。だから、私はあのことを何も言わなかった。あれから、彼も何も言わなかった。私はただひたすら考えないようにしていた。あのことを――。あの言葉を――。

「ううううっ、あああ」

 凄まじい発作だった。彼の全身が震え。痙攣していた。彼の目は白目を剥き、意識が飛ぶ。

「うううっ、あああっ」

 しかし、意識が飛びきらないのか、彼は半覚醒の状態で叫び続ける。

「殺してくれ」

 彼が呻いた。

「殺してくれ」

 そして、叫んだ。彼は私を見ていた。確かに私を見ていた。何も見ていないはずの彼の目は、確かに私を見ていた。

 体が今までに経験したことのない激しさで、ぶるぶると震えた。自分の体が自分の体じゃないみたいに、何か本当にそういった機械で震わされているかのように私の体は、ガタガタと震えた。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 私はそれだけしか言えなかった。

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」 

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 私は念仏のように、それだけを繰り返した。

 もう、彼の死を悲しむ余裕すらもなかった。とにかく、この目の前の苦しみが早く終わってほしかった。早く早く。早く早く。早く終わって。

「うううっ、うぐぐっぐっぐぐぐ、ああああ」

 彼は狂ったみたいに叫び、呻いた。もう、そこに彼はいなかった。でも、確かに彼はいた。

「・・・」

 私は震える手で彼の首に手を伸ばした。そして、彼の首に触れた。そのリアルな肉感が、私を怯えさせる。私の手は震え、歯はガタガタとありえないくらいに鳴り、全身が、マイナス三十度の極寒に裸でいるみたいに脊髄の芯から冷たく凍った。

「できない」

 死なんて、漠然と頭で考えているようには、軽くもなく、やさしくもなかった。

「できないよ」

 死なんてものの前に、そこには人がいて、彼がいて、確かな体があった。それは越えられない、越えてはならない、別の世界への線であり、壁であり、境界だった。死に向かう彼は、生きていた。その肉体は現前と生きていた。

 映画で、殺し屋なんかがかんたんにやるように、人なんか殺せなかった。そんなこと絶対に無理だった。目の前には人間がいて、彼がいた。

 逃げ場のない痛みが私をぐさぐさと刺していく。痛くて痛くて気を失いたいのだけれど、それが許されない目の前のどこまでも迫りくる苦しい苦しい現実。

 私は震えた。ただ部屋の片隅で小さく身を固め、震えた。ガタガタ、ガタガタと、私は震えた。もう何も考えられなかった。そこにはただ冷たく固まった私という物体があるだけだった。

「うううっ」

 耐えられなかった。この目の前の現実に、私は耐えることができなかった。いっそのこと、発狂してしまった方が楽だと思うほどに私は震えた。

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