第25話 別れ話

 今日も彼はいつもの場所で絵を描いていた。私もその隣りでそれを眺めている。

 そこだけを見ればなんの変哲もない、いつもの平穏な日常だったろう。他人から見たら変なカップルが、何か妙なことをしている、社会の取るに足らない一片といった感じだろうか。だが、私たちにとってはその時の何気ない一瞬一瞬が、貴重で特別な時間だった。

「うううっ」

 彼は突然右の脇腹を押さえる。そしてうずくまっていく。

「どうしたの?また痛み?」

「うん・・」

 前回とはまた違ったところだった。

「ううっ」

 彼の顔が苦痛に歪む。相当痛そうな表情だ。

「救急車・・」

「いや、いい」

 やはり、彼は苦痛の中で拒絶する。

「病院に行って、痛み止めとか・・」

 しかし、彼は首を横に振る。

「大丈夫、しばらくじっとしていれば治まる」

「うん・・」

 私は力なく答える。でも、心配で仕方なかった。

 私は彼の横に寄り添い背中をさする。それが何の慰めにも治療にもなりはしないことは百も承知で、でも、それしかできない私は彼の背中をさすり続けた。

 彼は痛みを抱えたままうずくまり、そのまま地面に横になってしまった。私はおろおろするばかりで何もできなかった。

「やっぱり、救急車・・」

「いや、いい・・」

 彼は苦しそうに拒絶する。

「・・・」

 ただ見ているだけで何もできない自分が苦しかった。せめて何か彼のためになることができるならそれが私の慰めにもなっただろう。しかし、何もできなかった。何も・・。

 ただ、苦しみにのたうち、そのまま地面に横になる彼を見ているしかなかった。


 以前のように、しばらくして彼は顔を上げた。

「大丈夫?」

 私が彼の顔を覗き見る。

「うん」

 でも、そう言って顔を上げる彼の額には大粒の脂汗が滲んでいた。

「ふーっ」

 彼は大きく息をついた。

「僕のおばあちゃんはね」

 起き上がり、尻もちをつくように地べたに座り込むと、彼が、まだ苦痛の残る苦しそうな表情でぼそりと言った。

「やっぱりガンでね」

「うん」

 私が答える。

「最後の方は痛みが酷くてね、それでモルヒネをたくさん使ってさ、それで、もう頭がおかしくなっちゃって、何か訳の分からないことをしきりに言っていたよ。それが子ども心にとても怖かったのを覚えてる」

「・・・」

「だから、僕はギリギリまで、使いたくないんだ」

「でも・・」

 しかし、彼はそのままうつむいたまま黙ってしまった。

「・・・」

 私には何も言えなかった。私は彼にかける言葉すら何も持っていなかった。

「なあ」

 彼が突然顔を上げ私を見た。

「ん?」

 私も彼を見返す。彼はいつにない真剣な顔をしている。

「別れないか」

「はい?」

 私は驚いて彼の顔を覗き見る。

「別れよう」

「えっ?」

 私はもう一度彼を覗き見る。

「僕は一人で死にたいんだ」

「・・・」

「君がいるとちょっと迷惑なんだよ」

 彼はちょっと怒ったような表情をしていた。それは私が初めて見る彼の顔だった。

「・・・」

「・・・」

 お互い黙り込む。

「邪魔なんだ」

 彼は睨むように私を見る。初めて見る彼のそんな攻撃的な顔だった。

「君は邪魔なんだ」

 彼は冷たい声で言った。

「僕の前から消えてくれないか」

「・・・」

 私は突然のことに言葉もなく彼を見つめ返す。

「そして、もう僕の前に現れないでくれ」

「・・・」

 私は固まってしまっていた。

「・・・」

「・・・」

 また私たちの間に沈黙が流れる。

「ふふふっ」

 そして、私は思わず噴きだしてしまった。

「えっ、なんで笑うの」

 彼が驚いて私を見る。

「だって、ふふふっ」

「いや、だから・・、別れ・・」

「いいよ、もう」

「えっ、うううん」

 彼は言葉がなくなり、うなってしまう。

「もう、いいからそういうの。似合わないよ。ふふふ」

「うううん」

 彼は、さらにうなりながら悩まし気に頭をもさもさと掻きむしった。

「ふふふっ」 

 そんな彼の仕草に私はまた笑ってしまう。彼の不器用な気遣いが、彼らしくてかわいかった。でも、見え透いていてすぐに分かってしまう。

「ふふふっ」

 そんな分かりやすい彼がやっぱり彼だった。やっぱり、彼を好きになってよかった。私は思った。

 彼は困ったように、ぼさぼさの頭をもしゃもしゃと掻きむしった。

「何がダメだったの?」

 彼は素直に訊いてきた。

「はははっ」

 その不器用さの自覚のない不器用さが、それがまたおかしかった。私は笑った。

「はははっ」

 彼も笑った。

「はははっ」

「はははっ」

 私たちは笑った。

 やっぱり、私たちは幸せなんだと思った。

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