第21話 世界の片隅で無茶苦茶を叫ぶ

 私たちの苦しみなんか関係なく、今日も天気は上々だった。生命にとって幸福で慈愛に満ちた温かい光りが、この世界に燦燦と降り注ぎ、その下で、子どもたちが元気いっぱい、生きている喜びを全身で表しながら走り回る。私たちの存在など関係なく、世界はその世界の都合と法則で回り続けている。

 今日の彼は、死ぬなんて信じられないくらい元気だった。

 でも、時間は確実に流れていて、止まらない何かに向かって近づいている。残された時間は確実に減っていき、彼の体は日に日に病魔にむしばまれている。

 彼は絵を必死で描き続けた。歯を喰いしばり彼は描き続ける。今までのいつ完成するのかといったのんびりとしたマイペースではなく、刻一刻と失われていく時間の中で、死に追われている焦りと苦しみを背負いながら、かなりのハイペース、いやオーバーペースで描き進めてゆく。

 まるで別人のように彼は変わってしまった。彼の人格ともいえるあののんびりとした余裕がなくなり、いつもピリピリと何かに苛立ち焦っていた。子どもたちだけでなく、私までなんだか彼のことが怖くなってきた。彼はもうあの彼ではなかった。

 今日も鬼神ごとく描き続けていた彼が突然描く手を止めた。そして、そのまま地面に座り込んでしまった。

「大丈夫?」

 私は慌てて駆け寄る。

「ああ、大丈夫、ちょっと疲れただけだよ」

「お茶飲む?」

「うん」

 私は、彼の隣りに座り、持ってきていた水筒から冷えた麦茶を蓋謙コップに注ぎ彼に渡した。

「ありがとう」

 彼は絵を見つめたまま麦茶を飲んだ。そして、大きく息を吐くとそのまま黙ってしまった。最近の彼の意識は常に絵の中にあった。

「そう来たか」

 彼は突然、絵を見つめたまま呟いた。

「何が?」

 私は彼を見た。

「恋の終わり方さ」

 彼は穏やかに言った。彼は絵を見つめ続けていた。

「前に言っていただろう」

 そこで彼は私を見た。

「こんな結末だったんだな」

 彼は再び絵を見つめ、諦めを滲ませるように言った。

「こんな終わり方だったんだな・・」

 私たちの間に沈黙が流れる・・。

「もっと違う何かだと思っていたよ・・、もっとこう・・」

「終わらないわ」

 私は彼の言葉を遮るように言った。彼が少し驚き、私を見る。

「終わらないわ」

 私はむきになってなってもう一度言った。

「君は強いな」

 彼は私を見て呟くように言った。

「・・・」

 違う。私は弱い。でも、それを言葉に出来なかった。

「終わらないわ。私とあなたの恋は終わらないわ。絶対に終わらない」

 でも、そこには根拠も理屈もなかった。それでも、私は強く叫ぶように言った。私は認めたくなかった。彼の死を。この恋の終わりを。認めてしまえばそれが本当になってしまう気がした。

「・・・」

 彼は冷静にそんな私を見ていた。

「終わらないわ・・」

 彼が言いたいことは分かる。私だって分かっている。

「絶対に終わらないの・・」

 そんなことはない。彼の言うとおりだ。彼は死ぬ。この恋は終わる。そして、それは、事実だ。そんなことは分かってる。分かってるけど、これは理屈じゃない。理屈じゃない。物理でもない。化学でも宇宙法則でもない。常識でもない。そんなんじゃない。

「理屈じゃないの。そうじゃなくて、やっぱり終わらないの。絶対終わらないの」

 私は絶対に勝てない相手に悪あがきし、叫び続ける。

「終わらないのよ。絶対に・・」

 絶対に認めたくなかった。私は・・、私は・・。

「君は今、とても悲しいんだね」

 そんな私に彼はやさしく言った。

「うん」

 私は彼のその言葉に思わず泣いてしまった。泣きたいのは彼の方なのに・・。

「私のせいだわ」

 泣きながら私は言った。

「えっ」

 突然、また妙なことを言い出す私を驚いて彼は見る。

「私のせい」

「それは関係ないと思うけど・・」

 彼は戸惑い気味に言った。

「みんないなくなっちゃうの」

 私はしゃくり上げながら言った。

「えっ」

「みんな私からいなくなっちゃうの」

「・・・」

 彼はぽかんとして私を見る。

「みんなどっか行っちゃう。私と付き合った人はみんなどっか行っちゃうの。新しい彼女が出来たとか、私がウザイとか、電話しても出なくなるとか、この人は大丈夫だって思ってたとってもやさしい人も、悟りを拓くんだって言って、突然チベットに行っちゃったし、みんな私を置いてどっか行っちゃうの。私はいつも一生懸命なのに、みんなどっか行っちゃうの」

 私は泣いた。泣いたってどうしようもないんだけど、泣くしかなかった。

「みんなどっか行っちゃうの。私を残して行っちゃうの」

 何訳の分からないことを言っているんだろうと自分でも思ったが、もう何がなんだか自分でも分からなかった。とにかく溢れ出す感情をどんな形でも言葉にするしかなかった。

「でも、あなたは大丈夫だって思った。あなたはずっと私のそばにいてくれるって思った。この人だって思った。この人に出会うために、だから、みんな去って行ったんだって思った。それは確信だった。絶対だって思った。だから・・、だから、大丈夫。あなたは死なない。絶対死なない」

 自分でも無茶苦茶なことを言っていることは分かった。でも、絶対に許せなかった。認められなかった。彼が死ぬなんて。

「絶対死なないもん。死なないもん」

「・・・」

 彼は黙って私の無茶苦茶な話を聞いてくれていた。

「私がこんなに愛しているんだもん。おかしいよ。やっと出会えたんだよ。やっと出会えたんだよ。この人だって。この人だって思ったんだもん。おかしいよ。おかしいよ。そんなあなたが死ぬはずない。絶対死ぬはずない」

 最後は絶叫に近かった。

「あなたを失いたくない。私の我がままだけど、百パーセント私の勝手な、自己中心的な我がままだけど、あなたを失いたくない。あなたを失いたくないの。うわ~ん」

 そして、私はもう子供みたいに泣いた。本当に駄々をこねる子どもそのものだった。

「あなたを失いたくないの。うわ~ん、うわ~ん」

 彼は、そんな私を温かく抱きしめ、そして、黙ってそんな私の頭をやさしくなでて慰めてくれる。慰めて欲しいのは彼の方のはずなのに、彼はやさしかった。そんな彼のやさしさに私はただ甘え、全身を預けた。

「私も・・」

 彼に慰められ、興奮が少し落ち着いた私は、呟くようにまた話し出した。

「えっ」

 彼が私を見る。

「私も・・、あなたと一緒。前に話してくれたでしょ」

「・・・」

「私も、生きていることが漠然と虚しくて、いつも生きづらくて、なんだかもうどうでもいいやって・・、でも、あなたに会えてそれでなんだか希望があって、それが見えて、だから、生きているってなんだか素晴らしいって思えて、だから・・、だから・・」

 私は彼の胸の中に顔をうずめた。この彼を、この彼の温もりを失いたくなかった。

「・・・」

 彼は黙って私の話を聞いていた。

「だから・・」

「もういいよ」

 彼がやさしく言った。

「うん・・」

「僕たちは、似ているんだ。そのことが僕たちなんだよ」

「うん」

「ごめんよ」

「えっ」

 私は突然あやまる彼を、彼の胸の中から見上げた。

「なんだか今の僕は僕じゃなかった。いくら時間がないからって、やっぱり今の僕はおかしい。全然君を見れていなかった。そのことに気づいたよ」

「・・・」

「ごめんよ」

「うん」

 彼はやっぱり彼で、彼はやさしかった。私は泣きながら笑った。

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