第12話 彼の不思議な体験

 彼の頭はいつ床屋に行ったのか分からないほど、放置された雑木林のように、髪がぼさぼさに伸び放題伸びていて、更にそれがまた酷いくせっ毛で、我がまま少年のように四方八方あちらこちらに自由にカールしている。しかも、髪の量が多くて、毛も太い。

 そんな彼を見て、多分現代に金田一耕助がいるとしたら彼みたいなのだろうと、一人想像して私は笑った。

「どうしたの?」

 不思議そうに彼が、そんな一人笑う私の顔を覗き込む。

「ううん、なんでもない」

 そう言いながらも、私はおかしくてまた笑ってしまった。私は一回笑いスイッチが入ると、一人笑いが止まらなくなってしまう。

「ん?どうしたの?」

「ふふふっ」 

 彼の戸惑う顔がおかしくて、私はさらに笑ってしまう。彼は不可解な笑いを続ける私を見て、その頭をいつもそうするようにごしごしと掻きむしった。彼は、何か困ったり、行き詰まったり、深い思考をしている時、いつも、その雀の巣のような彼の頭頂部をしきりにごしごしと掻きむしる。

 笑い続ける私を、気にしながら彼は絵を再び描き始める。彼は今日もあの場所で絵を描いていた。彼の絵は、私が最初に彼の絵を見た時と、何が変わったの?ってくらい、変化がない。彼の緻密なこだわりのある描き方は、相変わらず効率性がまったくない。

「ほんといつ完成するんだろうね」

 彼の描く絵を見つめながら、やっと笑いのおさまった私が言う。

「うん・・」

 彼は、絵に夢中になりながら生返事をする。今日も天気は最高に良い。私たちの真上に広がる空は、明るく輝くように青かった。

「このペースだと、完成した時には、私はおばあちゃんになってるね」

「はははっ」

 私のその物言いに、彼は笑った。彼もそう思っているのだろう。

「僕はおじいちゃんだな」

「そうだね」

 その時も、私たちはこうして一緒にいるのだろうか。私はふと思った。

「っていうか生きているうちに完成しない可能性もあるよ」

 彼が言った。

「はははっ、そうか」

 でも、それはそれでいいかと思った。彼を見ていると、なんだかそういう生き方や絵もあっていいような気がした。

「絵はどこかで習ったの?」

「いいや、まったく」

「そうなんだ。すごいね。全然習わなくてこんな絵が描けるんだ」

「絵っていうのはそういうものじゃないって僕は思うんだ。やっぱり絵は自分の絵を自由に描くべきだと思う。だから、僕はあえて習わなかった。描かされたり、他人と同じような絵を描くのは嫌だったから、自分が描きたい絵を自由に描きたいだけ描いた」

「ふぅ~ん」

「お金はそんなにいらないんだ。ただ自由があればいい」

 彼は言った。彼らしい世界観だった。

「好きなことを好きなだけやりたいんだ。それだけ」

「うん、それがいいと思う」

 私もそう思った。

「でも、何で樹の絵を描こうと思ったの?」

「僕は悩んでいたんだ」

「悩んでいた?」

「うん」

 悩みと樹の絵の繋がりが分からなかった。

「僕はある日、森を歩いていたんだ。その時、僕はとてもとても悩んでいたんだ。いろんなことに。絵のこととか、人生のこととか、人間っていう存在についてとか、戦争のこととか、もう色々。僕はもう、本当に悩んでいたんだ。自分が壊れてしまうんじゃないかってくらい真剣に悩んでいたんだ。実際、半分くらいその時の僕は壊れていたと思う」

「ふ~ん、そんな時があったんだ」

「その時、ふと一本の木に僕は気付いたんだ。その木は、荒々しくうねり逆巻き、叫んでいた。もう、何て言っていいか、とにかくすごかったんだ。木肌から立ち姿から、枝ぶりから、その姿が何かを叫んでいた。僕はそこに何か答えを見つけた気がした。そして、僕は周囲を見回した。その時、気付いたんだ。ここにあるじゃないかって。自然の中に全てがあるじゃないかって。僕の表現したいそういった全てがここにあるじゃないかって。自然の自然な造形の中に、心の全てがあるじゃないかって。景色だったり、自然の動きだったり、木の持つ木肌だったり、森の色だったり、色んな全てが、そこに心の表現として感情の表出として、ここにあるじゃないかって、僕は気付いたんだ。美術館に行って、高いお金を出して芸術を見なくても、ここにあるじゃないかって。人間の表現したいことの全てがここにあるじゃないかって」

「・・・」

「その時、僕はもう、全ての悩みが晴れて、笑い出してしまったよ。思いっきりね。何かがはじけたみたいに笑ったよ。その時に人が通らなくてよかった。通っていたらかなりやばい奴って思われただろうね」

「うん、絶対」

 今でも、かなりの割合でそうだ。

「それで、僕は樹の絵を描くようになった。樹の持つ、その木肌の渦の荒々しさに心の中の蠢きを見たんだ。その時悩んでいた、表現したいと思っていた心のうねりが、そのままそこにあったんだ」

「ふ~ん」

「分かるかい」

「全然」

 私は笑った。すると彼も笑った。

「だろうね。これは経験した者でないと分からないな。とにかく僕は感じたんだ。そしてそのことに気付いた」

「へぇ~、不思議な体験だね」

「うん、それから僕の世界を見る目は変わった。ガラッとね」

「ふ~ん」

 私は、あらためて彼の絵を見つめた。それは、やっぱり不思議な絵だった。でも、そこには確かに、心を揺さぶる強烈に何かがあった。

 私は彼の絵を良い絵だと思った。

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