第2話 

 休日。


 酒とタバコの匂いが充満する六畳間。


 フローリングに敷かれた万年床の上で、俺は天井の木目の数を数えていた。




 社会人になってから、休日は家でダラダラする事が多くなった。


 土曜日なんて特にそう。


 一週間の疲れとストレスを癒すために酒とタバコに溺れ、後はとにかく眠るだけ。


 そうやって僅かながらに回復された体力も、日曜日に家事をする事で使い果たされてしまう。


 すると、あら不思議。


 週末はあっという間に終わってしまい、また、地獄の一週間が始まってしまうのだ。


 毎週毎週同じ事を繰り返して、よく飽きないなと自分でも思っている。


 けれど、どれだけ週末の計画を立てようと、何かをしようと躍起になっても、結局、ダラダラと過ごしてしまうのをやめられないのだ。


 ダメだ。


 流石に今日は何かしよう。


 このまま何もせず、変わり映えのない日常を繰り返して年だけ取ってしまえば、孤独で凄惨な老後を迎える事はまず間違いないだろう。


 話し相手も身寄りもなく、毎日近所の公園で呆けて、家に帰ってテレビを眺めるだけ。


 そして、誰に看取られるわけでもなく、誰に悔やまれるわけでもなく、一人寂しく死を迎え、腐った死体が骨になっていく……


 考えただけで背筋が凍りそうになった。


 しかし、それは今の俺にとって最も近しい未来の姿であり、現実的な死の形だった。


 ……いや、まだだ。


 まだ、諦めるのも、老いるのにも早いだろう。


 24歳のサラリーマンだって、この高齢化社会の日本の中じゃ若者にカテゴライズされるはずだ。


 俺だって、まだまだ輝けるはず。


 きっと、変われるはずなのだ。


 今まさに、自身の変革が求められている。


 だから、何か新しい刺激を、新しい価値観を……




 ……俺は、何をすればいいんだ?




 自己の変革に必要なものは何か。


 代り映えのしない退屈な休日を有意義なものにするにはどうすればいいのか。


 考えてみたけれど、分からなかった。


 そもそも“休み”とは、週明けから始まる仕事に備えて疲労を回復させるために存在するもの。


 そんな社畜のような価値観に永らく蝕まれてきたせいか、俺は充実した休日の過ごし方というものを忘れてしまったようだ。


 えっと……俺、学生の頃とか何してたっけ?


 趣味とか……あったっけ?


 遠い昔を懐かしむように、過去の記憶を思い起こす。


 確か……学生の頃の休みは……




 バイト、してたな……




 遠い記憶を遡った結果、物凄く憂鬱な気分になってしまう。


 結局、今も昔も働いてばっかりじゃないか。


 もしかして、俺は天性の社畜なのか?


 労働を美徳とし、贅沢は敵だと宣う奴隷のような人間なのだろうか?


 いや、決してそんな事はない。


 働くのは生活のため、直接的に言うなら金が必要だからであって、労働そのものに生きがいを見出したことなんて一度もない。

 

 まとまった金(7億くらい)があったらいつでもあんなクソみたいな職場辞めてやりたいし、できる事なら永遠に布団の中でゴロゴロして、タバコを吹かして酒を煽っていたい。


 なんだったら、都合のいい女を彼女にしてヒモにでもなりたいだなんて思ったことだって……




 “彼女でもできれば仕事にも生活にも張り合いが生まれるかもしれませんよ?”




 自分自身に言い訳をしていると、不意に、東の言葉が脳裏を過った。


 彼女か……確かに互いを支え合え、互いを生きる理由にできるような存在が側にいれば、こんなクソみたいな人生も少しは楽しく思えるのかもしれない。


 けれど、そう上手くはいかないから俺の人生はクソなわけで。


 そう簡単にいい人なんて見つけられるわけがないと、心の中で静かに舌打ちをした。

 

 現に、今の俺には彼女どころか休日に連絡を取り合うような友達すら……


 そう、愚痴を溢すように手元にあった携帯電話を確認した時。


 とあるアプリのアイコンが、俺の目の中に飛び込んできた。




 「チャット+」という名前のピンク色のアプリ。


 先日、東に無理やり登録させられた出会い系アプリだ。


 東は頑なにそれを否定し、「マッチングアプリ」だと口を酸っぱくしながら言っていたが、システムや趣旨、アプリを利用する大多数の人間の目的を鑑みるに、出会い系アプリと認識して間違いないのだろう。


 もちろん、健全にチャットを楽しむ人も中にはいるのだろうが、利用者のほとんどが出会いを求めてアプリを利用しているのが実情なのだと思う。


 なぜなら、二十歳を超えた男女が、下心もなしにおしゃべりだけを楽しむだなんて事は到底あり得ないからだ。


 皆、自らの寂しさや侘しさを満たしてくれる相手を探している。


 それも精神的なものではなく、肉体的なものだ。


 だから、出会い系アプリを介して生じるトラブルや事件が後を絶たない。


 絶対とは言わないけれど、比較的に自身の欲望のみを満たさんために誰かを利用しようと考えるような人間が集まりやすいのがそれらのアプリの特徴だろう。


 本当に不潔で、本当に不健全だと思う。


 だが、しかし………………………。




 まぁ、どうせ暇だし、騙されたと思ってやってみるか……




 結局、自分の中にある寂しさや焦りや無力感に耐えきれずに、俺は自分が最も忌み嫌った人間達と同じ土俵に立つ事を決意してしまう。


 まぁ、何だ。


 所詮、俺自身も褒められたような人間ではないのだ。


 汚れなき純粋な志を持ったところでもう手遅れ。


 だったら肩肘を張らず、自由気ままに他の誰かに迷惑を掛けるくらいの気持ちで生きたほうが何事も上手くいくのかしれない。


 そんなクソみたいな思考に陥るくらいに、週末の寂しい六畳間の沈黙は、知らず知らずのうちに俺を精神的に追い込んでいたのかもしれない。




 アプリをタップすると、しばらくのタイムラグがあった後に自分のプロフィール画面が表示された。


 勝手に撮られた俺の写真と、本名で登録された「本田蒼」というアカウントが日本全国に配信されている。


 おまけに、「趣味:サーフィン、フットサル、旅行」などと、コテコテに誇張された自己紹介文付き。


 嘘偽りのない個人情報、それに対して嘘まみれの自己紹介文。


 いや、逆だろ……と、思わず溜息をついてしまう。


 普通、こういうのはもっとこう、個人情報は明かさずにプロフィール画面で自分らしさを演出するものではないのかと、そう思ってしまったのだ。


 東はネットの恐ろしさというものを知らないのだろうか。


 それとも、ネットリテラシーというものがまるでないのだろうか。


 どちらにせよ、このアカウントが俺にとって不利益な存在であるという事実は変わらない。


 もし、運悪く知り合いとかに見られていたりしたら、相当痛いヤツだと思われかねない。


 しかも東のヤツ、勝手にアカウントを作っておいて、碌に操作方法も教えずに帰っていきやがった。


 ほんと、何やってんだよアイツ……と、二度目の溜息をつきながら呆れてしまう。




 そうしてしばらくの間、プロフィールの設定を変えようと色々と弄って孤軍奮闘してみるも、どうしても変更の仕方が分からずに、結局諦めた。


 俺は元々機械音痴なのだ。


 スマホの機能すら満足に使いこなせていないのに、膨大な数があるアプリの設定方法まで手が回るはずがない。


 ましてや、たかが数分で機能を完全に理解するだなんて不可能と言ってもいい。


 諦め、いや、半ば開き直って、俺は大人しくトークの画面をタップする。


 トークぐらいだったら、俺にもできそうだから。


 LI〇Eの要領でやればいいのだから、何も難しい事はない。


 まぁ、LI〇Eを使い熟せるようになるのにも一年くらいかかったけど……




『二件、メッセージが届いています。』




 画面の上部に映し出されている二つのエクスクラメーションマークに、俺は動揺した。


 何もしていないのに、二件もメッセージが届いている!?


 慌てて確認すると、二件とも女性からのメッセージだった。


 す、すごい……女の方から声を掛けられるのか……なんか、逆ナンされてる気分だ……。


 そう驚いたのも束の間、メッセージの詳しい内容を確認して、俺は落胆する。




『初めまして!ここだと話しにくいから、ラ〇ンでお話ししよ!IDは~』




 一つ目のメッセージは、サクラの匂いがプンプンするテンプレめいた文章。


 逆にこんなんに引っかかるヤツがいるのかと疑問を抱いてしまうほど雑なお誘いのメッセージが、こてこての絵文字で盛り付けられている。




『イマ、暇でか? タスケテもらえませんか?』




 もうひとつは、明らかに日本人じゃない人間が打った意味不明、理解不能な文章。


 カタコトの日本語と共に、他の有料サイトに誘導するようなURLのリンクが張り付けられている。


 あまりの酷さに、これでどうにかなると思った送信主の度胸に感心してしまう始末。





 恐らく、どちらも悪質な業者によるものだろう。


 まぁ、そんな都合のいい話なんてないか。


 分かっていたけれど、舞い上がってしまった分少し落ち込んでしまう。


 気を取り直して、検索機能なるページを開いてみる。


 すると、トークしたい相手の年齢や性別、はたまた住んでいる場所を選択する画面が写し出された。


 おそらく、ここに自分の希望を入力し、理想の相手を探すのだろうと何となく理解する。


 なるほど、これなら近場で気軽な出会いを見つけるのも簡単だ。


 感心すると同時に、これ、個人情報の管理とか大丈夫なのかと少し不安になった。


 偽名ならまだしも、本名で登録してる人とか危ないんじゃ……まぁ、そんな奴俺ぐらいしかいないか。


 妙な納得を覚えながら、恐る恐る『女性、20歳~29歳、宮城県』という条件で検索を掛けてみる。


 すると、かなりの数のアカウントがヒットし、画面上に表示された。


 おぉ、と小さく声を挙げ、その一つ一つの詳細を調べ上げていく。


 けれど、現実は残酷なもので、ヒットしたアカウントのほとんどがまともな人間のものではなさそうだった。


 明らかに地雷の、寂しいを連呼し構ってほしがる女。


 意地汚く金をせびるような女。


 法律に触れてしまいそうな行為を持ち掛けている女。


 などなど、現実世界では中々お目にかかれない魑魅魍魎のような存在達が、このアプリの中にはうようよと跋扈していた。




 やっぱり碌なモンじゃねぇなと、本日三度目の溜息をつきながら画面を下にスクロールしていく。


 すると、ある一つのアカウントに目がついた。


 プロフィール写真は自分の写真ではなく、夕方の空の写真。


 その写真があまりにも綺麗で、思わず手を止めてしまったのだ。


 プロフィールを開く。


 年齢は20歳、住んでいる場所は宮城県。


 アカウント名は『S』。


 自己紹介文には『楽しくお話できれば幸いです。よろしくお願いします。』と、シンプルで丁寧な文章が綴られている。


 妙にそのアカウントが気になって、そのページを開いたまま、数分の間夕焼けの空の写真を眺めていた。


 どうしてそのアカウントが目について、気になってしまったのか自分でも分からない。


 肥溜めみたいなこのアプリの中で、純粋に話し相手を探しいているその高潔さに目を引かれたのか。


 それとも、どこかノスタルジーを感じる、センスのいい写真を気に入ったからか。


 はたまた、丁寧に構成された文章から、綴った人間の美しさを感じ取ったのか。


 理由は良く分からなかったけれど、とにかくこのアカウントに俺は惹かれていたのだ。


 そうしてしばらく迷った末、俺は夕焼けの写真のアカウントの持ち主「S」さんにメッセージを送信してみる事にした。




『良かったら、お話しませんか?』




 丁寧に、それでいて気持ち悪さを感じさせないように意識した短い文章。


 一応、俺なりに精一杯手は尽くしたつもりだし、勇気を出したつもりだ。


 けれど、返信がくるかは怪しかった。


 そもそも、見ず知らず、それこそ顔も知らない赤の他人からのメッセージに反応する人間なんて本当に存在するのだろうかと、アプリの根底を覆しかねない今更な疑問を抱く。


 いや、俺だったら怖くて返信なんてできないと思う。


 男の俺がそう思うのだから、若い女の子ならなおさらだろう。


 だから、期待するだけ無駄……




『いいですよ』



 

 ピコンと携帯が鳴り、メッセージが届いた旨を告げる。


 画面を確認する。


 俺の予想とは裏腹に、Sさんからの返信が来ていた。


 うわ、マジか……と思わず動揺してしまう。


 自分でメッセージを送っておいて何だが、あまりの気軽さに、正直軽く引いてしまっていた。


 やっぱり、Sさんもまともそうに見えてどこかおかしな人なんじゃないかと、理不尽な恐れを抱く。


 けれど、せっかく返信してくれたのに返さないのは失礼だとそう思い、妙な義務感を覚えながら俺はSさんに返事を返した。




『よろしくお願いします』


『はい、よろしくお願いします!』




 躍動感のある元気な文章を見て、ふふっと、少しだけ笑ってしまう。


 Sさんがどんな人なのかはまだ分からないけれど、やっぱり、悪い人ではないみたいだ。




   × × × × ×




『Sさんは……Sさんって呼んでも大丈夫でした?』


『大丈夫ですよ(笑)、Sでも、何でも。好きに呼んでください!』


『ありがとうございます。えっと……じゃあ……Sさんで』


『はい! Sです!』


『Sさんはアプリ初めて長いんですか?』


『いえ全然!最近始めたばっかりです!』


『あ、そうなんですね。俺も今日始めたばっかりなんですよ』


『えぇ!? 奇遇ですね!』


『はい』


『どうしてアプリ初めたんですか?』


『いや、休みの日にやる事がなくて……暇つぶし的な?』


『あ、私もです(笑)。気が合いますね!』


『そうですね』


『本田さんは……あれ、もしかして、本田蒼さんって本名ですか?』


『はい』


『えぇ!? どうして本名で登録を!?』


『いや、えっと……実はですね、会社の後輩に勝手にアカウントを作られて……その……変更の仕方分からなくて……』


『何ですかそれ、面白いですね(笑)』


『シャレにならないですよ……』


『あはは……本田さんは社会人さんですか?』


『はい、一応働いてます』


『一応ってw』


『Sさんは?』


『私は学生です!』


『へー、大学生ですか?』


『えっと……まぁ、そんな感じです!』


『そうなんですね……でも、大学生だったら同世代の友達とかと話してた方が楽しかったりしません?』


『そうだと思うんですけど……あの……お恥ずかしながら、私、あんまり友達と呼べる人がいなくて……』


『ごめんなさい、余計な事を言っちゃいましたね。忘れてください。』


『あ、いえ、大丈夫ですよ! 私、最近仙台に越してきたばかりで、何だか上手く馴染めていなくて……それで、アプリで話し相手を見つけて人付き合いの練習をしようかなって……そう思ってたんです。』


『あ、そうだったんですね。大丈夫ですよ。仙台、意外と狭いんで。すぐに馴染めますよ。それに、Sさんの前向きな姿勢すごいと思います。すぐに友達だってできますよ。』


『あはは、ありがとうございます! 本田さんは仙台に詳しいんですか?』


『んー、どうだろ。大学生の頃から住んでるから、それなりには……』


『そうなんですね……あ、それじゃあ、良かったら色々教えてくださいよ。仙台の事とか……色々。私に、友達ができるまで』


『自分の知ってる範囲なら全然いいですよ!』


『やった~!』




 × × × × ×




 Sと名乗るその女性とメッセージのやりとりを初めてから、一週間の時間が過ぎた。


 どうせ長くは続かないだろうと適当に会話を続けていたけれど、不思議と途切れず、Sさんとの一日数回のメッセージのやりとりは、忙しい毎日の日課になりつつあった。


 何も特別な話をするわけじゃない。


 Sさんが宮城や私生活についての質問をする。

 

 その質問に俺が答える。

 

 それの繰り返しの中で、話題は様々な項目に飛び火する。


 今日何があっただとか、何を食べただとか、休みの日は何をするだとか、好きな漫画はなんだとか。


 そんなくだらない話を、俺達は飽きもせずに、毎日のように繰り返していた。


 俺が聞くと、Sさんが答える。


 Sさんが聞くと、俺が答える。


 そんなやまびこみたいな関係性の居心地は、意外と悪くはなかった。


 誰かに話を聞いてもらう事に、誰かに自分を必要とされる事に、こんなにも安らぎを感じたのは生まれてこの方初めてかもしれない。




 そんな、安寧にも似た感情に彩られた毎日を過ごしていたある週末の夜。


 東からの飲み会の誘いを断って、有料のレジ袋に入ったタバコと缶ビールを手元でブラブラと揺らしながら帰路についていると、不意に、カバンの中に入っていた携帯が鳴った。




 確認すると、例のアプリの通知だった。


 アプリを開くと、Sさんからいつも通りメッセージが送られてきている。


 けれど、そのメッセージの内容はいつも通りではなかった。




『本田さん、日曜日って予定ありますか?』


『特にないですよ?』


『そうですか、よかった!』


『???』



 

 脈絡のないその発言に、俺はデータ上の世界でも、現実世界でも首を傾げた。


 けれど、次に返ってきたSさんからのメッセージを見て、理解する。




『もし良かったら、日曜日、実際に会って話してみませんか?』




 その提案に、思わず息を飲んだ。


 夜の風が、俺を冷やかすように吹き抜けていく。





 どうしよう……急……展開だ……。

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