第2話 下の名前で呼ばれたい女心とは

「うわぁっっ!!」


 寝苦しさと夢にうなされ布団から飛び起きた俺は寝汗でパジャマはビッショリと濡れていた。


「ゆ、夢か……なんで今頃……」


 ベッドの脇の小さななテーブルに置いてあるスマホを確認すると時刻は午前4時55分。まだ目覚ましが鳴る前だというのに、嫌な夢を見て起きてしまった。


 四年前、外壁工事中のマンションの前を通り掛かった時、足場が崩れ巻き込まれた事故の夢だった。

 崩れた足場で手足は骨折、頭にも当たり意識不明で生死の境を彷徨さまよった。しばらくマトモに歩けずリハビリの毎日だった。

 まさに悪夢であったが幸いな事に顔の傷が残っただけで後遺症に悩まされる事はなかった。

 もう一人事故に巻き込まれた女の子がいたが奇跡的に無傷だった。


「そういえばあの女の子は中学生だったはず……今は昨日のJKと同じくらいの年齢かな……」


 ふと当時の事を思い出し昨日、橋の上で出会ったJKの姿を思い出した。


 ピピッ! ピピッ! ピピッ!


 止め忘れたスマホのアラームがけたたましく鳴り響く。


「おっと、過去の感傷に浸っている場合じゃないな」


 時刻は午前5時00分。まだ殆どの人が眠りについてる時間だが、睡眠不足で回らない頭を無理やり起こす。


「ふわぁ……眠いし頭痛い……」


 慢性的な寝不足続きで寝ても頭痛が治まらない日が多い。


 昨晩、鷺宮夏菜さぎみやなつなと名乗ったJKと話をして癒されはしたが、寝不足が解消され気持ち良く爽快な朝を迎えられる事ができるわけでもない。

 それは当然の事で午後十一時近くに帰宅し、風呂に入って寝たのが午前零時過ぎだ。実質五時間も寝ていない。しかも悪夢で起きる羽目に。


「朝食食ってさっさと仕事に行くか……」


 トーストとコーヒー、野菜ジュースだけの簡素な朝食を素早く済ませ、寝汗をかいたのでシャワーを浴びて出社する支度をする。


「さて……今日も長時間頑張りますか」


 これから始まる過酷な長時間労働を前に、自分に喝を入れるつもりで独り言を呟く。


「行ってきます」


 誰もいない部屋に行ってきますの挨拶をする。これが俺の一日の始まりだ。





「ふぅ……鍵は全部しまったし、機器類の電源も落とした。それじゃあ俺も帰るか」


 職場の閉館作業を終え、アルバイトが全員帰ったのを確認して最後に自分が退勤する。


 職場を後にし駅へと向かい例の橋に差し掛かった所でベンチを確認する。


「ベンチが空いててよかった」


 ベンチで座っていれば、また彼女に会えるかもしれないと言う思いが少なからずあった俺は、誰も座っていないベンチを見て安堵した。


「あの子が今日も来るのを期待してるのか俺は……」


 またね、昨日彼女が去り際に残した言葉がこのような未練を残していた。

 ベンチに腰掛け夜景を眺める。何回見ても飽きない美しい夜景だ。


 俺は鞄から加熱式タバコを取り出そうとしたが昨日の彼女の言葉を思い出し止める。


「でも、来る訳ないよなぁ。あれは親切でタバコの事を教えてくれただけだ」


 もうタバコは止めるか……そう考えていた矢先。


「誰が来ないって?」


 不意に掛けられた声にビクッと身体を震わせた俺は、恐る恐る後ろを振り返る。そこには昨日と同じ制服姿の彼女が申し訳無さそうに立っていた。


「あ、ごめん。驚かせちゃった?」


「あ、うん……ちょっと考え事してたからビックリした」


「それで、誰が来ないって? もしかして……私が来ないかなぁって考えてたとか?」


 彼女は俺の心を見透かしていたかのように、ニヤニヤとしながら返答を待っている。


「い、いや、まあ……今日は来ないのかなって君の事を考えてた」


 どうせバレてるなら正直に話そうと開き直る。


「ふぇ? ええっと……その……」


 彼女の素っ頓狂な声をあげて俯いてしまった。


 ――あ、マズかったかな? さすがに今の言い方はちょっとキモかったかもしれない。後悔先に立たず、でも言ってしまったことは仕方がない。


「さっきさタバコ吸おうと思って取り出そうとした時に、昨日の君の言葉を思い出したからさ……あはは」


夏菜なつな


「え?」


「昨日名前教えたでしょう? 君じゃ無くて私の事は夏菜って呼んで」


「あ、うん、じゃあ夏菜さん」


「違う……呼び捨てでいい」


「わ、分かった……夏菜」


 俯いて表情が分からなかった夏菜の顔がパアっと明るくなる。


「うん、よろしい」


 その前の謎の威圧感を放つ夏菜の迫力に圧倒され、名前で呼び捨てにする事になった。


「おにーさんの名前をまだ聞いてなかったね。教えて」


鬼島泰治おにしまやすひろ


 俺の名前を聞いた夏菜は目を見開き身体を一瞬震わせた。名前が怖かったのだろうか?


「怖い名前だろ? この名前に顔の傷だから名乗ると驚かれる事が多くてさ。ははは」


 よくないと思いつつも傷の話になるとつい自嘲気味になってしまう。


「そんな事ない! すごくいい名前だと思う。おにーさんにピッタリの名前だよ」


 自虐を含むような言い方をして場を軽くする為の笑い話にしようとしたが、夏菜は真剣に名前と俺の印象を語ってくれた。


「あ、ありがとう。素直に褒めてくれた人は夏菜が初めてだよ」


「えへへ、これでも人を見る目はあるんだ。おにーさんは優しくて良い人だよ」


 傷があるせいで怖がられたりする事も多かったけど、夏菜はそんな事は気にせず気軽に話しかけてくれるのが嬉しかった。


「ところで夏菜は俺の事はおにーさん呼びで変わらないんだな」


「おにーさんは何て呼ばれたいの? 泰治?」


「い、いやそれじゃ恋人同士みたいだし、今まで通りおにーさんでいいよ」


「こ、恋人……」


 あ、しまった! またやってしまった……昨日知り合ったばかりの見ず知らずのJKにこんな言い方はやっぱりマズいよな。


「い、いや違うんだ、ほ、ほら俺の方が年上だろ? だから鬼島さんとか呼ぶのかなと思って……」


 なんかJK相手にオロオロして、何だか恥ずかしいな……自分の女性に対する免疫の無さとコミニケーション能力の低さに呆然としてしまう。


「その呼び方じゃ余所余所よそよそしいし、今はおにーさんて呼ぶのが一番いいかな」


「今は?」


「あ、それじゃあ私は帰るね」


 今は、と言う事は呼び名を変える予定があるのだろうかと聞こうと思ったが、何となく聞きづらいので止めた。


「あ、うん……気を付けて帰れよ」


「おにーさん、おやすみなさい。またね」


「夏菜もおやすみ」


 そう返事をすると夏菜は満足そうに笑みを浮かべ走って行ってしまった。

 もう会えないと思っていた夏菜に会えた事が嬉しくて、今日も“またね“と言われ彼女に癒されたような気がした。


「さて俺も帰るか。今日はゆっくり眠れそうだ」

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