魔王になるには?

水原慎

第1話 プロローグ

 一片の紅い花びらが虚空に浮かんでいた。


 紅い花びらが漆黒を背景にして身じろぎした刹那、音が蘇った。


 音は怒号と血腥い喧騒で構成されていた。金属のぶつかり合う甲高い音に、物体が高速で宙を渡る音や鋭く空を切る音がした。人の肉を鋭利な刃物が切り裂く音や物体が抉り、押し潰す音に悲鳴や苦痛の混じった吼え声が連続して交錯する。肉体と肉体がぶつかり合い、殴打し、あるいは突き飛ばす音もあった。性質の違う何かが絡まり、形を変え、硬く激しい音や粘着質の大きな音を繰り広げる。人の肉体も物質も時に地に落ちて重い音を立てた。声と音は入り混じり、折り重なって響いては果てることなく続いた。


 暗闇の中で大勢の人間が争っていた。闇の一部が白光に照らし出され、その一帯だけが闇夜に浮かび上がって鮮明に見えていた。白く切り取られた空間の中で人々は闘争を演じ、光の外から現れては消え、消えては現れた。人間たちが光に反応し、闘争は一瞬の揺らぎを示した。しかし、極度の混乱は人に留まることを許さず、闘争の継続を強制した。地には倒れ伏した幾多の人影と戦闘の痕跡があった。消え入りそうな乏しい灯も転がっている。


 紅い花びらと思われたものは雪だった。季節外れの雪は血で染まっていた。誰かが人の血を吸わせるために呼び込んだのかもしれなかった。紅い雪は暗闇を背景に降りしきり、凄惨な光景など知らぬげに地面に舞い降りては倒れた人や土を紅く染めた。


 光に注意を向けた人間が一人、光源に向かって動いた。血走った目と剥き出しの闘争心で歪んだ表情には狂気が宿っていた。顔には返り血と生々しい傷がある。衣服の損傷や腕や脚の傷跡は、この場で行われた戦闘の激しさを物語っていた。


 光源に向かって駆け寄った人物は湾曲した異形の長剣を携えていた。足の踏み出しとともに振りかぶられる長剣を光源は左に移動して避けようとした。


 右から影が飛んだ。影は鋭い牙と爪を持ち、剛毛をまとった中型の四足獣だった。口元に大きく突き出た二本の牙があり、額に無数に生える太い棘のような角が鋭く前を向いていた。四足獣は剣を握る人物の喉笛に噛みつくと押し倒し、絡まり合いながら倒れた。剣は軌跡を乱され、光源をかすめて表面で弾かれた。剣先が地面を抉る。速度を速めた光源が倒れた人物と四足獣を照らし出した。四足獣の細長い口に並んだ牙は人間の喉に深く突き刺さっていた。長剣は手から零れ落ち、目からは既に生気が失われていた。半開きとなった口から血が細く糸を引いている。投げ出された四肢に別の一体がかじりついた。光源の移動に伴って凄惨な光景は闇の中に沈んだ。


 四足獣は光源を闘争の現場に追い込んだ元凶だった。群れを成して狩りをする肉食の四足獣は森に踏み込んだ人間さえも獲物に変える。光源を追いかけて闘争の現場に行き当たった四足獣たちは、突如として現れた大量の獲物に勇んで襲いかかっていた。いくつかの個体は光源を攻撃したが、牙も爪も表面で跳ね返されて効果を示さなかった。   


 闘争の現場は四足獣の登場によって混乱を極めた。人間同士の争いに加え、人と獣の生死を賭けた闘いが始まっていた。血と肉を際限なく捧げ続ける宴を尻目に光源は高速で移動を続けた。地面から浮き上がるようにして滑らかに地上を滑り、太い樹木の並びに沿って進む。闘争の現場は、深い森に奇跡的に形成された空白地帯のようだった。光源のスピードが増し、追いかける複数体の四足獣の姿が遠ざかっていく。


 光源の進行方向に突如、一つの影が飛び出した。


 一際大きな体をした一体の四足獣だった。木の合間から飛び出すと、光源に向かって突進した。光源は四足獣の攻撃を森に逃げ込むことでかわした。高速を維持したまま木々の間を縫うように移動し、後を追って森に飛び込んだ四足獣さえも置き去りにした。


 森から抜け出た光源は、再び空白地帯に戻ると直線に移動した。


 光源は人ほどの大きさを持つ光の球だった。光球は、まとわっては後方へと流れていく低い大気の唸りとともに大地を疾駆した。


 光球の前方に巨大な割れ目が出現した。闘争する人間たちを空白地帯に押し留めていた元凶であった。森を断絶して刻まれた深く巨大な渓谷だった。


 光球のスピードが増した。光球は渓谷の両端を光の橋で結ぶかのように鋭く宙を駆けた。


 渓谷の向こう岸に到達した光球は、さらに待ち構えていた森に飛び込み、姿を消した。


 次に姿を見せたのは高くそびえる木々の中でも目立って高い木の突端だった。先に行くに連れて細まる幹に沿って滑らかに昇っていく。光球は尖った先端部に陣取ると動きを止めた。不安定な場所にもかかわらず光球は僅かな揺らぎも見せなかった。高空を冷たく吹きすさぶ激しい風の音と強い気流にも動ずることなく留まっている。周囲は闇に沈む深い森の影で覆われていた。


 闇が払われる頃合いが近づいていた。樹上から望む光景の先には深い森に囲まれた異質な空間があった。その広大な場所だけ切り取ったように四角く木が無くなり、夜明け前の薄暗がりに地に横たわる巨大な建造物の影が浮かんでいた。窓と思しき僅かな箇所に灯が見えた。


「―」


 光球から洩れ出た声のような空気の震えは激しい風の音に紛れ、かき消えた。


 突如として動き出した光球は螺旋を描きながら猛スピードで木を降りていった。


 巻き起こった風に大きく揺らぐ枝葉のみが明るみの射し始めた世界に残された。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る