第6話 会いたいんだ、忘れられない。

 家。

 母の部屋に行く。


 三歳の時、母が死んだ。それは話した。父はずいぶん悲しんで、二人が寝ていた寝室をそのまま母の部屋として残した。今……というかこの一五年くらい……、父はリビングのソファをベッド代わりにして寝ている。多分、体に悪い。父がこの一〇年で一気に老け込んだのはそれが原因だろう。


 夜中とか。眠れなかったのだろう、朝四時とか。休日の昼過ぎとか。

 父はよく、この母の部屋に来る。多分、母の気配を感じているのだと思う。電気もつけず暗い中、じっとこの部屋に立ち尽くす父を見たことがある。


「会いたいんだ、忘れられない」


 暗闇の中、父はそうつぶやいた。

 その姿が、何だかすごく悲しくて、私は耐え切れなかった覚えがある。


 そんな父は今、大学にいる。多分だが、研究している。


 私は家に一人。藤沢のデパート巡りはやめにした。あの気持ち悪い三好拓也のせいでひどく気分を害したからだ。回復が必要だった。私は心が傷ついた時、しんどくて何もかも辞めたい時、この母の部屋に来る。母が寝ていたベッドに近づいて、母が寝ている姿を想像する。


「会いたいんだ、忘れられない」


 父の言葉が蘇る。父は母が、大好きだった。多分、母も父が大好きだった。さく姉とすみ姉が父に対して嫌悪感を抱いていないのがその証拠だ。ネットの記事で読んだ。夫婦関係が円満な家庭は父娘関係も良好らしい。まぁ、もっともこれは私が嫌いな心理学の研究なので、あくまで「その傾向がある」程度の話なのだが。


 でも、一理あるのかもしれない。私は母がいない子だ。つまり、父と母の夫婦関係、という点では母がいないので破綻している。私が父に……名木橋明に……嫌悪感を抱くのは、父への接し方が分からないからだろう。母というお手本がいないから。


「お母さん」


 そう、声に出す。寂しい。抱き締めてほしい。でも、それは誰にも頼めない。


 私は父に大嫌いだと言った。円にも大嫌いだと言った。さく姉とすみ姉にも大嫌いだと言った。私は誰も好きじゃない。つまり、誰からも好かれない。


「好きなんだ。愛してる」


 例外が一人いた。あの気持ち悪いくそ眼鏡は何がよくて私なんか好きになったのだろう。私はかわいくない。私は愛想が悪い。私はとげとげしている。私は暴力的だ。私は色気がない。私は頭が悪い。私は不器用だ。私は出来が悪い。私は、私は……。


 むかーしむかし、あったとさ。

 母の声がした気がした。


 顔を上げる。いつの間にか自分が下を向いていたことに気づいた。部屋の窓から夕陽が差し込んでいる。レースのカーテンがその光を濾してぼんやりとした影を床と壁に投げていた。壁と言っても、正確には、壁一面に設置された本棚に、なのだが。


 我が家にある本棚の数はすごい。とにかくそこかしこに本棚がある。この母の部屋もそうだが、廊下、トイレ、リビング、さく姉やすみ姉の部屋にある本棚も合わせたらいくつあるか分からない。私の部屋だけ、本棚がない。カラーボックスはあって、そこに教科書や参考書の類は突っ込んでいるが、その程度だ。


 これでも一応、そんな家庭……名木橋家の娘だ。

 どこの本棚にどんな本があるかは大抵把握している。廊下の本棚には学術系のハードカバー。トイレの本棚には軽い読み物としての文庫本。リビングの本棚には雑誌やレシピ本、私たちが小さい頃に読んでもらっていた絵本などの家族で読めるもの。さく姉の部屋には当然、国文学。すみ姉の部屋には心理学から経済学の本まで幅広く。そしてこの母の部屋には……。


 ミステリー。母は国内ミステリー文学の研究者だった。


 専門は江戸川乱歩だったらしい。でも幅広くやっていて、近代のミステリー作家は一通り研究していたのだとか。だからだろう。母の部屋の本棚には国内ミステリーが大量に置いてある。たまに、国内作家に影響を与えたとされる海外ミステリーの本も置かれている。アガサ・クリスティとか。エラリー・クイーンとか。


 論理と、怪奇。


 ミステリーを一言で表すとそうなるだろう。

 私も詳しく読んだわけじゃないからよくは知らない。でも、母の娘だ。教養として身に着けている。江戸川乱歩と横溝正史くらいなら知っている。だから、だから……。


「江戸川乱歩の明智小五郎、横溝正史の金田一耕助……」


 あのくそ眼鏡が言ったことも、一部は理解できた。乱歩と正史は有名な作家だ。多分だが、誰でも名前くらいは聞いたことがある。でも高木彬光とかいう作家は知らなかった。神津恭介、とかいう探偵も、初耳だ。日本三大名探偵だっけか。


 日が傾く。床に落ちていた光がゆっくりと壁面の本棚を照らす。その光の中に、私は一冊の本を見つけた。


 その本はぎっしり本が詰まっている本棚の中で唯一、本が少ない箇所に置かれていた。

 傾いて置かれている。背表紙が並んでいる棚の中で唯一、小口……だったっけか。本の背表紙の反対側……が手前になるように置かれていた。つまり、タイトルが分からない。


 私はそっと本棚に近づいた。前に立つ。ゆっくりと、見上げる。お母さんも、こんな風に本棚の前に立ったのかな。そんなことを思う。


 例の本に手を伸ばす。傷まないように、丁寧に、取り出す。ハードカバーの本だった。天にたまった埃を吹く。夕日の中に雪が降ったようになる。私は表紙を見た。そこにはこう書かれていた。


『想い出大事箱 ~父・高木彬光と高木家の物語~』


「高木」

 下の名前を読むのに少し時間がかかった。が、やがてそれが「あきみつ」と読めることを悟ると、再び私の脳裏にあのくそ眼鏡が浮かんだ。


「君は、高木彬光とか、読まないの」


 誰それ。歴史の偉人かよ。

 自分の言葉を思い出す。そして、何とも形容しがたい、窒息したような、苦しい気持ちになる。


 歴史の偉人なんかじゃなかった。私に関係のない人でもなかった。ずっと、ずっとうちにあった。母の本棚にあった。


 唇を噛みしめる。何が名木橋家の娘だ。何が母の娘だ。何も知らないじゃないか。何も頭に入ってないじゃないか。何も、何も……自分の中で言葉が紡げなくなった時、私は動き出していた。


 母の本棚の中に、もしかしたら高木彬光があるかもしれない。


 私は『想い出大事箱』を持ったまま母の本棚にしまわれた本の背表紙を見て回った。高木彬光。高木彬光。母は国内のミステリー作家を一通り研究していた。きっとあるはず。そう思って眺めていると、見つけた。それは本棚の一番上の段、普段は視界の端に来る場所に置かれていた。


『刺青殺人事件』


 あのくそ眼鏡が私に差し出した本と同じタイトルだった。違いがあるとすれば、母は本を丁寧に扱う人だったので、保存状態がかなりいい点だ。


 背伸びをする。手がギリギリ届かない。確か、この部屋には踏み台があったはず。……あった。私は踏み台を本棚の前に持ってきて、ようやく『刺青殺人事件』を手にする。表紙をじっと見つめた。


 大分古い本だ。多分、女性の背中。そして眼鏡をかけて気持ち悪く笑う男性の顔が地の方にある。角川から出ているらしい。


 くそ眼鏡が私に突きつけてきた本と表紙が違う気がした。多分、あいつが持っていたのは新装版だ。それなのに母の本とは月とすっぽんくらい保存状態が違う。あっちのはほとんど一〇〇円でたたき売られる古本だ。こっちのは新品同然。


「ただいま」


 玄関から声がした。私はまるで家主に居合わせた泥棒のように声のした方に目線を投げる。父だ。父の声だ。まずい。私は母の部屋から出る。足音を忍ばせて。それから真っ直ぐ自分の部屋に行くと、ベッドに寝転んで二つの本を見つめた。


 最低、二冊。


 この二冊……かもな。

 何となく、そんな声が自分の中で響いた気がした。

 その声はどことなく……記憶の中の……母に似ていた。

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