ユイちゃんのパパ

青樹加奈

一ノ一

「お母さんがおててをぎゅって握ったら、『ママー』って女の人に向って叫ぶのよ。わかった?」

 私は駅へ向かう商店街の入口近くでユイに言いきかせた。ショートボブにした黒髪、生成りのトレーナーの上からピンクのジャンパースカートを着たユイは本当に可愛い。通勤するOLの中にはユイをちらっと見て、「まあ、可愛い」と独り言を言う人もいるくらいだ。私の自慢の娘だ。

「ユイ、お返事は?」

「……」

 小声で何か言ったみたいだが聞こえない。

「え? なに?」

 私は俯いたユイの顔を覗き込んだ。

「ユイ、やりたくない!」

 思わず仰け反った。ユイにこんな大声が出せるなんて。びっくりした。

 だが、私は親だ。母親だ。こんな事で一々怯んではいられない。

「そんなこと言わないの。保育園でお友達たくさんほしいでしょ。お母さんがお友達のお母さんとうまくいかなかったら、ユイも仲間ハズレにされちゃうよ。仲間ハズレにされたくないでしょ」

「仲間ハズレにされてもいいからしたくない!」

「もう、ユイったら、我が儘言わないの。言う事をきかないと夕飯をたべさせてあげないわよ。わかったわね」

 ユイが下を向いた。しぶしぶコクリとうなづく。

「良い子ね、ユイは」

 強情をはっても結局私の言う事をきくのだ、この子は。だって、私が産んだ子だもの。この子は私の物だ。

 あの女がやってくる。商店街のアーケードにあの女のハイヒールの音が高らかに響き渡り始めた。あの女が来るのはハイヒールの音で直ぐにわかる。

 あの女には子供がいない。子無しの女だ。いつもハイヒールの音を鳴らしながら、急ぎ足で歩いている。ブランド物のライトグレーのスーツを着こなし、バッチリメイクをして、ロングヘアーをなびかせて、いかにも仕事が出来ますって感じの鼻持ちならない女だ。化粧品も高価な物を使っているに違いない。そうでなければ、あんな綺麗な肌をしている筈がない。三十はとうに過ぎている筈なのに。普段はジーンズとか履いて若者ぶってて、そのジーンズもブランド物。足が細くてレギンスのジーンズが、悔しいけど凄く似合ってる。私だって痩せればレギンスのジーンズくらい履ける。今は、無理だけれど。妊娠して子供を産んだら太るのが当たり前よ。あの女は子供を産んでないから痩せてるのよ。「年相応に見えなくて困ってるんです。若い女だと馬鹿にされるでしょ」って言ってるのを誰かが聞いたらしい。さりげなく若(わか)見えを自慢しているのよね。

 自慢話好きのブランド女!

 会社に行く時でも、高価なアクセサリーを身につけている。どっかのアナウンサーが使って評判になったスリーストーンダイヤモンド。私たちなら結婚式とか晴れの日にしか身につけないような高価なアクセサリーを普段使いするとか、許せない。

 大体職業が気にいらない。証券会社のファイナンシャルプランナーとかいう横文字の職業だ。その上、数億のお金を動かす男でも滅多につけない職種とか、女の癖に生意気なのよ。

 この辺りじゃあ評判の高級マンションに住んでるし、そりゃあ、二人で働いていたらマンションぐらい買えるわよ。聞いたところによると、マンションの理事の役が回ってきても断ったらしい。断った理由というのが、『仕事が忙しくて出来そうにないので暇な奥さんにでもやって貰ってください』って。みんな忙しいんだよ。自分だけ忙しいと思っているのだろうか? 奥さんなら暇だとでも?ああ、腹立たしい。

 私達は毎朝、あの女が出勤する時間帯を狙ってあの女に嫌がらせをしているのだ。今日は私の当番。そういえば、ママ友の悦子さん、とうとう彼女と同じスーツを買ったって言ってたな。彼女の前を歩いて見せたって。もちろん子供を連れて。ふふ、これであの人に勝てたって嬉しそうだったわ。

 コツコツコツ。

 ヒールの音が近づいて来る。来た! あの女が来た。

 私はゆっくりと女に向って歩きながらユイの手をぎゅっと握った。

 すかさずユイが「ママー!」と叫ぶ。

 私はちらっと女の顔を見た。

 は、何澄ました顔してんのよ!

 あんた、子供が欲しいんでしょ!

 でも、手に入らないんでしょ!

 羨ましくて仕方ないんでしょ!

 泣けよ。泣いてみせろよ!

 私は心の中で喚いた。

 しかし、女は知らん顔して通り過ぎていく。

 悔しい。

 ああ、悔しい、悔しい。泣かしてやりたい。

 私達は、いつもいつも、子育てに追われて、お金がなくて。爪に火をともすような生活をしているのに。欲しい物は買えないし、新しい服が欲しければ夫にお願いして買って貰っているのに。夫に服を買ってもらわなければならない屈辱。「どうして新しい服がいるんだ? 同窓会ならいつものスーツでいいじゃないか?」と夫に言われ、流行遅れだからと買い換える理由を言ってもきいて貰えない。子供が産まれた時、主人の実家に挨拶に行くとき来ていたピンクのスーツ。そういえば、あれは主人が選んでくれた服だった。主人は桜色と言っていたけど、今、あんな物着てたら笑われるに決まってる。ピンクなんて若くなければ似合わないのに。

 私達は夫と子供の世話に明け暮れて睡眠不足で若さを削ってるっていうのにあの女は万年二十代のように若々しく美しい。神様は不公平だ。仕事をしている女達より子育てに追われている私達の方がよっぽど苦労しているっていうのにちっともいい事がない。あの女達は仕事とか言ってカッコつけてるけど、どうせチョコチョコッと仕事して後はおしゃべりばかりして高い給料を貰っているに違いないのに。

 私たちが働いてもせいぜい時給数百円程度の肉体労働しかない。それさえも、なんだかんだと引かれてどうせ手元に残るのは雀の涙ほどなのだ。ああ、悔しい!

「ちょっと、あんた!」

 見ず知らずの女に呼び止められた。

 黒いスーツを着た背の高い尖ったアゴの女が物凄い形相で私を睨んでいる。

「あんた、今、この子にあたしをママって呼ばせたわよね」

「はあ? いいえ、してませんけど」

 あんたじゃなくて、あの女に向って呼ばせたのよっていいたいけど、それはまずい。この女が近くにいたのは分かっていたけど、関係ないと思って無視していた。ちょっとまずかったかも。

 私はユイの手をひいて立ち去ろうとした。

 ところが、女が私の前に立ち塞がった。

「いいえ、したわよ。あんたがこの子の手を握ったら、この子が『ママー!』って叫んだじゃない。ぎゅって握ったら『ママー!』って。あたし、見てたんだから」

「いえ、誤解です。確かにこの子はママっていいましたけど、この子の、あの、口癖なんです」

 私は女に背を向け、ユイに話しかけた。

「ね、ユイちゃん。ユイちゃん、いつもママって呼ぶよね」

 ユイの手を引き逃げようとする私に女が執拗に話しかけてくる。

「ちょっと、待ちなさいよ」

 私は足早にその場を離れようとした。

「あたし、あんたの旦那と寝てないから」

 はあ??

 なんの話?

 立ち止まって振り向いた。

 女が私を睨んでいる。私を睨みつけてくる狂気を孕んだ目。背中がゾッと粟を吹く。

 この人おかしい。

 逃げなければと思うと同時に夫の様子がありありと頭に浮かんだ。

 深夜まで帰ってこない夫。いつ帰るのかとメッセージを送っても返事をしてこない夫。スーツからかすかに香る知らない匂い。問いつめたら「満員電車で柔軟剤の匂いが移ったんじゃないか」とかわされた。

(『なんだ? 浮気してるとでも思ったのか? 男っていうのは、女房が思うほどモテないんだよ』)

 夫が嫌そうな顔をして言っていた。こっちは真剣なのに。

 女が喚いている。

「あたし、こんな子、産んでない。この子の父親と寝てない。見ず知らずの男と寝たとか気色悪いわ。こんな子汚い子からママとか呼ばれる覚えない。つまらんいたづらするな! ボケッ! これだから専業主婦は! 暇だからつまらん妄想にふけって勝手に敵認定して嫌がらせして回ってるんでしょ。迷惑なのよ!」

 はあ? 何、この人! 何、喚いてるの? 馬鹿じゃない。それに、うちのユイを小汚いですって! 失礼ね。こんな可愛い子に向かって小汚いとか許せない!

「うちの子は小汚くなんかありません。こんなに可愛い子に失礼でしょ。こんな可愛い子の母親があんたなわけないでしょ。この子の母親があんただなんて、言ってません。何、馬鹿なこと言ってるのよ」

「馬鹿な事? そっちこそ、馬鹿なんじゃない。あたしのことをママって呼ぶってことは、あたしがこの子の母親ってことでしょ。あたしがこの子産んだってことでしょ。つまり私がこの子の父親と寝たってことでしょ! 見ず知らずの男と寝たとか、気持ち悪いったらありゃしない!」

 なんなのよ、この人。どうして、そこまで飛躍できるわけ? やってられない!

「だから、この子はあなたを『ママ』なんて呼んでいませんから。あんたの前を歩いていたあのグレーのスーツの女に向って叫んだの」

 女がまじまじと私を見た。

「嘘つき! もっとましな嘘をつけよ」

「嘘じゃないわ。あの女はこのあたりじゃ有名な評判の悪い女なのよ。働いているのを鼻にかけて、傲慢でね。ところが、子供がいないのよ。本人、産まなかったって言ってるけど、旦那は出来なかったって言ってるの。どっちが本当だか知らないけど、子供が欲しいくせにそれを隠しているのよ。だから、みんなでママって子供に呼ばせていじめてるんじゃない。楽しいわよ。人をいじめるのは。あんたもやったら?」

 女の顔が急に無表情になった。

「つまり、わざとママって呼んだのは認めるのね」

「ええ、そうよ。わざとやったの、でも、みんなでやってるからいいのよ。あの女がいるだけで、どれだけ傷つく人がいると思ってるのよ。いなくなればいいのよ」

「みんなでいじめるのは正義なわけだ」

 女が冷たく言い放った。

「そうよ、悪い?」

 女は私を蔑んだ目で一瞥するなり、背を向けて駅の方へと歩き始めた。

「ちょっとあんた、逃げるの? 待ちなさいよ。なんとか言いなさいよ」

 私は黒いスーツの背中に向って叫んだ。女はまるで聞こえないかのように遠ざかっていく。

「全く、なんなの、あの女は?」

 苛立ちを吐き出しても一度沸点に達した気持ちは収まらない。私は地団駄を踏んだ。

 女が人混みにまぎれて見えなくなって行く。

 あの女は、何故、からんできたのだろう? 変な女だ。夫の事を言っていたけれど、あれはどういう意味なんだろう? 夫は本当に浮気をしていないのかしら? 何故、あの黒いスーツを着た女はしつこく寝てないなんていったのだろう? 何か知っているのかしら?

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