第二章

第七話

 『繕』うという言葉には『善』という字が含まれている。


 漢字の成り立ちとは遥か昔の人が見た景色、もしくは身に起きた物事をヒントにできているらしい。だからきっと、『繕』うことで誰かが幸せになった事実はあったのだろう。人を幸せにできるのは、『善』人だけだ。


 しかし、それなら『善』という文字だけで事足りる。昔の人はどうしてわざわざ『繕』うなんて言葉を生み出したのか。 


 その理由はもしかしたら、『善』という字の隣に添えられた『糸』に隠されているのかもしれない。


 『繕』う。言葉の意味は「整えてかっこうをつける」。余所行きの服なのに『糸』がほつれていたら大変だ。だからその『糸』を切って、見栄えを良くする。本来の使い方は、短絡的に考えればこんなところだろうか。『糸』という単語が出てくるあたり、漢字の成り立ちが見えてきたようにも思える。


 でも、わたしは違うと思う。


 『糸』は脆い。すぐにほつれる。


 『繕』うことで確かに誰かが幸せになるのかもしれない。だけど、長くは続かない。何故ならそれは『善』良な行いからくるものではないからだ。昔の人は、きっと喜びばかりが生まれるわけじゃないからこそ『糸』を添えたのではないだろうか。


 脆くて弱い、刹那の幸福の隣に。


「取り繕ったって、すぐにほつれちゃうよお姉ちゃん」


 わたしの言っている意味がわからないのか、何度も開閉を繰り返す瞳に白昼灯の光が反射する。


 やがて影が伸び、明るいものを隠すとキッチンを漂う焦げ醤油の香りを鼻に受けながら潤いを増した。水面に触れたように波紋を作り、おたまでかき混ぜたように揺れる瞳。できた料理は、なんだろう。


「小春? 期末テストはどうだったの?」


 鍋がグツグツとゆだって、テレビ画面では7時前に必ず放送される県内の天気予報が映し出されていた。


 話を振られているのはお姉ちゃんだが、当の本人はいまだ返事をできずにいる。


 それはわたしによって、淡いピンク色の唇を封じられているからだった。


 ここからは姿の見えないお母さんがもう一度、お姉ちゃんの名前を呼ぶ。


 押し倒したお姉ちゃんに覆いかぶさると、ソファが大きく軋んだ。ソファに乗ったリモコンが落ちそうになり、マズイと思ったのかお姉ちゃんは手を伸ばしてそのリモコンを掴んだ。


 掴んだまま、目を瞑り、接吻を続けた。わたしを押しのけるよりも、リモコンを優先したのだ。それはなにもリモコンが大事だからじゃない。


 こんなところお母さんに見られるわけにはいかない。そう思って手を伸ばしたのだろう。


 自分の体裁よりも、わたしを守ることを優先した。お姉ちゃんの中にある優先順位はすでにぐちゃぐちゃになっていた。いつもはハッキリと開かれた大きな目にも迷いの色が窺える。


 お姉ちゃんの頭が緑色のクッションに埋もれていく。全身に触れるお姉ちゃんを感じて、わたしも唇を押し付けた。


 夕ご飯の香りと淡々としたテレビの音声、お母さんの気配と食器を置く音。その中にお姉ちゃんの甘い吐息が混ざるというのはひどく背徳的で、破壊衝動が性的な部分に関与する人間の脳のいい加減さに思わず舌鼓みを打ってしまう。


 それと同時に、姉妹間での接吻というものがいったいどれだけの罪なのか興味があった。わたしはよくお母さんに怒られてお仕置きをされる。お母さんの私物に損害を与えてしまったり、愚かな行為によってお母さんの逆鱗に触れてしまうのが基本的な要因だ。そうすると叩かれ、蹴られ、首を絞められ、だけどそれで終わる。


 それ以上のものがあるのかと考えると、わたしはお姉ちゃんの背中に手を回さざるを得なかった。


 もしかしたら繋がりあったまま、わたしとお姉ちゃんの首から下が切り落とされてしまうかもしれない。包丁程度の切れ味なら、意識が途絶えるまでいくらかの猶予はありそうだった。


 お姉ちゃんは今、なにを考えているのだろう。わたしと同じことを考えていてくれたら嬉しい。


「小春?」


 お母さんがお椀を持ってキッチンから出てくる。


 お姉ちゃんはすぐに唇を離し、仰向けになったままわたしから視線を外した。お母さんは片手に握られたリモコンを見て頬を綻ばせた。


「チャンネル争い? もう、小春はお姉ちゃんなんだから譲ってあげたら?」

「あはは、うん。そうだね。日陰が見たいのでいいよ」


 笑う。誤魔化す。『繕』う。


 お姉ちゃんはぎこちなくわたしを抱き起こす。触れる肌が熱く、僅かに震えていた。


「うん。ありがとう」


 ほつれなくてよかったね、お姉ちゃん。


 わたしが笑いかけると、お姉ちゃんは唇を噛んで目を逸らす。顔は真っ赤に染まっていた。


「テスト、の話だったよね? なんとか九十点はキープできたよ」

「勉強頑張っていたものね。すごいわ、小春」


 食卓につくと、お母さんとお姉ちゃんが談笑をはじめる。わたしは割りばしで納豆をひたすらかき混ぜていた。引いた糸と粘ついた白い液体が、捥ぎ取った緑の手足を思い出させる。


「日陰は?」


 お母さんの声が一段と低くなる。


「テストの点数どうだったの?」

「わたしのクラスはまだ返ってきてないからわかんない。でも、あんまり勉強しなかったからよくないかも」

「そうなの。でもいいのよ、勉強しないでいい点数を取るなんて方がおかしいんだから。日陰はそれでいいのよ」

「うん、お母さん」


 温かいコンソメスープを口に運ぶ。荒れた大地に水を垂らすように胃に広がっていく温かい心地。


 お姉ちゃんはわたしと目が合うと、少し間を置いて。


「赤点じゃなければいいね」


 と、ぎこちなく口にした。

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