第14話 理由

 兄さんの古くて少しぼろい車に乗って、海辺を走っていた。色々質問したかったけど、兄さんは無言の圧力をかけてきて、ぼくらに質問を許さなかった。


 一時間ほど走り続けると、海辺のぼろい家に着いた。木造建築で、所々朽ちている。中は少し現代風になっていて、型落ちの冷蔵庫や錆びた扇風機などが置かれていた。


 兄さんは流木のように捻じった足の椅子を指差し、「適当に座ってくれ」と促した。言われたとおりに座ると、二人分のお茶と救急箱を持ってきてくれた。


「血は出ているが、重症じゃないだろう。まずは血を拭いてくれ。……それで、詳しい話を聞こうじゃないか。どうしてここにいるんだ?」


「兄さんだって、なんでこんなところに――」


「お前らが先だ」


 兄さんの口調には、有無を言わせぬ迫力があった。


 ぼくは少し迷ったけど、一葉さんも視線で了承してくれたので、全て明かすことにした。


「なるほどな。あの山桐組の娘、いや、息子……。おれはヤクザうんぬんより、一葉ちゃんが男だっていうことの方が信じられないけどな」


「見ます?」


「いや、結構だ。性癖を増やしたくない」


 兄さんは台所から灰皿を持ってきて、胸ポケットからよれた煙草を取り出して火をつけた。


「それで、さっきの奴らも山桐組なのかい? 若頭補佐の子供を連れ戻すには、少々乱暴な感じがするが」


「いや、それは……」


 一葉さんは少し言いよどむと、「わたしの元カレ」と小さな声で告白した。


「元カレね。そりゃ随分暴力的な彼氏だったみたいだ」


 一葉さんが答えにくそうに俯く。


 ぼくは我慢できずにテーブルを叩いた。


「問題はそこじゃない! 数年前にいきなり消えて、なんでこんなところにいるんだよ兄さん!」


「これも重大な問題だろうが。……近くの漁師たちの手伝いして生活してんだよ」


「そういうことじゃなくて! ぼくと母さんの前から消えた理由を聞いているんだ!」


 数年前、高校受験を前に首吊り自殺未遂を起こして死にかけた兄。退院後数日間ぼうっとしたかと思うと、忽然と姿を消してしまっていた。それから全く音沙汰なしで、生きているのか死んでいるのかわからない状態だった。次第

に母さんも兄さんをいないものと扱い始めた。


 その期間、母さんの関心はずっとぼくに注がれ続けた。あなたはわたしを裏切らないで、と脅迫じみたお願いで、ぼくの生活はがんじがらめに拘束されていた。


「答えてよ!」


 兄さんは深く煙を吸い込むと、「お前と同じような理由だよ」と言った。


「同じ理由って……」


「受験なんてアホらしくなったんだ。――まあ、とにかく今は飯でも食って落ち着こうぜ」


 兄さんはまだ長い煙草を灰皿に押しつけて火を消し、台所へ向かっていった。ぼくは抑えきれない怒りがこみあげてきて、もう一度思いきりテーブルを叩いた。


・・・


 ご飯を作っている間、兄さんはぼくらを台所に立たせてくれなかった。この調子なら、今は口をきいてくれないんだろうな、と思い、傷を治療してから、家の中を一葉さんと一緒に散策していた。


 三十分後、出された料理は簡素な刺身と白飯、魚のあら汁だった。


「美味しそうだね」


「漁師のおっちゃんたちがたくさんくれるからな。毎日こんな感じだ」


「羨ましいよ。ぼくは刺身なんて食べられなかったからね」


 兄弟間の不穏な雰囲気を感じ取ったのか、一葉さんが居心地悪そうにぼくらを見ている。それに気づいた兄さんが、視線で箸を取るように一葉さんに促した。


「なあ、賢治。なんで母さんがああなったか知ってるか?」


「……知らない」


「母さんな、昔結構なお嬢さまだったんだよ。成績も優秀で、国立大学に通ってたらしい」


 そう言うと、誰もが知っている名門国立大学の名前を上げた。


「そこで親父と会って駆け落ち。親父はお前が生まれてすぐに病気で死んだから知らないと思うけど、貧乏な日雇い労働者だったらしい。おれは小さすぎて全く記憶がないがな」


「それのなにが関係があるんだよ」


「家を勘当されたんだ。言っただろ、お嬢さまだったって」


 母さんの姿を思い出しても、貧相で薄幸そうな横顔しか浮かばない。


「まあ、愛の力ってやつで貧乏でも幸せに過ごしてたらしいが、親父が死んでから大変な日々だったらしいぞ。今までバイトもしたことないお嬢さまが、シングルマザーで子供二人なんて、どう考えたって絶望的だろ」


「そうだけど」


「貧乏の辛さを知った母さんは、自分が元いた地位を思い出したんだろうな。つまり、偉くならなくちゃいけない。いい学校に入り、いい職業に入れば、息子たちは幸せに生きていけるって」


「それは兄さんの推測だろ」


「そうだな。だだ、それ以外なにが考えられる?」


 兄さんがポケットから型落ちのスマホを取り出した。


「家の電話番号が電話帳に入ってる。電話するか?」


 一瞬手を伸ばそうとしたけど、すぐにやめた。たった十一桁の番号を押すのに、恐怖を覚えた。今更母さんに電話してなにになる?


 恐怖は段々と兄さんに対する怒りに代わっていった。


「でも、それが兄さんが出ていった理由にはならないだろ。あの後、ぼくがどれだけ大変かって想像つくの?」


「それは悪いと思ってる」


「思ってるだけだろ!」


 気が付けば立ち上がっていた。服を掴まれる感覚がして、見ていみると一葉さんが不安そうな顔で袖をつまんでいた。


「落ち着いて、賢治。とりあえずお兄さんの話を聞いてあげればいいじゃん」


「でも……」


 正論だ。ぼく一人がカッとなっているだけだ。ぼくは熱い息を吐いて着席した。


「おれだってギリギリだったんだ。一秒も自分の時間がない生活に、ストレスで死にそうだった」


「だから死のうとしたの?」


「ああ」


「死ねなかったから、その後、逃げたわけだ」


 兄さんは悲しそうな目でぼくを見ると、「そうだ。おれは逃げた」と言った。


「だが、逃げてなにが悪い? あんな生活、死んでいるようなもんだろ」


「ぼくも死んでいたとでも言うの?」


「そうだな」


 今度こそ我慢できなくなって、テーブルに乗り上げた。置かれた料理が床に散らばる。


 拳を振り上げるも、殴れない。誰かを殴ることがこんなに怖いことだなんて。兄さんはすべて理解しているかのような表情でぼくを見ていた。ぼくは拳を収めて、テーブルから足を下ろした。


 お腹は減っていたけど、食べる気になれなかった。


 怒りを込めて足音を立てながら、居間まで向かう。兄さんが控えめな声で、「寝るならちょっと待っとけ」と言って、散らばった料理を拾い始めた。

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