第8話 恋敵と胸の痛み
そんな思いをして歩いた明るい道の果てに、鬱蒼と生い茂る森を背にした真っ赤な鳥居があった。ここが、この辺りの氏神となっている宇迦之御魂神の社である。一歩足を踏み入れると、鳥居の向こうは別世界のように薄暗く、涼しかった。
朱がくすんで、あちこち剥がれた無数の鳥居をくぐって山道を登っていく……のは岬さんだ。華奢な身体からは想像もできないほど、足腰は強靭だった。
僕はというと、すっかりヘバっている。子どもの頃に何度かお参りに来たことがあるはずなのだが、10年以上たった今でも、昔と同じくらいキツイ道のりだ。
それなのに岬さんは、僕を尻目にどんどん先へと行ってしまう。そのしなやかな脚やヒップラインを急な傾斜の下から眺めることのないよう、目をそらしながら身体を引きずり上げるのは至難の業だった。
そんなふうに精神的にも肉体的にも辛い思いに耐え抜くと、やがて神社の境内に出た。ひんやりと静まり返った砂利の上には、鼻をジンとさせる香りの杉の葉がちりばめられている。僕たちはそこを一直線に通過して、古い拝殿の上に立った。
その鴨居の辺りには、今は失われて久しい宮司の家紋らしきものが刻まれている。それを見た岬さんが、息を呑んだ。
「丸に稲穂……」
稲荷神社に稲荷紋があるのは、不思議なことではない。だが、その真ん中に描かれたものには、僕も気づいていた。
「竜胆の葉……」
それは、この神社が岬さんの母方の先祖、杵築家のルーツであることを示していた。
震える声と共に、柔らかい感触が僕の身体を包む。
「見つけた……やっと見つけた……」
僕の頬を伝わって、岬さんの涙が流れ落ちるのが分かった。もたれかかる身体は、妖狐のヨウコがじゃれついてくるときとは違って、人としての重みがある。
押し付けられる胸のふくらみに、僕は縮こまった。抱き留めてよいものかどうか、分からなかった。だが、僕も男だ。ここは、彼女の心と身体の支えになるのが当然というものだ。
意を決して岬さんの背中に腕を回そうと思ったが、その時はもう、遅かった。その身体はいつの間にか引き離され、僕は自分で自分を抱きしめる羽目になった。
「向坂さん……」
岬さんが呼んだ思わぬ名前に従って視線を追うと、そこには見覚えのある男の姿があった。
「どういうこと?」
岬さんと僕のどちらに向けられた言葉かは分からなかった。でも、岬さんに口を開かせてはいけない。何か言えば、それはやましい言い訳になる。
「いけませんか?」
返事を横取りした僕を見つめて、岬さんは何か言おうとしたのか、唇を曖昧に開けている。言葉が出ない隙に、向坂との間に立ちはだかった。
「君は?」
バイト先のうどん屋の前で一度だけ会った相手だ。訝しげな顔をしたけど、敵意は感じなかった。むしろ、僕を真剣に思い出そうとして、頭のてっぺんから爪先まで眺め渡そうとしている感があった。
「関係ないでしょう? 少なくとも、あなたとは」
向坂にしてもそうだろう。彼は岬さんと話したいのであって、その前に立ちはだかった高校生なんかたぶん、眼中にない。僕が向坂に感じているほどの嫉妬やライバル意識なんか、ありはしないだろう。
だから、卑怯かもしれないけど、自己紹介なんかする気はなかった。僕がバイト生活の高校生にすぎないなんて知られたら、ナメられるだけだ。
向坂が告白の返事を待っている相手と、こっそり出歩いている正体の知れない男。
それで十分だ。
でも、その目論見は意外なところから外れた。岬さんが、不安げに囁いたのだ。
「浅賀君……?」
どうも、気持ちが先走るとその場の雰囲気が読めなくなる性質らしい。これで「謎の男」路線は完全に消えた。どっちかというと、「謎の間男」といったところだろう。
当然、向坂の目は岬さんに向いた。
「どういう関係?」
隠す理由は僕にはあっても、岬さんにはない。
「同じクラスの、浅賀才くん。いろいろ手伝ってくれてるって、ほら、言ったでしょ?」
そんなことまで話していたのかと正直呆れたが、僕はそのくらい、岬さんの眼中にはないのだ。というか、向坂だってそういう対象ではなかったのだから仕方がない。その気がちょっとでもあったら、告白されてうろたえたりはしないだろう。
その告白の張本人は、落ち着いたものだった。そこは年の功というやつか。
「そうなんだ、この子がね」
この人、とは言わない。完全に見下されている。この瞬間、岬さんが口にした「不特定多数の誰か」の内のひとりは、完全に目下の恋敵と化した。
これも、仕方がない。ケンカを吹っ掛けたのはこっちのほうだ。
「こっち、僕の実家だったもんで」
さりげなく先制攻撃を放った。別に、岬さんを連れ出したわけじゃない。
「この辺に来るってことは昨日、聞いたから」
向坂が寂しげに笑うところを見ると、どうやら僕の名前をださなかったことがショックだったようだ。岬さんをちらっと見てみたら、申し訳なさそうにうつむいた。
僕も笑ってみせる。別に責める気はない。告白してきた相手に隠さなくちゃいけないくらいには、僕も男として意識されてるってことだ。
何だか、勇気が湧いてきた。
「わざわざ来てもらうこともなかったんですがね。ここらは僕の庭みたいなもんなんで」
これは本当だ。田舎での人生に見切りをつけるまでは、山や川を駆けまわって遊んだものだ。神社を覆う木陰を渡る風の音までは知らなかったが、
だが、向坂も余裕たっぷりだった。
「だけど、現地の人が目で見ているものよりも、外部の人が書物で得た知識のほうが正確だってこともあるんだよ」
「百聞は一見に如かずと言いますがね」
気の利いたことを言ったつもりだったけど、高校生の浅知恵など、留年抜きで大学に6年間いた学生には何ほどのこともないようだった。
「針の穴から天を覗く、の喩えもあるよ」
何だかカチンと来た。天から地上の僕を見下ろしているような物言いだったからだ。岬さんの様子をうかがうと、僕の背中に隠れている。
これ以上、怯えさせちゃいけない。僕は意を決して、向坂に向き直った。
「帰っていただけません……か?」
そう言うまでもなく、いつの間にかいなくなっていた。
代わりに、そこにいたのは……。
「何してんの? お兄ちゃん」
ヨウコだった。今朝、僕に姿を変えて、今はうどん屋でバイトしているはずの妖狐だった。それなのに、なぜか遠く離れた山奥で、今朝着ていった僕の服を着て、きょとんとした顔で突っ立っている。
とりあえずTシャツとハーフパンツだったが、思わず目をそらしたのは、服がぶかぶかで、襟元から薄い胸が見えそうだったからだ。
「あれ……妹さん?」
岬さんがそう呼んだのには驚いたが、よく考えれば、僕がコンビニをクビになったとき、一度会っていたのだった。
あれ? ……ってことは?
「アタシが……見える?」
僕からは聞くに聞けないことをヨウコが聞いてくれたが、常識で言ったら聞くべきじゃないことに変わりはない。
「お前」
妖狐の本性に関わることだけに、それ以上は喋らせるわけにもいかなかった。黙らせようと思ってツッコんだが、ヨウコもそこは心得たものだった。
「あいつ、なかなか手強くてさ」
「あいつ……?」
ヨウコは答えないで、一方的に喋りつづける。もっとも僕だって、正体をバラしかかったことを責めるつもりはもうない。何となく、誰のことかは見当がついていた。
「……それでも車でこの辺うろうろしてたんだけど」
察するに、岬を追ってきた向坂を化かして、追い返そうとしていたのだろう。それが失敗したのはヨウコが未熟だったのか、それとも向坂が執念深かったのか。
それにしては、目をそらしている間に姿を消した理由が分からない。
「急にどうしたんだろ」
ヨウコのしわざでもないようだった。
「お前の仲間がやったんじゃないの?」
「そうかも」
狐たちのネットワークがどういうものかはよく知らないが、そのくらいのことができる者はいるようだった。
そんなわけで謎は何となく解けたが、問題は何ひとつ解決してはいない。
「ちゃんと見えるわ……はじめまして」
それた話題を思いっきり元に戻してくれたのは岬さんだった。傍目から見れば兄妹がワケの分からない議論をしているように見えたことだろう。
「あ、ああ、ごめん……」
完全に置き去りにされて、居心地が悪かったに違いない。それがわかっていながら、愛想笑いしかできない自分が悲しかった。
それに引き換え、ヨウコは要領がいい。
「お兄ちゃんを宜しくお願いします」
いかにも物わかりのいい妹といった様子でペコリと頭を下げる。襟元から服の中がモロに見えて、僕は背中を向けた。
その時だった。
……ズキン!
心臓の辺りに、ものすごい痛みが走った。
息が、苦しい。立っていられない。
「浅賀君!」
「お兄ちゃん!」
目の前が真っ暗になって倒れたとき、最後に聞こえたのは遠くの木の葉のざわめきと、2人の女の子の声だった。
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