第10話 死線




 パキリと圧し折られた枝が呻き、落葉は小さな足が踏みつけられる度にガサリと喘ぐ。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 カタカタと歯が擦れ合い、手や足は倒れないのが不思議な程に震えている。

 それでも、ミリアは走り続けた。

 走り続けるしか、なかった。


「あぐっ」


 突如として暗闇に隠れていた茂みが足を打ち、


「くっ!」


 低い場所から伸びた梢が行く手を阻むように頬を掠める。

 薄暗く、鬱蒼とした森に生い茂る草木。

 それはまるで、迷い込んだ獲物を捕らえようとでもするかのように進む道へ広がっていた。


「ガゥァッ!」

「バウッバウッ!」


 遠い後方から耳を打つ威嚇の声。

 それが、じわりじわりとミリアの心に恐怖の鎖を絡み付いていく。


(このままじゃ……食べられる!)


 二つの足音が、少しづつ近くなる。

 幾筋もの紅い線を刻まれた体が冷たい風に撫でられて激しい痛みを訴えている。

 それでも、立ち止まることなどできない。

 立ち止まることなんて、できるわけがない。

 ミリアは、歯を食いしばることで震える口を無理矢理に抑えつけた。


(つ、『包め』……『包め』『大いなる力』『強化ブースト』!)


 紡いで、詠う。

 ミリアが決死の思いで念じ、発動させたのは性質を高める魔法『強化ブースト』だった。

 傷だらけとなった体を、薄い膜になった魔力が覆う。


(……! できた!)


 軽くなった足は、それの確かな証。

 自身の放った魔法が無事に発動したのを感じて、折れかけていた心が奮い立った。

 まだ、走れる。

 まだ、戦える。

 目に強い光を取り戻したミリアは、無意識に固めていた手を強く握り締めた。


「絶対に……逃げ切ってやる!」


 茂みは足で踏み越し、邪魔な枝は手で払い除けながら、ミリアはかつてただの村娘として暮らしていた時のことを思い出した。


 あの頃は、やんちゃなことばかりしていた。

 やりたいことは一も二も考えずにやった。

 欲しいモノがあったらくれるまで強請った。

 行きたいところがあればあの手この手で行ったし、行きたくなかったら意地でも行かなかった。

 気に入った人がいれば無理に引っ張り出しては連れ出したし、気に入らなければ大人顔負けの喧嘩をかましたりもした。

 そんなミリアは、友達や親友達を相手にいつも自慢していた。




 ――鬼ごっこで一度たりとも捕まったことはない、と。




「はっ、はっ、はっ、はっ」


 肩を激しく上下させ、骨の軋む足を打ち付ける。

 光は、まだ見えない。

 けれども、風が吹いてきた。

 強く背中を押し出され、軽く浮いた足が大きく前に踏み出される。

 消えかけていた胸の灯が、炎となって弾けた。


(このままなら……っ!)


 いける、と確信しかけたミリアの耳へ、不意に音が入って来た。

 ガサガサと草木の揺れる音。

 小さく聞こえるのは、それが少し離れた場所で鳴った音だったからだろう。

 しかし、目を大きく開いたミリアは、顔に焦燥の色を浮かべたまま音のした方を見た。


「くっ!?」


 音がしたのは、右の方角。

 いつの間にか並走しているヴォルフの存在に気付いたミリアは歯噛みするや否や、その手を胸元に伸ばした。

 掴んだのはローブの両端と、それを繋ぐ太い紐。

 一気にローブを脱ぎ、捨てるのではなく走りながら小脇に抱える。

 ガサリガサリと草木の揺れが近付き、それと同時に合間から黒い影が視界の隅に映った。


「私を……」


 チラリ、と赤い瞳がミリアの目とぶつかった。

 一列の草木を隔てた先にヴォルフがいる。

 隣で動いていた影が身を屈めた。

 それを目の端で見ていたミリアは、握り締めていたローブを大きく振り上げる。


 そして、獅子吼した。


「田舎育ちを! 舐めんなぁ!!」


 勢いよく飛び出すヴォルフ。

 それに向かって、ミリアが大きく翻ったローブを投げつけた。


「ギャウ!?」


 視界が遮られ、戸惑ったヴォルフの頭にローブが被さる。

 それを振りほどこうとヴォルフが頭を振るよりも早く、ミリアは傷だらけのしなやかな腕を伸ばした。


「『風よ』『吹き飛ばせ』『ウィンデ奔流バースト』!」


 はっきりとした玉の声が言葉を唱える。

 薄暗い世界に響いた声と共に、ミリアの手から一気に放たれたのは、小さな暴風だった。

 散っていた草木を纏い、周囲の風を押し退けて、放たれた暴風はローブを被ったヴォルフを軽々と吹き飛ばした。


「ガウッ!?」

「ギャイン!」


 吹き飛んだ先に、追走するヴォルフが二匹。

 その片割れは、突然の反撃に対処することができず、巻き込まれる形で地面を転げていった。

 だが、反射的に避け、同胞が攻撃されたのを見たもう一匹のヴォルフが、敵意の高まった瞳の焦点をミリアへと定めた。


(やった!)


 咄嗟だったにも関わらず、反撃に成功したミリアは心の中で喜びの声を上げた。

 足の限界は近く、肩を上下させても胸が鈍い痛みを発している。

 それでも、残ったヴォルフは一匹。

 一対一ならば、勝機がある。

 そう睨んだ時だった。


「っ!」


 カサリと草むらを突き抜ける音。

 瞠目し、音のした方へ顔を向けて、


(うそでしょ!?)


 ミリアは自身の目を疑った。

 視線の先にいたのは、猛追するヴォルフが二匹。

 それだけじゃない。

 まだ、後ろから一匹のヴォルフが追走している。

 真綿で締められるように。

 じわり、とミリアの心が焦燥に締め付けられた。


(なんでこんなにヴォルフが……)


 瞬く間に茂みの揺れがミリアの真横へと迫る。


(来る!)


 足を止めることなく、頭を抱える。

 それから身を低くすると同時に、隣の草むらが踏み抜かれた。


「ガァッ!」

「うっ!」


 飛び出したヴォルフが、ミリアの頭があった場所へ顎を繰り出した。

 カチン、と挟む音がミリアの真上を通り過ぎていく。

 一瞬でも遅かったら、と嫌な想像をしたミリアの体が、僅かに強張った。

 だがそれは、あまりにも致命的な一瞬だった。







「あっ!?」







 ぐらり、と体が傾いた。

 上から下へと流れる視界。

 その中で、太い木の根が少しばかり地面から出しゃばっているのをミリアは見た。


(まずっ……!?)


 転んだ、と理解するころには既に地面は目前まで迫っていて。


「あぐぅ!」


 勢いのままに体が地べたを転がった。

 傷跡が擦れ、激しい痛みにミリアの口から喘ぎが零れる。

 そこへ、ヴォルフの足音が到達した。

 到着して、しまった。


「ガウァ!」


 大きく開いた口が、鋭く伸びた牙が振り下ろされた。

 突き立てられたのは――ミリアの黄金色の長い髪。


「グルルゥ! グルァウ!」

「嫌ッ! やめてっ!」

「グゥ! グルゥ!」

「痛いッ! 痛いっ!」


 苦痛に顔を歪めたミリアが、金切り声で叫ぶ。

 しかし、髪に喰らいついたヴォルフは、頭を横に振るうとそのまま引っ張るようにしてジリリ、と後退した。


「ぐ、あ……」


 ひたり、とくしゃくしゃになったミリアの目から涙が流れ落ちた。

 髪を掴み、必死に抵抗するも痛みに震える手では対抗しきれない。

 力で、魔物に勝てるわけがなかった。


「ガウ! ガウッ!」

「やめ、てよ……」


 口から出たのは、あまりにも弱々しく、か細い声。

 恐怖と激痛に捕らえられ、心を絶望に握り締められたミリアの体は、ただただ震えていた。


(みんな……)


 親友の笑う顔がふと脳裏を掠めていった。

 不貞腐れた顔は、もう一人の親友で。

 顔を真っ赤にしているのは大っ嫌いな父親。

 それと、


「オウ……ル……」


 その声は、縋るように口から零れていた。

 光のように優しい顔をしたオウルの姿が、まぶたの裏に蘇った。




 ――俺の名前はオウル・ソフィリアナ。そこら辺にいるただの旅人魔法使いだ




 ――ん、あぁ、そうだな。いい名前だな。男っぽくて実にカッコいいと思うぞ




 ――ちょ、待て待て! 暴力はやめろ! まだ食事中だぞ!?




 ――おん前落ち着けって。ここで暴れたら敷居が高くなってこの店来れなくなっちまうから。マジで落ち着け




 最初は、女みたいな名前をした珍妙な人だ、と思った。

 髪も白いし、服も安っぽくてダサい。

 酔っ払いと喧嘩できるくらいに強いのは知っていたが、不思議と怖さは感じなかった。

 けど、




 ――…………ごめん




 その声は。

 その背中は、すごく寂しそうだった。

 もしかしたら、オウルを仲間にしたいと思ったのは、そんな姿が見たくなかったからかもしれない。


(私……死んじゃうのかな……)


 猛追していた足音は、もう聞こえなかった。

 湿っぽくて荒い吐息が、近くから聞こえる。

 そのはずなのに、それがどこか遠い音のようにミリアは思えた。


(オウルに……会いたかったな……)


 ゆっくりと、まぶたが下りていく。

 視界が、上と下から浸食する暗闇に霞んで消えようとしている。

 未だ実感の湧かない死を呆然とした心で受け入れることにした。

 いや、受け入れようとした。







「その子から、離れろッ!」







「…………ふぇ?」


 不意に飛んで来た力強い雄叫びが、ミリアの目を開いた。

 そのすぐ後に、


「グァン!?」


 口を裂き、ミリアへ噛みつかんとした横顔を、大きな何か――否、水の塊が撃ち抜いた。

 顔を打たれ、グリンと首を曲げたヴォルフの口から苦悶の声と強い吐息。

 だがそれは、単なる始まりに過ぎなかった。


「ギャウン!?」

「ギャン!!」

「グムッ!?」


 動きを見せるよりも早く、押し寄せた大量の水の塊が群がったヴォルフの元へと殺到した。

 それはまるで、台風に降る豪雨の如き、容赦のない攻撃だった。

 あるヴォルフは為す術もなく全身を撃ち抜かれた。

 あるヴォルフは一つを避けた先で十の塊に打たれ、更に飛んだ先で二十を超える水の塊が襲来した。

 あるヴォルフは反撃をしようと開けた口を飛んで来た水で封じられた上、顔を滅多打ちにされた。

 バタバタ、と気力と体力の失せた脅威が倒れていく。


「え……」


 あまりにも圧倒的な蹂躙劇。

 ミリアは涙を拭うことも忘れて、その光景に見入っていた。

 そんな彼女の元へ足音が駆け付けてきた。

 近づいてきた優しい足音へ目を向けたミリアは、おもむろに口を開いた。


「あな、たは……」


 ボサボサに乱れた白い髪。

 至る所に葉やクズの付いた服。

 そして、冴えないけども穏やかで綺麗な瞳をした顔。

 間違いない。

 間違える、はずがない。

 そこにいたのは、


「良かった……」


 ミリアが、ずっと会いたい、と願っていた人物。

 優しい顔へ、今に泣き出しそうな表情を浮かべた青年――オウル・ソフィリアナだったのだから。



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