異世界から戻ったので、とりあえず復讐します

高取和生

第1話 絶望の始まり 1

プロローグ



遠くで波の音がした。


月は変わらない、淡い光を投げていた。



帰ってきた、のだろうか。


風が袖をするりと抜け、頬を撫ぜていく。


指を動かすと、湿った地面に触れた。



彼は、そのまま腕を真上に伸ばした。


指の隙間から、ぼんやり星が見える。


星々の位置から推定すると、ここは北半球。


そして


夜間飛行をしていく機体のマークは、日本のものである。



季節は、夏の終わり頃だろうか。


ああ、帰ってきたんだ、本当に。


ゆっくりと上体を起こし、小さく息をはく。

腹に巻いた包みをほどき、身支度を整えた。


やるべきことは、たくさんある。


とても、たくさん……


まずは……

まずは、飯が食いたい!




早咲きの桜が、校庭のそこここに舞う。空気は薄いピンク色だ。


狩野学園の小学部は、明日から春休みだ。


担任の真鍋は、お決まりの休み中の注意なんぞをしゃべっている。


もっとも、五年生の男児たちは、「おっかなくない」若手教師の言うことなど、誰も聞いてはいない。


「かげっち、準備できた?」


後ろの席の小沼悠斗が、ひそひそと話かけてきた。


かげっちこと藤影恭介は、答える代わりに、後ろに向けて、小さく親指を立てた。


「俺、チョー楽しみ。初めてだもん、オーストラリア」


「僕もだ」




資産家の子弟が多く在籍するこの学園は、小学部から希望者には語学研修が組まれていた。


五年生はオーストラリアに二週間。ホームステイや現地の子どもたちとの交流の他に、グループ別の自由行動も予定されている。


「でも俺、かげっちと班が別々なの、つまんないなぁ」


恭介は、心のなかで呟いた。


「僕も、だ」


瞬間、鋭い春風が、桜を散らした。




迎えにきた車に乗る恭介を見送った小沼悠斗は、空手教室に向かっていた。


(大丈夫かな、恭介…)


お金持ちの子どもが多い学園のなかでも、恭介は別格だ。


恭介の父親は、日本を代表する製薬企業の代表で、学園の式典に来賓で招かれたりする。


母親は、ミスなんとかだったそうで、以前は授業参観でたまに見かけた。

その辺のテレビタレントなんかより、ずっと細身で綺麗な女性だ。


恭介はその母親に瓜二つだ。


くっきりとした瞳と、すらっと高い鼻梁。さらさらの髪の毛は、陽が当たると栗色に光る。

同じ学年の男子より、身長は少し低い。


女子たちは「恭くん、かわいい!」と言って、恭介が嫌がっても頭をぽんぽん叩いては、きゃっきゃと笑っていた。


それを見た男子はムカつくようで、すれ違いざま、恭介に腹パンしたり、足をひっかけ転ばせてたりしていた。



ずっと、悠斗は恭介をかばってきた。

そんな陰湿な行為が大嫌いだった。


何よりも…


恭介は育ちが良すぎるせいか、感情の起伏が少ない。べらべらと、お喋りをすることもない。

そのためか、金持ちのすかしたおぼっちゃんと評されてもいる。


でも


悠斗が空手で指を骨折した時は、さりげなく荷物を持ってくれた。

悔しくて泣いている悠斗の背中を、何も言わずにさすってくれた。


そして


あの時も…


悠斗は何回も、恭介に救われていた。


だから心配になる。


転ばされた恭介は切れた唇から、「僕は大丈夫だから」と言った。



その時、恭介に足を出した奴、新堂侑太と、今回の研修で、恭介は同じ班になっていた。


新堂だけじゃない。


新堂のあとを、いつもくっついている戸賀崎や、美少女だけど、超我がままな牧江など、面倒なメンバーばかりの班。


なんでこんな班編成になったのだろう?


悠斗は軽く頭を振った。


今考えても仕方ない。現地に行ったら、できるだけ俺が恭介を守るんだ。


まとわりつく不安を振り切るように、悠斗は駆け出した。




真鍋志麻子は退勤後、早足で待ち合わせの場所を目指していた。


狩野学園小学部の教員になったのは、彼の勧めだった。


待遇は悪くなかったが、名門私立の児童らは、プライドと知力が高く、扱いにくい。


よって、思いのほか、日々ストレスはたまる。


彼に愚痴を聞いてもらわなければ、とっくに辞めていた。


いつものホテルのラウンジで、彼はパソコンを打っていた。


時折、前髪をかき上げてる、長い指先がセクシーだ。



「お待たせ」


志麻子は笑顔で隣に座った。



「明日から子どもたちはオーストラリアだっけ、あ、紅茶で良い?」


ノートパソコンを閉じて、彼が志麻子を見つめた。


「うん。春休みだし、私は引率じゃないし、気が楽よ」


運ばれてきた紅茶を飲み、志麻子は自分の手を、彼の手に重ねた。


「今夜はゆっくりできるわ」


いつの間にか、頭を彼の肩に乗せ、寝息を立て始めた志麻子を抱えるように、男はホテルの駐車場へ向かった。



藤影恭介が家に戻ると、珍しく父、創介が居間にいた。


恭介の祖父から受け継いだ小さな薬品会社を、日本でも有数の製薬企業に変えた創介は、アメリカのビジネス雑誌にも取り上げられる人物である。


ただし、家庭においても彼は厳しい。


物心ついて以来、恭介は父の笑顔を見たことがない。


父が家にいる時は、背筋を思いきり伸ばしている。


そして…


正座して、恭介は父に挨拶をした。


「ただいま帰りました」


創介はギロリと瞳を向けた。


「あ、お帰り。僕の方が一足早かったね」



創介の陰から、新堂侑太が顔をのぞかせた。口元の笑みは、少し歪んでいた。


「君と違って、恭介はノロマだからな」


創介はにこりともせずに言う。軽い冗談には聞こえない温度。


「おじさん、じゃあ、僕、恭介君の部屋におじゃましますね」


侑太は恭介の従兄にあたる。


父、創介は、昔から恭介よりも侑太を可愛がっていた。


同じ学年でも、侑太は恭介より体が大きく、弁も立ち運動能力が高い。


創介の理想の息子像なのだろう。


侑太に転ばされた時、怒って侑太に殴りかかろうとした悠斗を必死に止めたのも、侑太と揉めたら、悠斗にも迷惑がかかることを恐れたからだった。



「ほらノロ恭、早く歩けよ」


侑太は膝で恭介の尻を蹴り、ニヤニヤする。いつものことだ。


「お前に持ってって欲しい物、あるからな」


その後、恭介の部屋で、侑太はゲームで遊んだり、合間に恭介を蹴ったり叩いたりして帰っていった。


恭介はようやく、母の部屋を訪れることが出来た。


恭介の母、藤影亜由美は父より二十歳近く若い。


数年前からベッドで過ごすことが増え、医師の診断により、現在は家族とも、長時間一緒にはいない。


「かあさん、明日からオーストラリアに行ってきます」


亜由美はニコッと首をかしげ、恭介を手招きした。


恭介がそばに行くと、亜由美はそっと彼を抱きしめた。


柔らかく甘い香りがした。


彼女は鏡台の引き出しから何かを取り出し、恭介に手渡す。


それは一枚の写真だった。


父と母と、母の腕に抱かれた赤ちゃん。


恭介は驚いた。写真の中の父は、笑顔だった。


母は恭介の髪を櫛でとくように触れながら、唇を動かした。


あ・い・し・て・る


思わず、恭介は泣きそうになった。







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