第Ⅳ章 モン・サン=ミシェルにて

第40話 合縁奇縁

「あ、あの、先程は、ありがとうございました。自分、カードと最低限の現金しか持っていなかったので、本当に助かりました。いくら感謝しても、あなたには感謝しきれないです」

 レンヌ駅で乗車券を紛失して、フランス国鉄の私服職員に〈アマンド〉、つまり、現金での罰金百ユーロの支払いを要求され、難儀していた黒スーツの日本人の若者が、有栖川哲人と有木雷太が乗っているモン・サン=ミシェル行きのバスに乗り込んできた。その若者は、彼にとっての恩人である哲人に、わざわざ謝意を述べに来たらしい。


「後日、何らかの形で御礼をしたいので、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 黄色いテープで作られた簡易改札を抜けるとすぐに、黒スーツの若者、蛇石理音は電話を掛け、パリにいるドン・シンイチに、ここまでの状況とレンヌでの出来事を報告した。

 ドンは、もはや、護衛対象に顔バレしてしまったのだから、影からの護衛という方針を転換し、今後は、哲人の知己を得て、旅の仲間になり、哲人を直接守れ、という指示を蛇石に与えたのであった。

 これが、既にその名を知っているはずの哲人に、蛇石が氏名を尋ねた、その理由である。

 

「有栖川哲人(ありすがわ・てつじん)です」

「自分は、有木雷太(ありき・らいた)っす」

「改めて、名乗らせていただきます。石音理一郎(いしね・りいちろう)と申します。

 大学四年で、友人二人と、卒業旅行でフランスに来ているのですが、しばらく前から、その二人とは別行動をしていて、夜に、モンサンミシェルで合流する予定なのです」

 蛇石理音(へびいし・りおん)は、あらかじめ用意しておいた偽の名と情報を、スラスラっと哲人と雷太に語った。

 組織では、ドンのミッションに従事する場合には、変名を使う事になっているのだが、その際の偽の個人情報は、ドン・シンイチの部下に正式採用される前に受けた研修において、頭に叩き込まれていた。ちなみに、こういった嘘は、事実を少しだけ加工するのが、嘘にリアリティを付与し、相手に嘘だと悟らせないコツであるそうだ。


「石音さんの黒いスーツ、ビッとキマっているっすね。それ、どこのブランドですか?」

「理一郎君、僕も、ファッションにはそんなに詳しくはないんだけれど、それって、もしかして、〈ヨウジヤマモト〉かな?」

「有栖川さん、その通りです」

「ほう。知ったかの当てずっぽだったんだけれど、当たってよかったよ。

 パリで暮らしている知人が、〈ヨウジヤマモト〉の黒いスーツを好んで着ているので、なんとなく、それっぽいかなって思っただけなんだけれどね」

(それ、ドンのことだ)

 ドン・シンイチは、部下に着用させるスーツを、〈ヨウジヤマモト〉で統一しているのだ。


「有栖川さん、有木君、実は、行きの〈ティー・ジー・ブイ〉でも、お二方とは同じ車両で、席も近かったんですよ」

「まじっすかっ! 自分、ムッシュの講義に夢中で、全く気が付きませんでした。あと、自分のことは、サンダーって呼んでください。自分の方が歳下ですし。

 ところで、石音さんには、なんかニック・ネームって無いんすか?」

「いや、これといったあだ名は……」

「じゃ、自分が考えますね。石音さんだから、イッシーネさん。なんか、しっくりこないな。じゃあ、石音理一郎さんだし、音理、これを、理音って逆にして、リオンさんだ」

「ぷっ!」

 理音は、思わず、吹き出してしまった。「リオン」というのは、大学における、自分の呼び名であったからだ。

「うん。〈リオン〉さん、なんか、まじ、ピッタシカンカンっす。リオンさん、改めて、よろしくっす」

「サンダー君、こちらこそよろしく。有栖川さんも、よろしくお願いします」

「リオンさんも、〈ムッシュ〉って呼んで構わないっすよ」

「お前が言うな」

 そう言って、哲人は、雷太の後頭部を空手で叩く素振りを見せたのであった。


「お二方って、どういった間柄なんですか? 叔父と甥っ子とかかな?」

「大学講師とその教え子っすよ」

「といっても、今じゃなくて、一年生の二外のフランス語クラスの時の教え子ですよ」

「い、意外です。

 一年の時の二外の先生なんて、一年こっきりの、しかも授業中だけの関係で、自分は、教師の名前すら、もはや覚えてはいませんし、教師の方も、名簿なしでは生徒の氏名も言えない感じでした。自分の周りでも、一年の時の教師と仲が良いなんて話、耳にした事もありません。それが、一緒にフランス旅行だなんて」

「ムッシュ有栖川は、そんじょそこらの語学講師とは一味違うっすから」

「どんな風に?」

「一口で言って〈神〉っすね」

 そう言って、雷太は、フランスに到着した際に、財布をスられた時の事を理音に話した。

「それは、たしかに、〈神〉としか言いようがないね。自分も、つい今さっき……」

 そう言った理音も、罰金が払えず立ち往生していた時に、哲人が助け舟を出してくれた事を雷太に語って聞かせたのであった。


「さっきの事ってそんな話だったんすね。ムッシュー、細かい事は何も言わなかったもんな。でも、やっぱ、ムッシューは〈神〉っすね」

「だね」

 そう言ったサンダー&リオンは、哲人に両の掌を合わせるのであった。

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