第17話 黒の剣士の闘い

「ヒャっ!!!」

 〈ミニュイ〉のリュテス円形闘技場に居る物好きなんて自分以外には存在しない、と思い込んでいたので、哲人は、思わず反射的に奇声を上げてしまった。ちなみに、ミニュイとは〈真夜中〉の意味である。


「ちょっといいですか? ムッシュゥゥゥ~~~、私は警官です」

 黒いコートを着ていたその出現者は、私服ではあったが、自分は警察であると述べてきたのである。

 真夜中の公園の真ん中で激しく動き回るという、傍目から見ると奇行以外の何物でもない行為をしていた自覚が哲人にもあったので、ここは大人しく、その私服警官に従うことにした。

 その私服警官によると、最近、この辺りで、東洋人の密売人による麻薬取引が行われているのだそうだ。

「先ず、財布を出して、私に見せてください」

 密売人は、財布の中にヤクを隠し入れておく場合もあるので、財布を確認させろ、とのことであった。

 哲人は、従順に財布を警官に手渡した。

 私服警官は、財布を手に取ると、哲人の長財布を開けて、中身を確認し始めた。


 哲人は、夕方、持ち金全部を叩いて、セーヌ河畔のブキニストから白い箱に入った巻子本を購入していたため、今現在、財布には一ユーロさえ入っていなかった。

 その男が、警官を装った強盗であるかもしれない、そう疑いもしたのだが、いずれにせよ、財布には紙幣が一枚も入っていなかったので、その警官の命令に大人しく従ったのであった。


 その私服警官は、財布の中を目で確認した後、今度は、財布の中に鼻を近付けて、くんくんと財布の匂いを嗅ぎ始めた。

「い、いったい、な、何をしているのです?」

 警官が言うに、財布に薬物が入っていた場合、その匂いが財布に付着するので、麻薬捜査官である自分には、ちょっと財布を嗅いだだけで、麻薬そのものが無かったとしても、入っていたかどうかが分かる、とのことであった。

 男が哲人に財布を返した時、目の前の警官の口角が上がったように哲人には思えた。

「ムッシュゥゥゥ~~~、ところで、鞄は何処ですか? それも見せてもらえませんかね」

 鞄は、演武をする前に、アリーナの壁際に置いておいた。だがしかし、夜闇の中、その警官には哲人の鞄が見えてはいないようであった。


 !? ちょ、ちょ、待てよ……。


 その警官に声を掛けられた直後は困惑していたせいもあり、大人しく従ったのだが、目の前の男と話しているうちに、哲人は、冷静さを取り戻した。

 パリでは、原則、町中で警官が手荷物検査をするようなことはないはずだ。それは、強盗目当ての偽警官も存在しているため、いったん派出所まで一緒に行って、そこで、他の警官の同席の下、荷物の確認を行うと、何かで読んだ事を哲人は思い出したのだ。

 この事が頭に入ってきた今、目の前の男が話すフランス語も少し訛っており、何かおかしい気がしてきた。

「ムシュー・ル・ポリシエ(巡査さん)、鞄を見せるのは構いませんが、まずは派出所に行きましょう。そこでならば、いくらでもお見せします。そうじゃないと、『オ・スクール(助けて)』って大声を出しますよ」

 この場で鞄を開けることを断固拒否し、派出所に行くことを提案した哲人は、摺り足で少しずつ後退りし、その男との距離を空けると、いつでも行動に移る事ができるように、踵を僅かに上げた。

「チッ! めんどくさいな。いいから出す物を出せよ。大人しく言う通りにしていれば、痛い目にも怖い目にも合わずに済んだのになっ! ジャポネェェェ~~~ゼ」

 舌打ちし、イタリア語で何やら言ってきた偽警官は、突如、豹変したようになって、哲人に襲い掛かってきたのだ。


 偽警官である中肉中背のイタリア人は、自分と同じ位の背丈の日本人など、難なく無力化できると思い込んだのか、目の前の相手を完全に軽んじて、その日本人に向かって、不用意に直進していった。

 だが、顔の真ん前で、その日本人は、突然、両の掌を強く打ち突けたのだ。

 思わず目を瞑ってしまい、次の瞬間、鼻に強烈な打撃が入ってきた。

「ナァァァ~~~ゾ、ナァァァ~~~ゾ(鼻が、鼻が)」


 猫だましで、偽警官の視力を奪い、掌底の一撃によって相手の鼻を潰した後、哲人は、素早く壁際の鞄を拾い上げて、リュテス円形闘技場から走り出た。

「パリに着いた翌日に、いきなり、真夜中の闘技場で強盗と戦闘って、まじかよ」

 海外体験談としては面白いけれど、こういうのは、もうこれっきりにしたいわ。


「顔は覚えたからな、ジャポネェェェ~~~ゼ」

 そうイタリア語で喚き叫ぶ偽警官の声も耳に届いてきてはいたのだが、そんな制止の叫びなどお構いなしに、哲人は、脚を止めることなく、モンジュ通りの夜を全速力で駆け抜けていったのであった。

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