第26話 マロニエの木の下での師弟の対話

 有栖川哲人(ありすがわ・てつと)と有木雷太(ありき・らいた)、大学のキャンパスで「アリス&サンダー」と呼ばれる事もある師弟コンビの姿は、エトワール凱旋門の屋上テラスに在った。


 雷太は、スマフォのカメラ・アプリを起動させて、景色を何枚か写真に収めていた。

 もうしばらくと、凱旋門の屋上に居たがっていた雷太を促して、哲人は、高さ五十メートルの屋上から、二百八十四段もの螺旋階段を五分程かけて下り、この建造物の土台になっている広場に出た。


 この広場の正式名称は、「シャルル・ド・ゴール広場」なのだが、市民や観光客の間では、「エトワール広場」という通称で呼ばれている。それは、エトワールがフランス語で「星」という意味で、この広場を中心にして、星の煌めきのように、放射線状に十二本の道が延びているからである。


 哲人と雷太は、道路に囲まれたエトワール広場から、広場の南東方面に通じる地下道を通り抜けて地上に出ると、そのまま、シャン=ゼリゼ大通りを取って、大通りの東端であるコンコルド広場に向かっていった。

 アリス&サンダーの二人は、軽い下り坂になっているシャン=ゼリゼ大通りの西側、宝飾のカルティエ、革製品のルイ・ヴィトン、服飾のラコステといったブランド・ショップ、セフォラやゲランなどの香水店、ピエール・エルメやラデュレなどの洋菓子店、プジョーやルノーのような自動車メーカーのショー・ルーム、映画館、レストランやカフェなどが道の両側に立ち並ぶ、「欲しい物が何でも存在している」区域を、一言も言葉を発さずに、いずれの店に入ることもなく、また、ウィンドー・ショッピングに興じることさえなく、黙したまま、全てを素通りして行った。

 やがて、大通りの東側のマロニエの木が立ち並ぶ自然区域に入った辺りで、教え子の雷太が、たまらずに沈黙を破ったのであった。


「ム、ムッシュー、い、一体全体、な、何が起こったんす?」

 黙って歩きながら独りで考え込んでいた哲人は、顔を教え子に向けた。

「そうだな、自分一人の頭の中で思考をグルグルさせていても仕方がないな」

「せっかく、サンダー、お前がいるんだし、アリストテレスの〈逍遥派〉よろしく、歩きながらの〈対話〉をする事によって、考えを整理してゆくか」

「ダック(賛成)、ムッシュー」

 そうして、哲人と雷太は、言葉を交わし合いながら、マロニエ並木をゆっくりと歩き始めたのであった。


「まず、〈結果〉から確認することにしようか?」

「オッケーっす。ムッシュー、自分たち、コンコルド広場にいたはずなんすけど、いつの間にか、凱旋門の屋上にいたっす」

「僕たちがコンコルドにいた時刻、わかるか?」

「五時ちょうどっすね。自分、オベリスクの写真を撮りまくっていたので、間違いないっす。これを見てください、ムッシュー」

 そう言った雷太は、哲人にスマフォの画面を見せてきた。その写真内のオベリスクの影は、石畳の「V」の文字の線上にあった。

「それじゃ、凱旋門の上にいたのは?」

「五時九分っすね」

「細かいな」

「凱旋門の屋上から撮った一枚目の写真のデータで、時刻が分かるっす」

「ということは……、コンコルド広場から、わずか九分で凱旋門の屋上に居たことになる分けだ。シャン=ゼリゼ大通りは長さ約三キロ、キロ三分で走ったら到着可能だな」

「自分、移動中の記憶、全く無いんすけど」

「それは僕もだ。二人とも何も覚えていないなんて、走っている間、ランナーズ・ハイにでもなって、記憶が飛んじゃったのかな?」

「ちょっと、あり得ないっすね。腿もパンパンになってはいないですし」

「まあな。それに、たとえ、コンコルド広場からエトワール広場までを九分で走破できたとしても、凱旋門に入るには、長蛇の列に並んで入場順を待った後で、三百段近い階段を上らなければならない」

「どんくらいかかるんすか?」

「仮に入場が、ノー・タイムだったとしても、階段で屋上まで行くには、十分はかかる。つまるところ、十分足らずで、シャン=ゼリゼの端から端までを移動して、凱旋門の天辺まで昇るなんて、物理的には完全に不可能なんだよ」

「そりゃ、そうっすよね。

 そもそも、チュイルリー公園の出入口近くで、ヒエログリフを読んでいたんで、移動時間そのものは、もっと短くなるっす」

「この〈結果〉だけから判断すると……、僕たちが、いわゆる空間を〈瞬間移動〉したのは、明らかな事実、そう考えるしかないな」

「でも、そんな魔法アニメみたいな話が……」

「過去や異世界に〈転移〉しなかっただけ、ましって話さ」

「えっ、えええぇぇぇ~~~、ムッシュー、異世界転移って、浪漫ないっすか!?」

「現実に戻って来られる手段が確立されているのならば、異世界に行くのは、海外旅行みたいなもので、面白いかも、だけれど、僕は、現状に不満はなく、ここではない何処かに行きたいわけではないし、この世界で、やりたいことも、そして、成し遂げたいこともあるんだよ」

「自分もっすね。片思いで、まだコクってはないけど、好きな子、いるんで」

「はっ、はあああぁぁぁ~~~ん、それ、一年の時のうちのクラスの子だろ?」

「…………………………………………………………………………………………」

「教壇から教室全体を見ていると、なんかピンと来る時、あるんだよね」

「べ、別にいいじゃないっすか。ムッシュー、俺の恋バナなんて。それよりも今は、〈空間転移〉に関する考察っすよ」

「まあ、この話は、そのうち、じっくりと語ってもらうわ。

 さてっ!」

 哲人は、両手の掌を打ち合わせて、話題を元に戻したのであった。


「僕たちが〈空間転移〉をしてしまったとして、それじゃあ、その〈原因〉は?」

「凱旋門に移動する前に、ムッシューが、背中から壁の穴に落ちたんす。それで、自分、速攻で、ムッシューを追いかけて、穴の中に飛び込んだんすよ」

「突然、支えがなくなったようになって、背中から倒れてしまったんだよ。でも、あれが〈ゲート〉、いわゆる、〈転移門〉になったって考えるべきなのか?」

「ムッシュー、穴が背中の方にあったんで、見ていないと思いますが、壁にできた穴、扉の形をしていました。でも、今更っすけど、〈ゲート〉なんて、そんな非現実的なことが……」

「僕たちが知っていることだけが世界の全てではないよ。実際に体験してしまった分けだから、この現象を、あるがままに受け入れるしかないだろ」

「そうかもっすね」

「で、扉形の穴を通って空間転移をしたとして、何ゆえに、その転移門が開いたんだ? 発生原因は、場所か? 時刻か? その両方の時空間か? でも、どうして転移先が凱旋門だったんだ?」

「ムッシュー、原因って、やっぱり、あれじゃ……」

「ヒエログリフだよな、おそらく。サンダー、もう一回、読んでみてくれないか?」

「わかったっす、ムッシュー」

「ちょっと待て、サンダー、僕はヒエログリフが全く分からないんで、フリガナを振ってくれ。

 ノートはPDFにしているんで、もう、直接で構わないや、ノートにそのまま、フリガナを書いてくれないかい?」

「オッケーっす、ムッシュー」

 哲人から鉛筆を受け取ると、雷太は、近くにベンチを見付けて、そこでヒエログリフの下にフリガナを振っていった。

「終わったっす、ムッシュー。それじゃ、自分、さっきと同じように読んでみるっす」

 雷太はノートに目を落とすと、深呼吸をして、コンコルド広場にいた時と同じように、マロニエの木の下で、ヒエログリフを読み上げたのであった。


 しかし、なにもおこらなかった。

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