第五話 攻略


 日田百合は酷く身体が弱いが、存外風邪や流行性疾患に罹ることは少ない。

 それは普段、なったら下手したら命に響くからと手洗いうがいに衛生方面での頑張りを欠かさない故の結果であるが、とはいえ意外と風邪に悩まされがちの椿辺りにはうらやましがられたりもした。


「こほんこほん」

「うう、アヤメ……辛いよね。氷枕代える?」

「こほ、大丈夫……」


 そして、今日もその性質が活きてしまい、百合は誰かの辛いを看る羽目になるのだ。

 分厚いマスクで息し辛くなっている自分のことなんてすっかり忘れて彼女は妹、アヤメのすっかり熱っぽく紅くなった顔を見て泣きそうになっていた。

 アヤメは、可愛らしいとしか見られない姉と異なり整いきった美人である。

 きっと、この子が本気を出したなら、彼氏彼女の一人や二人、直ぐ作ってしまうだろう。まあ、二人も作られたらちょっと困るかな、とひと滴の汗を拭いながら百合は身内びいきにも思う。

 出来るなら、代わってあげたい。でも、そうなったらなったで迷惑を掛けてしまうのだ。ならば、大人しく看病を続けよう。と、そう考え至るまでにも、気にしいの百合にはどこか忸怩たる思いが付きまとった。


「よいしょ、よいしょ」


 ふわふわ髪を上下させ、甲斐甲斐しくも右往左往。百合は洗濯篭の重さと大きさに必死になったり、替えの衣服に昼に夜のご飯の支度に勤しんだりした。

 しかし、たっぷり一日学校を休ませて貰っているからには、寝入った妹にしてあげられることなんて次第に尽きていくものだ。汗を拭いて、熱を測って貰ったり氷嚢の位置を変えたりしていても、暇な時間は時にぽっかりと開く。

 大分無理していることを自覚している百合は、ぱったり眠らないように外の空気を吸おうと、窓を開けた。そして目を瞑って一つ深呼吸。

 再び目を開けたところで、彼女は驚くべきものを目にした。


「わっ! ……って、楠花ちゃん? どうやってそんな木の上に居るの?」

「けらけら。跳んで、降りただけさ」

「すごい!」


 そう、百合が張り出した木の枝の上に見つけたのは、同級生である鬼の土川楠花。

 猫も登れないだろう細い枝の上に大質量の楠の鬼が立っているのは中々に異常であるのだが、そんなことにも気づかずに、見逃したのだろう少女のアクロバットを百合は賞賛する。

 小さな子供の大きな喜びに楠花は気持ちよくなって、笑いながら言う。


「けら。それで、私はお邪魔しても良いかな?」

「うぅ、それは嬉しいんだけど……今ちょっと立て込んでて」

「なに、事情は知ってるよ。だがあんたが妹の世話で来られないって聞いて、心配でね。私は手助けしてあげたくなっちゃったのさ」

「その気持ちはとっても嬉しいんだけど……楠花ちゃんに風邪、感染させちゃったらと思うと……」

「けらけらけら」


 百合からの優しすぎる心配を受けて、楠花は笑む。そう、そんなあり得ない未来を口にするなんてなんて面白いのだと、鬼は笑うのだった。

 反発力のない柔らかな百合と違って、楠花は尖るほどに硬質、まるで一帯が金剛の結び。そんな綺麗なばかりのものに付けいる隙など欠片も無いのは当然だ。それこそ人の病や穢なんかに汚染はされない。

 そんなバケモノが人間なんてそんなか弱い者と同じとされて、思わず笑ってしまったのは、仕方のないことだったろう。


「私にはそんなもん、罹らないよ。人に似てるのは見た目だけだからね。中身は別物さ」

「そうかな? あたしには楠花ちゃんって、とってもいい人に見えるけど」

「けら。嬉しいこと言ってくれるね。……まあ、取り敢えずそれだけが私を入れない理由だってなら、押し入ってしまうよ。よっと」

「わ、土足」

「けらけら。これは失礼」


 音もなく窓から入り込んだ楠花は、注意に応じてスリッパをさっと脱いだ。土足と言われてそうしたが、実際問題彼女は家の窓辺からここに来るまで一度たりとて地には足を付けていない。

 ひとっ飛びで町の半分ほどの距離を零にしたその自在は、あまりに人間離れしていた。笑い声に、硬質の極みである隠れた角が揺れる。

 だがまあ、百合にとってはそんな異常なすべてがどうでも良い。下から認めて褒め称えるべき、大勢の中の一つ。

 鬼は外なんて考えもせず、鬼さんこちらと招き入れるのだった。日向のような微笑みが、楠花に向けられる。


「あ、そういえば楠花ちゃんに言うの忘れてた。こんにちは。そしてようこそ」

「……けら。こんにちは。百合は、律儀な不用心だねぇ」

「そうかな? 律儀は分かんないけど、不用心は違うよ。あたしはバッグとかちゃんと持っているようにしているもん」

「だが、そんな百合の握力は一桁だろ? そういうところさ。けらけら」

「ん?」


 首を傾げる百合。軽く解きほぐされていまう用心なんて、無いほうがいい。そんなことをすら黙って、鬼は笑う。

 そのまま二言三言。適当な言葉を掛け合い、二人は二階から一階へ。当たり前の合板フローリングとビニールクロスの家にて、映えるものなどあまりない。

 壁に絵画の一つ掛けていなければ、むしろ傷だらけ。だが、むしろ楠花はそれにこそ惹かれた。

 低めに集まる、クレヨンの痕に、引っかき傷の数々。そこに、昔の百合の元気を見つけた気がして、彼女は微笑む。


「けら。百合もちっちゃい頃は、随分とやんちゃだったんだねぇ」

「うん。あの時は、何時どうなっちゃうか自分でも分からなかったから、必死だったなぁ……」

「なるほど、ねぇ……」


 微かな命をぶつけて存在をこれでもかと示していただろう幼き頃を遠い目しながら、百合は思い出す。儚げにも、頭を降ろして。

 楠花は、そんな百合を抱きしめたくって、たまらなかった。なんとも、いじらしくて、必死だ。そんなものなんて、深く強く抱きしめて、止めどないほど全力で愛でたくなってしまう。

 だが、それでも彼女は愛/壊さない。一方通行な想いよりもきっと、相互理解が素晴らしいものだとバケモノは知っていたから。


 やがて、とある部屋の前で止まった百合に、楠花は首をこてん。その中に妹が居るだろうに、どうしてためらったのかと、前髪を流して疑問を示す。

 百合は、口元に一本指を持っていって、声を潜めて言った。


「この中にあたしの妹、アヤメが寝ているから静かにね。しぃってしてて」

「けら。分かったよ」


 その健気を受けて、楠花も小さな声で返す。

 そして二人してそうっと妹の部屋の中へと這入った。すると、聞こえるはずの寝息の代わりに、掠れた声が響く。

 驚く百合に、少し膿んだ力強さを持って、アヤメは声をかけた。


「お姉ちゃん、その人、誰?」

「アヤメ、起きてたんだ。ごめんね、起こしちゃったかな?」


 申し訳無さそうにする、百合。しかし、アヤメはそんな姉を見てもいなかった。

 敵性にするような瞳を持ってして、彼女は楠花を睨む。


「私が何時起きてたなんてどうでも良いじゃない……ねえ、その女、誰なの?」

「けらけら」


 物語の役割の上で自然優れているアヤメの観察眼には、鬼が根源との相似と収斂進化で得た万物の霊長の形の奥に、もっと鋭く尖った何かを認める。

 それに、怖気立つのは普通の反応。自分が悪性の細菌を引き入れてしまったと思ったら、姉はもっと悪性の存在を引き入れてきた。これは、自分がなんとかしないとアヤメは発奮する。

 そんな反応すら子犬の威嚇と楽しむ楠花を他所に、百合は言う。


「もう、どうしちゃったの、アヤメ? この人はあたしの友達の、土川楠花ちゃんだよ」

「それが、お姉ちゃんの友達?」

「そうだよ?」

「お姉ちゃんがそう言うなら……仕方ないか。ごめんなさい」


 楠花に向けて、下がる頭。黒髪のつむじの花を楽しんでから、鬼はアヤメに言った。


「けらけら。気にしないでいいよ。私だって私が紛らわしいとは知ってるしね」

「んん?」

「……お姉ちゃんは、気にしないでいいの」

「そう?」

「けらけら」


 よく分からないけれど妹はそれでいいと言うし、お友達は笑っている。ならいいか、と思う程度の度量は百合にもあった。

 それじゃあ気にしないで続きだね、と意気込み百合は袖まくりを始める。そして、たらいに張った水の温度を確認しだした。

 その行動にどうしたのかと思うアヤメに、妹思いに感けて色々忘れているお姉ちゃんは、タオルを手にして言う。


「よしっ、それじゃあアヤメ。汗で濡れて気持ちが悪いでしょう? 脱いで。あたしが拭いてあげる!」

「えぇっ! ちょ、ちょっと。お姉ちゃん、そんな急に。あたし心の準備が出来ていないと言うか、そこの土川さんが観てると言いうか何というか……」

「けら。私は横向いてるよ。お好きにどうぞ」

「だって! よおし、久々に姉妹のスキンシップだー!」

「ちょっと、直に触れられたら我慢が、きゃ」

「アヤメ、凄い肌キレイ!」

「うぅ……恥ずかしい……」


 一瞬だけ肉食獣の瞳をしたと思ったら、姉に無遠慮に触れられる度に顔を朱くしてうろたえる妹。

 陶磁のような白い肌に、赤みがさす。その貴重を知らずに、百合はごしごしごしごし。それに成されるがままのヘタレたアヤメのその様子を背中越しに受けながら、楠花は。


「けらけら」


 けらけらと心底楽しそうに笑った。




 日田アヤメは、姉に似通う柔らかみを持っている。生来のその容姿を見てとれば、多くの人は癒やしを覚えて、惚れ込むものだろう。

 だが今、それは険によって損ねられてしまっている。その残念に、一言物申したくなる楠花であったが、しかし下手人たる自分がちょっかいをかけるのも違うだろうと謹んだ。


「くぅ……」


 また電池切れを起こして眠ってしまった百合の頬をその長い黒髪でくすぐりながら、アヤメは口火を切った。

 彼女は、自分の大切なものを守るために、簒奪者に対して向かう。


「姉が寝ているから、正直に話しますが……何なんですか、貴女。あまりに人間性が薄っぺら過ぎます」

「けら。どうしてこうも百合の周りは面白いのが多いのかねぇ……まあ、答えてあげようか。私は、人間じゃなくて鬼なんだよ。だからあんたにはそう見えるんだろうね」

「なるほど……そのレイヤの奥に透けて見えるかぎ針が……いや、それだけじゃない。それどころじゃない?」

「まあ、私のことなんてどうでも良いじゃないか。私は、そんなことよりあんたの敵視の理由が知りたいところだね」

「……そんなこと、明白じゃないですか」


 少し正体に悩んだアヤメは楠花に諭されてはっとする。そうして、単に目の前の相手を睨むことに執拗くなった。

 蛇に懐く親鳥を護ろうとする子の鳥が必死になるのは、牙がよく見えてしまうだけに当たり前のことだったから。

 鱗の如き美麗さを持つ異形に、ふうわりとしたものを持つ少女は頑なに身を固くする。だがそんな様、可愛いだけだった。

 そんなことを知らず、柳眉というにはいささか愛らしすぎる眉をアヤメはぷんと怒らせるのだ。


「私から、大切なものを奪い取ろうとしている存在なんて、敵です」

「けら。そりゃ、ちょっと違うなぁ」

「違う?」


 知らず、手慰みにか姉の奔放な髪を撫で付け出していた妹は、その手を止めて、首を傾げる。

 だがそのあまりに優れた観察眼からは、姉に惚れ込む鬼の姿が明白だった。しかし、楠花は違うと言う。

 それでは足りないと、笑うのだった。


「けらけら。だって私は、百合と番いたいんだからね。するとそれに付属するアヤメ、あんただって丸飲みさ」

「なっ!」

「何ならお姉さんの代わりに、私がいいこいいこしてあげようか?」


 アヤメは驚く。役割上発生した時から優れているその瞳を持ってして間違いないと思えるくらいに、楠花は自分のことだって愛でようとしている。

 よく知らないのに気持ち悪いくらいに思いやろうとする、そんな相手の手のひらを、アヤメは拒絶した。そして、大好きなお姉さんを抱き仄かに劣情抱きながら歯切れ悪く言うのだ。


「止めて下さい! そんな……私だってお姉さんと一緒になりたいのに……」

「ふぅん。なぁんだ。なら、競争だね」

「競争?」

「だって、あんたと私。共にお姉さんのことが好きなんだろ? なら、どっちがこの唐変木を攻略できるか、競争するのも悪かない」


 怯えるアヤメの前で、どこまでも本気に楠花は宣言した。

 彼女の鋼色の瞳は物語る。百合に対する真剣を。そして、妹の姉に対する思慕の情すら認めていると暗にも。

 アヤメははじめてそこまで見透かされ、しかし想像よりもずっと否定されなかったことに大きな目をぱちぱちとさせてから、にこりと微笑んだ。

 花は円かに重なり、柔らかに開いて咲き誇る。その笑顔は、酷く蠱惑的な乙女のものであり、それを見た決して悪食ではない楠花に、姉が姉なら妹も妹で歪んでて美味しそうだ、と思わせるほどのものだった。


「ふふ……良いでしょう。受けて立ちます。私は誰よりこの人に近いのだって証明するためにも、お姉さん、いいえ百合を骨の髄まで攻略してあげますよ」

「くぅ……アヤメ……」

「うふふ。百合ったら、可愛い」

「けら」


 優しさ拗らせいやらしく頬を這い回る手のひらにむずがる百合に、アヤメは恍惚。

 禁忌をすら愉しんで、妹は姉を愛する。そんな様を見てご満悦な楠花は、さてどう姉妹を頂こうか、と考え巡らせたりもしていた。

 そんな、妙に桃色がかってきた空間。しかし、むせかえんばかりのその色情に堪えられなくなったのか、アヤメの幼い喉が、主張する。


「百合……けほけほ」

「ああ、風邪がぶりっかえしちゃったかい? もう無理はやめな。後は私が二人分面倒見てあげるから」

「……ありがとうございます。けほ。貴女と私は敵のはずなのに、締まらないですね……」


 咳が止まらず、思い返せばこの頬の熱は想いだけによるものではないと、アヤメは気づく。

 立ち上がるにも億劫で、これはもうどうしようもない。鬼の手でも借りなければならないだろう。

 しかし、そうすると格好悪いと思うアヤメに、楠花は諭すように言うのだ。


「けらけら。世の中、そんな方がよかったりするのさ」


 この世は固い結びばかりではなく、緩みもあって然るべき。白でもなく黒でもない。そんな世界の灰色に位置する存在である、人護りの鬼はそう言って、笑うのだった。


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