第5話

 アーリがスモークテーブル・ガーレルの店内に戻ると、キッチンからは焼き始めた肉と数種類のスパイスが濃厚な、それでいて繊細な香りが溢れ出している。それを包み込んでくるのが香ばしい小麦パンの焼ける匂いだった。


 アーリは鼻腔と肺がいっぱいになるまでその香りを吸い込み、匂いで料理の味や見た目を想像しながらバレントとループが座っている木製の長テーブルに座った。


 地面にちょこんと座る大きな狼ループと脚を開いて男らしく座っているバレント。二人はこの後の予定について話し合っているらしかった。どうやら少し食材を買い足してから七番街にあるハンター協会へ寄るらしい。


 そんな話は今のアーリにはどうでもよかった。ぼんやりとテーブルに肘をついて、この後に控えている美味しいご飯とカルネにプレゼントを渡せ——。


「カルネは喜んでたか?」

「……え?」


 頭の中を読み取られたかと困惑するアーリの横で、ループは静かにふふっと含み笑いをした。 

「数年は一緒に暮らしているんだ、そのぐらいの事は匂いでわかる」

「えっと……そ、そんなんじゃ……」


 アーリは自分でも赤面しているのが分かるくらいの恥ずかしさを覚えた。少女が抱き始めた淡い恋心は、彼女が言葉で表現するには難しい。アーリができるのはただ下を向いて、モジモジと恥ずかしがる事だけだった。彼女自身もこれが恋であることすら分かっていないのだが。


「そうか、フラップスの店でクリスタルを出した時に、微妙に割れていたのはそれか」バレントは普段はあまり見せないニコニコとした表情だった。「家族や狩猟と同じくらい友達は大事にするんだぞ」


 どうやらバレントはアーリの本当の感情に気が付いていないらしい。

「……そういえば、バレントは東の樹海に入った事はあるのか?」

 ループは何か言いかけたが、これ以上少女をからかうのは躊躇われたようで、露骨に話題を切り替えた。


「俺は無いな。聞いた話ではコンパスが効かなくなるらしい。ピテ・ピテルの大軍がいるという噂もあるが、あまり素材を欲しがる人もいないしな、通る人間もいないから駆除や護衛なんかの依頼もないんだ」

「ピテ・ピテルって本でしかみた事ないんだけど、ホントにいるの?」


 ピテ・ピテル。猿の様な体と鳥類特有の嘴、鉤爪を持つ怪物であり、リーダーを中心に集団で行動する性質を持つ。体は一メートルにも満たない個体がほとんどで、自分より大きな生物は基本的には襲う事はない。木の実を主食とし、樹上にいる事が多い。


「確かに俺もみた事はないが……怪物の研究者が書いた本だ。存在しているとは……思うぞ」

「他の怪物に食われて、絶滅していなければな」

「ふーん、東の樹海かぁ」

「行ってみたいか?」

「ちょっとだけ。見た事の無い景色とか、生物とか。見てみたいとは思う……かも」


 バレントは少し怪訝そうに眉を顰めたが、アーリもループもそれに気付くことはなかった。


「……ま、まぁ行ってもいいが、もう少しアーリが慣れてからだろう」バレントは居心地悪そうに頰を撫でた。「経験を積んで、あらゆる状況に対処できるようになったら、だ」


 バレントの言葉が終わるのを見計らっていたかのように、キッチンからガーレルがパチパチと脂の跳ねるステーキを運んできた。

「ステーキ三つ、お待ちどうさま」


 机の上に並べられた三枚の熱々の鉄板の上には、ちょうど良い火加減で焼き上げられた分厚いロース肉が、肉の旨味を含んだ蒸気を噴き出している。横に添えられた赤褐色のソースとマッシュポテト、彩野菜のグリルが色のアクセントになって、見た目だけでも十分満足できるほどだ。

「美味しそう!」

 続いて運ばれてきたのは優しい小麦のよい香りを立たせる丸いパン。バレントの手のひらよりも大きいが、ふんわりとしていてペロリと食べきれてしまいそうだ。ベロール麦を使ったこのパンはガーレルの店でも人気の商品で、ループのお気に入りでもあった。


「いただきます!」

 アーリは料理がテーブルに置かれるなり、手を合わせてそう言った後、すぐさまフォークとナイフを手に取って肉を切り始めた。

 ナイフを一度いれただけでスッと切れるほどステーキは柔らかく、肉汁が鉄板の上にじゅわりと溢れ出し、ミディアムレアに焼けた内部が露わになった。フォークで持ち上げると、二センチほどの厚みがあるとは思えないほどたらりと重力に負けて下へ垂れる。


 赤褐色のソースを少しだけ付けて、口元へ運ぶと肉とソースの旨味が鼻から肺へと直接流れ込んでくる。


 口腔内に湧き出た涎を飲み込み、ステーキを口の中へ放り込むと、舌が肉、ソース、そしてスパイスの複雑かつ繊細な味を感じ取る。鼻へ抜ける若干の炭の匂いも相待って、柔らかく全体を包み込んでくれる。


 脂身が歯で噛みしめるまでもなく、口の中に入れただけで溶け始める。歯を押し当てると、肉が僅かに抵抗を試みてくるがすぐに観念した。

 アーリはそれをごくりと飲み込むと、たまらずに声をあげた。


「ううう、おいしい!」

「ああ、うまいな。こんな贅沢はそうそうできないぞ、アーリ」

 となりで器用に肉に噛み付いていたループも、口の周りにソースを付けながらそう言った。

「うん!」


 彼女はそういうともう一度肉を口に放り込み、パンをさらに追い込むように口の中へ押し込めた。


 バレントは忙しなく料理を食べ始めたアーリをみて、微笑ましそうに笑った。

 大人へだんだんと近づいてくる彼女が、なんだかんだ言ってもまだ子供の一面もあるのだなと分かった安心感から湧き上がった微笑みでもあった。

「喉を詰まらせないようにな、誰も肉は取らないさ」




「かなり食べたな」

 ループはアーリの食べたステーキがソース一滴残らず平らげられたのを感心したように眺めた。

「うはー、食べ過ぎて動けないかも……」


 ゆっくりと肉を味わった後、食後の余韻に浸っていた。

 バレントはグラスに入った水を飲み干すと、席を立った。


「さ、行こうか。モタモタしてたら日が暮れるぞ」

「ふわーい」


 アーリはどうやら昼食を食べて、若干の微睡みを覚えているようだ。しかし、それは嫌なものではなく、むしろ満足感に満ちた心地よいものだった。ベッドがあればすぐにでも横になりたいところで有ったが、置いていかれたくはなかったので、なんとか重い腰をあげた。



「おじさーん、お会計お願いしますー」

 アーリの声にキッチンからガーレルが顔を出した。

「全部合わせて一万八千グランだ」

「あれ、二万四千じゃなかったっけ?」

「ちょっとおまけだよ、肉ももらったからね」


 ガーレルはニコニコと笑っている。


「あ、ありがと!」

 アーリはそういうと、胸のポケットからお代を取り出してガーレルに手渡した。

 店主はそれを数え、エプロンの中に仕舞った。


「あいよ、ちょうどね。ありがとうございました」

「うん、また来るね!」


 アーリは振り返り、店を出た。外に出ると暖かい店内とは違い、少し肌寒い風が路地を吹き抜けた。


 彼女達は三番街から五番、八番街を通って南側の中央にある七番街へ向かう。

 西へ傾きかけた太陽が少しずつ赤みを帯び始めた。人通りも昼頃より落ち着いてきた街道からは、片付けをし始めた商人達の様子が見える。



 五番を歩いている最中、アーリは壁の上の警備兵が何やら慌ただしくしているのに気が付いた。後ろを向くと、どうやらバレントもループもそれに気が付いたらしかったが、何も言ってこないので彼女はそのまま歩いていく。



 子供の教育機関や図書館などが多く密集する八番街は、アーリよりも小さい子供達が街道を走り回ったり、裏路地の地面になにやら絵を書いていたりと、どの街よりも長閑な雰囲気が流れている。


 子供の集団はアーリを見るなり、お姉ちゃんと声をあげて手を振った。

 アーリも歩きながらに手を振り返すと、その中で一番背の高いアーリと同じくらいの年齢の少女が手を振り返し、声を張り上げた。 


「アーリ、久しぶりー!」

「レーラ! ごめーん、また今度遊びに来るねー!」


 アーリがレーラと呼んだ少女は茶色の髪の毛をリボンで束ね、可憐な花のような赤いワンピースを着ていた。面倒見の良さと優しい物言いから八番街の子供達からも慕われる彼女は、アーリの親友でもあった。彼女の周りには遊んで欲しがる子供達が取り囲んでいて、動こうにも動けないようだった。

 ゆっくりと話をしたかったが、時間も時間だったためアーリはそれを諦めた。



 八番街を名残惜しく離れ、七番と八番を繋ぐ橋を渡る最中、バレント達は何やら数人の兵士達が街道に屯している。

「あれ……ナーディオさんのところじゃない?」

「そうだな」ループは空気中の匂いを辿るように上に鼻を向けて動かした。「いけすかない、ジェネスもいるようだがな」


 バレントは何も言わず、険しい顔のまま前へ歩き出す。

「ば、バレントさん!」

 彼に気が付いた数名の兵士が恐れおののくような震えた声で叫んだ。


 彼らの後ろから一般兵士とは明らかに装備の違う、豪華な装飾が施された鎧を纏った男が前へ出てくる。真紅のマントと腰に差した金色の柄を持つ剣。切れ長の鋭い目。彼は兵士団を纏め上げる若き兵士長ジェネスであった。



「ほう、街の救世主様が怪物二体を連れてのお出ましですか」

「師匠に会いに来たんだが……」バレントはわざとらしくおちょくるように驚いてみせた。「兵士長さんがこんな所まで歩けるとは思わなかったな。いつも部屋でお絵かきしているだけだとばっかり」


 静かな詰なじり合い。お互いにあまり相容れない存在の様だった。

 ジェネスは片眉を僅かにあげるくらいで、あまり気に留めていないようだ。


「おう、バレントか」

 しばらくの沈黙を破るように、しわがれた声の持ち主が兵士達を押しのけるように出てくる。真っ白く染まった長い髪の毛。しわの寄った顔と頰の傷。茶色のロングコートから見える手は老いてはいるが筋肉質であり、まだ現役のハンターのそれを思わせる。

「まぁ落ち着けや、こいつの話も聞いてやろうじゃないか」


 やれやれと首を振るバレントだったが、ジェネスはそれを無視して話始めた。


「ありがとうございます、ナーディオ狩人長」彼はわざとらしく手を広げて、バレントに敵意がない事をアピールした。「もう聞いているかもしれませんが、東の樹海に試しに放った試作品の機械警備兵が全て停止ししてしまいました」

「あの機械の玩具か、ったく……」

「あなたがなんと呼ぼうがいいですが……それらを調査したいのはやまやまなのですが、あの場所には怪物達が多い。我々兵士だけではどうにもできない。そこで腕利きのハンター達に調査を依頼したいのです。怪物の仕業だとすれば、その原因も駆除して頂きたいのですが」


「ほう、自分達は街で酒を飲んでる間、俺らが危険に飛び込んで来いと?」

 バレントは訝しげにそう言った。

「そういう意味では……」ジェネスはやれやれと首を振る。「大量の兵士を送り込むより、腕の立つ少数の狩人を送った方がいいでしょう? 適材適所ってやつですよ」


 バレントは露骨にイラついた表情を浮かべている。


「街を守るのもハンターの勤めだ。腕利きを数十名集めればなんとかなるだろう? それとも怖いのか?」

 バレントをたしなめる様にナーディオがそう言った。


 バレントはふうと大きくため息をついた。それからしばらく押し黙り、後ろにいるアーリとループを見た。それから向き直ってしぶしぶといった感じで答えた。

「師匠がそういうのであれば……」

「大丈夫だ、腕利きを集める。三日もかからずと戻ってこれるだろう」

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