第9話

 深いデューランの森の奥地、誰が作ったかも分からない曲がりくねった道の終着点。

 急に開けた場所に出るとそこにはレモス・レークがあった。『首の湖』を意味するこの場所には、仲間に裏切られた戦士の首が大量に投げ入れられたというなんとも忌々しい逸話が残されている。そしてこの伝承こそが、デューランの森という名前を生み出した元凶でもあった。ほとんどの人間はこの湖を見たことすら無いのにも関わらず、シティの子供達の間では、悪いことをしたらレモスに捨てられるという戒めが浸透している。

 まだ弱々しい朝の陽の光が、だだっぴろい湖面に反射し、宝石を散りばめたように輝いている。湖の周囲の木々から振り落とされた真っ赤な木の葉が、水の上でゆらゆらと揺れていた。


 流れる風は冷たい早朝の空気を運んでくる。

 風が数秒止み、静寂が数秒続いた。


 それを破ったのは、内臓に響くような重厚な銃声。それに大きな生き物が倒れ込む音が続いた。


 ライフルの銃口からは細長い煙が一本、空へと伸びていき、再び吹き始めた風に流された。冷たい銃口が向けられた先、約五十メートルほど離れた湖のほとりに、長い黒色の体毛を携えた大きな丸っこい獣が倒れている。厳しい冬の時期に備えてか、毛皮の上からでもわかるほど丸々と肥えていた。獣の頰から生える二本の立派な牙は、三日月のようにカーブし、先端は鋭利に尖っていた。


 獲物を遠くから確認し、口から白い息を吐きながら、バレントは小さく呟いた。

「かなり立派なエレパーベアだ、上物だな……」

 彼はしばらく木の裏に潜んでいたが、獣が完全に動かなくなったのを確認し、湖畔に近づいていく。地面に疎らに敷かれた落ち葉を踏みしめる音が、壊れかけたマラカスのように、弱々しく周囲に響いた。


 黒い毛皮の怪物は、全身の力が抜けてぐったりと寝そべっているが、まだ弱々しく呼吸をしていた。エレパーベアと呼ばれた怪物に近づくにつれ、それが持つ大きな牙と牛のような角、青いゴツゴツとした額の水晶などが目に付いた。だが、それ以上に怪物の鼻は特徴的で、象やマンモスのそれを思わせる。

 雑食性のその怪物は、長い鼻を巧みに使い、水を飲んだり、魚を鼻に吸い込んで捕食したりすることで有名だ。見た目とは裏腹に、気性は穏やかだが、冬眠寸前のこの時期は人を襲うこともある。


 バレントは太腿の横に着けた数本のナイフが刺さっているホルダーの中から、一本を取り出してスイッチを入れる。

 刃先が赤く発光し始めると、数秒でそれは真っ赤になり、指で触ってはいけないほど熱を帯び始めた。発熱部に触れた大気が、ゆらゆらと揺らめいている。

 バレントはそのナイフを獣の額に突き当てた。ジューという音ともに獣の皮が焼け焦げる匂いが彼の鼻を指す。断面は熱により焦げ付いて、血は流れない。


 丁寧に、迅速に。ナイフが水晶の周りをなぞりおえる

「ありがとう」

 風に消え入るほど小さく呟き、手のひら大のクリスタルをもぎ取った。ナイフのスイッチをオフにし、まだ熱いナイフで水晶についた肉片や焦げた皮などをこそぎ落とす。

 背負っていた鞄から布を取り出すと、それに巻きつけてから丁寧に仕舞い込んだ。


 クリスタルを抜き取った瞬間、開いていた獣の目から瞬く間に光が消えていく。

 バレントはその重たい獲物を引き摺って、湖の浅い部分に浸した。怪物の長い体毛は油分をかなり含んでいるのか、水を弾いて水草のようにプカプカと水中でなびいた。

 足を浸すと、凍えるような冷たい水が、ブーツの隙間からバレントの靴下やジーンズに染み込んでいく。

 バレントは怪物の首の上部、顎の骨の下辺りにナイフで切り込みを入れ、血を抜いていく。まだ動いている心臓の働きで、怪物の血が勢いよく溢れ出した。赤い液体は大きな湖の中に溶け込んでいき、数メートルの所で無色透明になっていく。


 血の流れが弱くなるのを見守った後、二本の指を口に咥え、息を独特のリズムで送り込むとあたり一帯に甲高い音が響き渡った。

 しばらく後、森の奥の方から木々の間を抜ける轟音と共に黒い馬が現れ、バレントのすぐそばまで来て止まった。後部に連結された木製の荷車を引いている。


「ループがいないと大変だな。お前にも世話をかける」

 馬の背中を一撫ですると、かなり時間をかけて、水が滴り重たくなった熊のような象のような怪物を荷車に乗せた。


 家の裏手、厩舎の隣にある大きな倉庫のような木製の掘っ建て小屋の中は、獲物を解体するための作業場になっていた。テーブルが奥の壁に寄せられ、その上壁には数十種類の大小様々な刃物がラックに掛けられている。天井からはフックがぶら下げられ、滑車を数個経由してから、入り口の巻き取り機につなげられていた。石材を敷き詰めた床には、解体した獲物の血が流れていくように、浅い溝が掘られている。溝を流れた血液は、外に置かれた桶に溜まるような構造だ。結構な量の血が流れていったのだろう、赤色を通り越して黒色に変色している。


 バレントは馬から外した荷車を手で押して、解体小屋の中に入っていく。天井からぶら下がる大きなフックに獲物の後ろ首と両腕に掛け、入り口の横のハンドルを回す。二メートルほどの怪物の体全てが、ゆっくりと吊り上っていく。怪物が宙に浮くと、バレントは巻上げ機のロックを掛けた。


 吊られた半象半熊の怪物の前で手を合わせ、数秒間目を瞑った。怪物であれども生き物の命を奪い、人間は生かされている。感謝の気持ち、そして生き物への敬意の念からバレントは解体作業の前に、奪った命のため祈る事を欠かさなかった。そしてこの心構えはバレントの師匠であるナーディオの第一の教えでもあった。


 ラックから二番目に小さいナイフを手に取り、体毛をかき分けて胸部から縦一線に、皮に切り込みを入れていく。豪快に、それでいて繊細に力を加えて、肉や内臓を切りつけないようにナイフを動かしていく。皮の切れ間からは、怪物が冬眠に備えて蓄えた白くてプルプルとした皮下脂肪が見えてくる。


 皮を切り裂き終えると、今度は内臓を傷つけないように、丁寧に時間をかけて胸部から腹部にかけて切り裂いていく。胸骨を切り分けるとゴリゴリと骨を切り開く音が小屋の中に反響する。

 臓器を割らないように綺麗に取り出した。怪物の内臓は珍味として、そして薬の材料として重宝されるため、丁寧に部位ごとに切り分けて、水で丁寧に洗い流した。薄目の一枚布で丁寧にそれぞれを包むと、青いクリスタルが埋め込まれた六十センチほどの大きさの箱へ入れた。


 今度は肉を傷つけないように、皮と脂肪の間にナイフを滑らしていく。皮を破いてしまわないように丁寧に時間をかけた。

 大柄な獲物の皮を剥ぎ終えるまでに二十分という時間が掛かった。冬も間近だというのに、バレントの額から汗が流れ落ちる。バレントはシャツの袖で汗を拭って、作業を続けた。


 鋸のようなナイフに持ち替えて今度は首を落とした。頭は医学の発展のために寄付することがほとんどだった。牙や角はアクセサリーや楽器、武器などいろいろな物に加工される。バレントはそれらも丁寧に洗浄してから布で包んで机に置いた。


 足音にバレントはふと後ろを振り返ると、緑色の水晶を額に付けた大きな狼とパジャマ姿のオッドアイの少女が小屋の入口に立っていた。


「起こしたか?」

 脚の付け根にナイフを走らせながらバレントは声を掛けた。

 眠そうな目を擦っている少女は寝癖混じりの頭を横に振ってぼんやりとした返事を返した。

「おはぁよう」

「おはよう、エレパーベアか」ループはぶら下がった獲物をまじまじと観察した。「冬に備えてかなり脂肪も載っている。上物だな」

「そうだな、今日はすぐに街に売りにいく」

「まち、いくの?」

「一人で行ってくる。何か欲しいものはあるか?」腰の肉を切り分けて、冷蔵箱に入れた。「ついでに買ってくるぞ?」

「ブランケットか毛布が欲しいな、寝ているアーリが少し震えている時があってな」

「分かった。……アーリは何か欲しいものはあるか?」

「んーっと、あららしいおほんがほしい」

「そうか、どんな本が欲しいんだ? 絵本がいいか?」

「ううん」アーリは小さく首を振ると、悩んで躊躇ったが絞り出すように喋り始めた。「うーんとね……。いきものずかんがほしいの。ばれんとが……たおしてるやつの」


 バレントは目を丸くして手を止めたが、すぐに手を動かし始めて返答を模索する。


「わかった、探してみよう。もうすぐ朝飯にするから待っててくれ」

 ループとアーリは静かに頷くと、家の方へ歩いていった。

 その後もしばらく、バレントは解体作業を黙々と進めた。先ほどのアーリの言葉がバレントの中で反響する。


 約七ヶ月間、一緒に暮らしてきたアーリと仲良くできているのかという不安をずっと抱えていた。あくまで代わりの父親としてだが、自覚が芽生え始めた。しかし、その上でいきなり出来た娘の事をどう扱っていいか、正直分からなくなって来ていたのだ。


 それでも彼女の方から少しにじり寄って来たのは嬉しいという反面、正直怖いという気持ちもあった。

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