第11話 ついにこの日がやってきた
仕事が軌道に乗ってくるとプライベートもうまくいくもので、ある日、先輩が初めて家に来た。
「なかなか片付いてんじゃん」
「片付けたんですよ」
「エロ本どこにしまった?」
「早えーよ! てか紙のは持ってないです」
昨日、何の前触れもなく、「家行っていい?」とメッセージが来た。
僕は当然「いいですよ」と返した。
それから「何時にどこ?」と訊かれ、「じゃあ18時に▪️▪️駅北口で」と返す。
淡々とした書き方に、内心小躍りしているのが滲み出てしまっただろうか。まぁバレていても構わないというかどうせ見透かされているのだからむしろ内心小躍りしていることが伝わったほうがいいとまで考えた上でのあえての事務口調である。ということだったことにしておく。
いつかそんな日が来るだろうとは思っていた――嘘だ、3:7、いや2:8ぐらいで来ないだろうと思っていたが、来ても驚かないぐらいの心の準備はできていた――が、さすがに突然なので、物理的には用意もしていなかった。
200均に掃除用品を買いに行き、台所・トイレ・フローリング用それぞれのアルコール入り除菌シートを買う。何がどう違うのか知らないが書いてあるから違うんだろう。
帰宅するとまず各所に散らばったゴミをゴミ袋に突っ込む。運良く明朝が燃えるゴミの日だ。天は僕に味方している。
それから、窓を開けて埃をはたき、念入りに掃除機をかけ、除菌シートで各所を拭く。このフローリングという床、きれいそうに見えても注視すると意外に汚れているから油断ならない。
よし、こんなもんかと思って、布団に目をやる。
まさかな。
初回の訪問でそこまでは。
だいいち彼氏と別れたと聞いたわけではない。遊びに行っていいかと言われただけ。寝床を意識するのは気が早過ぎる。
でもそのまさかがあったら?
先輩は僕の好意を知っている。好意がある男の家に行って、行為が想定外だなんてあり得るだろうか。「まさか」という表現から早期される確率よりはそれが実現する確率はきっとゼロから離れている。
布団一式は実家から持ってきたもので、ひどく汚いわけではないがきれいとも言い難い。
それで僕は結局、当日の仕事帰り、量販店で布団クリーナーと新しい枕とシーツを買った。200均にも再び行って、設置場所別の消臭剤を買った。家計簿をつけ始めてから出費に対してだいぶ慎重になっていたが、こと先輩に関しては僕はタガが外れる。
「よっしゃ熱いうちに食うべ」
「はい」
二人で買ってきたピザを開封する。チーズと油の匂いが鼻をつく。
缶ビールをプシュッとやる。リキュールでも発泡酒でもない、本物のビールだ。
ピザもビールも、高い。そんなに高くて買う人がいるのかと驚くほど高い。でも構うものか。今日は特別な日……になるかもしれないしならないかもしれないが特殊な日ではある。時給3000円になったからそこまでカツカツでもない。
◆ ◆ ◆
本棚にあった漫画の話などをしながら、先輩はすごい勢いで酒を飲み、勝手に布団を敷いてバタリと倒れ込んだ。
えっと。
なんだこれは。
どういうつもりなんだ。
酔った頭が急速に醒めていく。ここからは一手一手を慎重に選ばないといけない。
「先輩」
「んー?」
「寝るんですか」
「寝ないよ」
「寝てるじゃないですか」
「寝てないよ」
「水飲みます?」
「くれ」
ミネラルウォーターをコップに注ぎ、そばに行って差し出しながら、「何かあったんですか」と聞いてみる。この日、ここでようやく。
「何かって?」
「だから、彼氏さんと何かあったんですか?」
「なんで?」
先輩は新品の枕に顔を押しつけているので声が籠っている。
「何かあったからうちに来たんじゃないんですか?」
「何もなしで来ちゃ迷惑だったかい?」
「そんなことはないですけど」
「まぁ、何かはあったけどね」と言って、先輩はコップの水を一気飲みし、しばらく黙り込んだ。
「……」
「なぜ黙る」
「いや、その何かの話をするんじゃないんですか。待ってるんですけど」
「話したところで楽しくないからねえ」
「じゃあ、話より楽しいことしますか」と言うと、先輩は突然スイッチが入ったかのように爆笑した。
「ちょっ……おまっ……はーおなか痛い。え、その台詞考えてあった?」
「いや、思いつきです」
「臭過ぎて草」
「選択肢間違えましたかね」
「いんじゃね? 面白かったし」
「なら良かったです」
「そんで?」
「え?」
「話より楽しいことって何?」
さっき話していた漫画は古いラブコメで、サブキャラ同士のエピソードで、まさに今みたいなシチュエーションがあって、今みたいなというのはつまり男の後輩が憧れの女の先輩の誘い――さすがにもうこれは誘われていると確定していいだろう――を受けて懊悩するシーンで、彼はギャグパートでは典型的陰キャなのに男前な一面もあって、いざ行為に及ぶ前に「付き合ってください」と告白し、断られて行為をやめてしまうのだけれど、
僕は男前ではなくてただの男なので、一度きりでもいいと思った。
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