凡庸な物理学徒の悩み(試し読み)

関澤鉄兵

1-1

 その古本屋の店内は静かで、一歩足を踏み入れると、背伸びして手を伸ばしても最上段に届かないほど高い棚に、上から下まで理系の専門書がびっしり並んでいるのが目に入った。僕は落ち着かない気持ちで店内を見回して、目的の数学書がある棚を探したが、目に飛び込んできた本を手にとって開いてみたり、棚に入りきらずに床に直に積まれている本があると、しゃがんで本の題名を調べ始めたりしてなかなかすすまない。視線を感じて、さっと顔を右に向けた。だが右隣の棚の前には誰もいない。すぐに頭を左に回す。左隣の棚の前では紺のスーツを着た、いかにも品が良さそうな白髪の老人が分厚い本に見入っている。僕を見ている人など誰もいなかった。それもそのはずだった。神田にあるこの古本屋はいつも数人しか客がいなかったから。それでも、高校に入学してまだ日が浅かったそのときの僕には、古書に取り囲まれているだけで誰かに見つめられ、試されているように感じられた。

 ようやく数学の本棚を見つけた。『初等整数論講義』という題名の本を手にとって、周囲が黄ばんでいるページをめくると、古本の匂いが濃く漂ってきた。本には数ページごとに鉛筆で細かい書き込みがしてある。ぱらぱらとめくっていくと後ろの方のページで止まった。しおり代わりだろうか、切り抜きが挟んである。切り抜きには人物のスケッチが印刷されている。頭を短く刈り込み、口の周りや顎には立派な髭を蓄え、右前方を眼鏡越しに眼光鋭く見据える、初老と思われる人物のスケッチだ。それを目にした瞬間、僕は囁くような戒めの言葉が頭に響くような気がした。その大きな瞳は僕の表面的な印象や取り繕った態度の向こう側、僕自身が気づいてもいない思考の奥底まで見透かしているように思われた。ひょっとすると自分の五年後、十年後の姿まで見られているのかもしれない。店内の空気が急に薄くなった。切り抜きを見つめれば見つめるほど、腹の辺りから熱いものが上ってくるのを感じる。目を逸らそうと考えれば考えるほど、その切り抜きに見入ってしまった。無理やりに上体を起こし、本から体を遠ざけた。体にまわった毒を吐き出すように大きく息を吐いて本を閉じると身震いがし、腕を見ると鳥肌が立っていた。


 僕がこの日購入した『初等整数論講義』は、中学の同級生だった桂木君が読んでいた本で、そのころの僕にはとても読める本ではなかった。そもそも僕は、中学三年の夏休み明けまで数学に特別な興味をもっていなかった。

 数学に興味をもったきっかけは、数学の授業で出題された正四面体の体積を求める問題を桂木君が解いたことだった。本来その問題は高校で扱う内容だったが、教師は難しい問題を出題して自分が解くことで、自分に対する威信を高めようとしたのか、あるいは塾の勉強で遙かに先の内容まで知っていて、全く授業に興味がないように見える生徒、特に桂木君に刺激を与えようとしたのかもしれない。ともかく桂木君は指名されると黒板に立方体を描き、上の面の正方形に対角線を一本引き、重ね合わせればその対角線と交差するように立方体の下の面の正方形に対角線を一本引き、さらにそれぞれの対角線の端を、側面の正方形に対角線を引くことで結びあわせて、立方体の中に正四面体を描き出した。そして立方体から正四面体を除いた部分は、体積が等しい四つの三角錐であること、その三角錐の体積を引くと、正四面体の体積が立方体の体積の三分の一になることを示し、正四面体の体積をあっという間に導き出したのだった。

 教師は、エクセレント! と声を張り上げて拍手をした。それにつられてクラス中から拍手が起こったが、桂木君は黒板の前で恥ずかしそうにもじもじしていた。その姿が僕にはとてもカッコよく映ったから、その日の放課後、そそくさと桂木君の席まで行くと、無視されたらどうしようという不安を抱きながらも、そんな様子を見せないように陽気な調子を装って話しかけた。

「桂木君って凄く数学ができるんだね。僕なんかあんな解答、とても思いつかないよ」

 桂木君がこちらを見上げた。後頭部の寝ぐせが凄いことになっている。

「ああ、あれね。あれくらい塾で習って誰でも知ってると思うけど」

 そうぶっきらぼうに答えると、すぐに手にしていた本に視線を戻した。

 桂木君は僕と同じで普段クラスで浮いた存在だから、からかわれていると思っているのかもしれない。そう思った僕がさらに、

「いやいや、塾行ってる奴らも全然手を挙げてなかったじゃん」

 と、こちらの真剣さが伝わるように真顔で言うと、桂木君はまたこちらに顔を向けた。「まあちょっと変わった解法だからね。あんまりみんな知らないかもね」

 これを機に僕がすぐに、何の本読んでるの? と訊くと、あっ、これ? と桂木君は驚いた表情を見せてから答えた。

「これは『若き数学者のアメリカ』っていうエッセーだよ」

「へぇー、どんな内容なの?」

 桂木君は眼鏡越しに探るような眼差しで、僕の顔をじっと見つめた。

「若い数学者がアメリカで苦労する話」

 桂木君はそっけなく答えると、また本に顔を向けた。

「なんで苦労するの? なんか困難にぶちあたったりするの?」

「本当に知りたいの?」

 桂木君は本から顔を上げ、怪訝な表情で僕を見た。僕が大きく頷くと、ようやく本当に興味をもっているのが伝わったのか、桂木君の表情がぱっと明るくなった。

「最初ミシガン大学に研究員として招かれるんだけど、周りが秀才ばっかでだんだんと鬱々としてくるんだ。それで太陽を求めてフロリダに行くんだけど、そしたら嘘みたいに元気になるんだ。研究も順調に進んでね……」

 桂木君は嬉しそうに微笑みながらひとしきり話すと、僕にその本を手渡した。僕が桂木君の前の席に後ろ向きに座って本を読み始めると、桂木君は興奮を隠しきれないといった様子で語りかけてきた。

「そうかあ、数学に興味をもったんだね。そうなんだよ。君がどう感じてそう思ったのか、どこまで本気なのかは知らないけど、それは当たりだよ。数学は面白いんだよ。まあ、君はちょっと面白いなと思った程度のことなんだろうけど」そこまで言うと、右手を左右に素早く振ってつけ加えた。「いや、構わない構わない、最初は誰だって、ちょっと面白いと思った程度で始めるんだから。最初の一歩を否定することなんて誰にもできない話さ。いや、それにしても数学に興味をもつ人がこのクラスに、いや、この学校にいたとはね。それが驚きだよ」

 桂木君はにこやかに話したが、僕は桂木君のことを知らなかったため、その気持ちを汲み取ることができなかった。桂木君が親しみを込めて語ったことが、僕には上から見下して小馬鹿にしているように思え、かえって僕を遠ざけてしまった。

 僕はわざとへりくだった返事をした。

「そうそう、どうせ俺なんか数学も2か3だしさ。ちょっと面白そうだなって思っただけなんだ。同じ中学にいるからって、桂木君みたいに才能ある人と同列だとは思ってないから。桂木君はやっぱ数学者になるの? ノーベル賞とか狙っちゃったりして」

「数学にノーベル賞はないよ」

 桂木君の態度が急に変わった。

 桂木君は浮かない顔をしている。ため息をついた。うつむき加減で苛立ちをなんとか抑えようとしているのが伝わってくる。

 桂木君は顔を上げると、先を続けた。

「それに僕には才能なんかないよ。才能という言葉はふさわしい人に使わないと、相手をどうしようもなく惨めな気分にさせるものだよ」

 そこで桂木君は言葉を切り、僕は軽く深呼吸をした。桂木君は僕の胸のあたりを見て黙っている。どうしてか分からないけど、怒っているようだ。何かまずいことでも口にしてしまったのか? 分からない。やっぱりいつも一人でいるだけあって、相当な危険人物なのかもしれない。うかつだった。軽く挨拶して帰ろうか。あんまり親しみを込めないようにしよう。悪い印象をもたれないように、それでいて気楽に話せるという印象をもたれない程度に距離をおいた挨拶がベストだ。そんな風に考えて、僕が椅子から立ち上がろうとしたとき、桂木君は再び僕の顔をチラッと見て視線を下げ、堰を切ったように話し出した。

「インドの数学者でラマヌジャンという人がいたけど、彼は寝て起きると、朝いくつも新しい定理を思いついているんだ。でも、まともに学校教育を受けていないラマヌジャンは、証明の仕方もろくに知らない。証明をするようになっても、いくつもステップをとばして、周囲の人がとばれされた箇所の証明の仕方を訊くと、そんなの自明じゃないかって答えるんだよ。そんなの自明じゃないかってね。これが才能だよ。十代のときに一人で群論を研究し、ガロア理論を打ち立てて、二十歳で決闘して死んだガロアもいる。アーベルが五次方程式の解法の不可能性を発表したのは確か二十二のときだった。階段で躓いて、転びそうになった拍子に関数を思いついたなんて人もいたな。あれは誰だったか。ああもういいや。止めよう。こんな話いくらでもある」

 桂木君は自分の内面を見つめるような眼差しで、宙を見つめて夢中で話していたが、ふいに言葉を切って頭を振ると顔をこちらに向けた。その表情は何かに怯えているようだった。少し間を置いてから、桂木君はゆっくりと優しく語った。「これが才能なんだよ。才能のことを考えると、いつも暗い気持ちにさせられる」

 僕は何気なく口にした「才能」という言葉に、桂木君が激しく動揺したことに驚いた。関わり合わない方がいい、すぐに立ち去ろう、という考えが浮かんだが、席を立つことができなかった。桂木君が苛立ちながら話した数学の天才の話には、僕を惹きつけるものがあった。ガロアという人が天才数学者なのはわかったけど、その天才がなんで決闘なんかするんだろう? 寝て起きて定理を思いついてるって、そんなことってあるのか? そんな疑問が次々に浮かび、整理がつかずにぼんやりと桂木君の方に視線を向けていると、桂木君は陽気な調子で話しかけてきた。

「いやいや、なんか変なことまくしたてちゃったね。そんなことより、今日は一人の人間が数学に目覚めた記念すべき日だからね。全くめでたい日だよ」

 なにが起こったのだろう? 桂木君は必死にこちらの機嫌をうかがっているように見える。さっきまでの神経質な言動を何とか打ち消そうとしているみたいだった。

 桂木君の不可解な豹変ぶりに、僕は不信感をもっても当然だったのかもしれない。すこし前にはこちらに掴みかかってきそうな勢いでまくしたててきたのだから。けれど、僕は桂木君に陽気な調子が戻ったことを素直に喜び、にっこりと微笑むと、さっきの数学者の話もっと聞かせてよ、と桂木君にせがむのだった。

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