#2 記憶

 それからの数日間は、今まで特に感情らしいものがなかった僕に微かな高揚感のようなものを与えてくれた。

 もしかすると、僕のことに関して何かがわかるかもしれない。

 それがわかれば、毎日僕がバスに乗り続ける理由もわかるかもしれない。

 そして理由がわかれば、この緩慢な毎日の繰り返しからも解放されるのだろうか。


 その日、汐里さんはこの前と同じ停留所からバスに乗り込んできた。

 僕の座っているシートのほうをチラリと見ると、前と同じように吊革を掴んで立つ。

 僕は汐里さんに手を振ろうとしたが、彼女の迷惑にならないよう大人しくしていることにした。

 やがていくつかの停留所を過ぎ、以前降りた公園近くの停留所が近づいてきた時、再び汐里さんが停車ボタンを押した。

 バスが止まり、汐里さんに続いて僕もバスを降りる。

 汐里さんはそのまま表通りを歩き始め、またあの公園へと続く横道へ入っていく。

 汐里さんはずっと黙ったままだった。

 僕は何か話しかけようかと思ったが、緊張しているようなぎこちないしぐさの汐里さんに、結局何も言えないまま公園に着いてしまった。

 公園の片隅まで来ると、汐里さんが足を止めて僕のほうに向き直る。

 やはり、その表情は硬いままだ。

「レイさん、一応もう一度聞きますが、その後何か思い出したことはありますか?」

『いえ、具体的なことは何も……。ただ、何となく、大切なものをどこかに忘れてきたような……何かもやもやとしたものがずっとあった気がしてきました』

「そうですか……」

 汐里さんは再び黙ってしまった。

『ええと、それで汐里さん。何かわかったことがあったんでしょうか』

 少し間をおいた後、はい、と汐里さんが答えた。

『本当ですか!? ぜひ、教えてください、お願いします』

「……忘れていたほうがいいこともあるかもしれませんよ」

『え? それは、どういうことですか』

「思い出すということは、それにはつらいことや悲しいことも含まれる、ということです。そして、レイさんが記憶を失ったのはどこかでそうなることを望んでいたのかもしれません」

 汐里さんはなぜか苦しげに言葉を絞り出す。

『そう……かもしれないですね。正直、毎日バスに乗ってるのはそれほど苦痛ではないです。でも、微かに引っかかってるこのぼんやりとした何かを、僕は放っておいてはいけないような気がするんです』

 汐里さんは少し考えるような仕草をした後、重い口を開いた。

「わかりました。それではお伝えします。レイさん、あなたの本当の名前は、高木たかぎ拓弥たくやさん。年齢24歳、職業は会社員……でした」


 たかぎ、たくや――。


 なぜだろう。記憶が甦ったわけではない。ただ、その響きはスッと馴染む気がした。

『不思議です。その名前で呼ばれても違和感がありません』

「そうですか。ではおそらく間違ってはいないのだと思います」

『それで汐里さん、教えてください。僕にはいったい何が起こったんですか?』

 僕が問いかけると、汐里さんは鞄のポケットを探り始めた。

「最初は、ネットで▼▼駅周辺で起きた事件や事故を検索して、10件ほど候補を絞りました。その後は、図書館などで地元紙や全国紙の地域版などを探して、見つけたのがこれです」

 汐里さんの手には、一枚のコピー用紙が握られている。

「読みますか?」

『……はい』

 僕が頷くと、汐里さんが近づいてきて僕の目の前にその紙を差し出した。

 それは新聞記事のコピーだった。

 見出しには少し大きな文字でこう書かれていた。


 ――駅ビルから男性が転落、死亡。自殺か――


 14日午後9時ごろ、●●線▼▼駅付近の路上で、男性が頭から血を流して倒れていると通行人から110番通報があった。警察官が駆けつけたところ男性には意識がなく、その後病院に搬送されたものの死亡が確認された。男性はワイシャツにグレーのスラックス姿で、近くには男性のものと思われる破損したスマートフォンが落ちていた。男性の持ち物と思われる鞄と上着が隣接する駅ビルの非常階段の踊場で見つかったことから、この場所から転落したものと思われる。

 男性は、免許証等から区内に住む会社員の高木拓弥さん24歳と見られ、警察で身元の確認を急いでいる。現場には争った後はなく、目撃者の証言では高木さんらしき人物がうわごとのようなものを言いながら非常階段に向かっていたとの証言もあり、警察では自殺の可能性が高いと見て調べを進めている。


 あ……。


 あぁ。


 アアアアアアアアアアアアアッ!


 記事を読み終えた瞬間、突然、僕の頭に激流のような映像、音、言葉が流れ込んできた。

 続いて恐怖、悲しみ、絶望といった、激しい感情の塊が体中を駆け巡り、存在しないはずの肺や臓腑に激痛をもたらした。


『うぐ、ああ、はあ、はあ、はあ、』


 そして、僕は巨大な重力に叩きつけられるように地面にへばりついていた。


 ――全部、思い出した。


 この姿は、僕が最後に見た光景だ。


 痛い……寒い……苦しい。誰か、誰か……お願い、です。だれ、か。


 僕が手を伸ばそうとした先には、黒髪の美しい少女が立っていた。

 少女の目からは、とめどなく涙があふれている。

『汐里、さん……』

 汐里さんは僕に歩み寄ると、そっと膝をついた。

「思い出したんですね」

『はい……』

 汐里さんは僕の頭の辺りに手をかざすと、静かに歌い始めた。

 その清浄な歌声が紡ぎ出すのは、どこか西洋の民謡のような、粛々とした中にも哀切が感じられる不思議な旋律だった。

 その歌に包まれていると少しずつ痛みや暗い感情は和らぎ、そして消えていった。

 やがて、歌が終わると僕はようやく体を起こせるようになった。

『ありがとうございます。今の歌はいったい……』

「母方の家に代々伝わる弔いの歌です」

『何か、とても暖かく安らげる歌ですね』

「実際に歌ったのは初めてでしたが、役に立ってよかったです」

 汐里さんはようやく少しだけ笑ってくれた。

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