26話


「ゔぐッ!? お゛え゛ぇえええ!!」



 それを目にした瞬間、殻木からきは盛大に胃の中身をぶち撒けていた。


 ――……なんだこれ? どうなってんだ?


 溶けた腐乱死体が零れ落ちてきたわけでも、見るからに悍ましい人知から外れた造詣の生物が生まれ落ちたわけでもない。

 にもかかわらず、足元から這い上がってくるような嫌悪感が止まらない。


 それは、外に出られたことを喚起するように身をくねらせながら、欠けた隙間から這い出てくる。


 それは、産声の代わりにぐぢゅぐぢゅと耳が腐るような音を立てながら、群れを成した一塊のヒルのように溢れ出てくる。



 それは――ただ黒かった。



 粘ついたタールのようにも、地獄の底から湧き上がってきた漆黒の溶岩のようにも見えるそれは、びちゃびちゃと重く湿った音をさせながら地面に滴った。


 ――あんな……あんなが! ヤツのカルマだってぇのかよッ!?


 鼻の奥に残った酸っぱい匂いも、足元に広がる吐瀉物混じり黄色い胃液も、気にしている余裕はなかった。


 太陽の温もりも、人々の希望も――世の光となる存在の一切を受けつけることなく、また許しもしない。


 そこにあるだけでこの世のすべてを否定する――絶対悪の極み。


 アレの前では常人も覚者かくしゃも関係ない、ただ絶望に呑まれるだけ……。


 どれだけ綿密に策を練ろうが、どれだけ時間をかけて知恵を絞ろうが関係なかった。敵対した時点ですべてが手遅れだったことを、殻木はようやく理解した。


 ――バキャァ!


 黒い粘液の重さに耐え切れなかったのか、亀裂が一気に広がりが割れた。


 役目を終えた殻はバキバキと音を立てて崩れていき、次々に黒い粘液の中に沈んでいく。後に残ったのは黒い山となった粘液の塊のみ――。


 しかしどう見てもそれは、人一人が入るには小さかった。


 普通ならば、業だけを出し尽くし、本体は消し炭になったんだと、安堵に息を吐くところだろう……しかし殻木は、それがあり得ない望みであることを痛いほどに理解していた。


 不安が、恐怖が、影しかなかった死神が――俄かに形を帯びて手を伸ばしてくる。



 ――あぁ…………ッ!



 ――ごぽっ――と、黒い粘液が泡立つようにふくれ上がり……



「……誉めてやろう。私に業を使わせ、あまつさえ防御までさせたこと」



 まるで黒く濁った沼の底から這い上がってくる亡者のように、ずるりと這い出てきた黒い人型は徐に立ち上がると、顔らしき部分を殻木へと向けた。


 目も口もない、のっぺりとした黒い相貌。


 そこから漏れ聞こえてくるのは声だ、それは間違いない。にもかかわらず、音よりも先に嫌悪感と凶気が襲ってくる禍言ノロイだった。



「最初の爆破によって私の強度を測り、通常の業では歯が立たないと即断。方針を余力すら残さない全霊の一撃に賭けることに即決する思い切りの良さも中々だ」



 黒の人型は、今にも崩れそうなシルエットを蠢かせながら踏みだす。


 すると、地べたを散らばっていた黒い粘液が、まるで母体を見つけた幼体のように、その人型に向けて一斉に身をくねらせながら集結していった。



「――だが、それだけだ」



 まるで水面に飛び込む芋虫のように、小さな黒い粘液が人型に貼りつくと、ぞわぞわと表面を波打たせながら融合していく。



「言葉を解そうとも、二本足で立とうとも、知恵を巡らそうとも……畜生は畜生。私の前に立とうなどと考える時点で、分というものを弁えていない」



 最後の一滴が人型に溶け込んだのと同時に、一層激しく表面が騒めき、沸騰したように震える。



「貴様は決定的に間違えたのだ。選択をではない――生き方をだ」



 殻木が呆然と見つめる先で、ボコボコと泡立つ黒の相貌が隆起し、粘液の下から顔が浮かび上がった。



「だが、悔やむことはない。生き方に正解などない――ということではない。もう、その必要はない、ということだ」



 兇貌きょうぼうの右面、美貌の左面。

 そこに一切の陰りはなく、新しい傷もまた、ただ一つもない。


 ずるりと、黒の粘液から新たに生まれ落ちるように出てきた昧弥は、爆炎に晒される前と何一つ変わらない姿でそこにいた。



「ひっ、ひひゃぁああ!?」



 もはや正気ではいられなかった。


 殻木は情けない悲鳴を上げながら、地べたを這いずるように逃げだす。

 その姿は奇しくも、まさに畜生の如き四足による無我夢中の逃走だった。


 普段の殻木であれば考えられない、背を向けたまま背後を顧みることすらしない、一心不乱の遁走。


 背後が死角になって危険だ、などという思考は浮かびすらしなかった。



「ひぃいーーッ!?!」



 しかし、その逃亡が長く続くことはあり得なかった。


 突如として殻木の目の前で黒の粘液が噴き上がり、さながら死の門ように先の道を閉ざしていた。



「はっ、ひ、ひひゃ……」



 突っ込むこともできず、業によって道を作ることもできない。


 殻木は言葉すらどこかに捨ててきてしまったかのように、意味にならない声を吐きだしながら尻もちをついてへたり込んだ。



「さぁ、最期だ。――祈る必要はない」



 背後に立った昧弥がそれを見下ろす。


 もはや審議の必要ななく、判決もすでに決まっている。


 ここに堺昧弥さかいまいやという存在が降り立った、その時から――すべては決まっていることだった。



「貴様は――」




 ――タァーンッ!!




 ……場違いな、あまりにこの場にそぐわない物理的な音が――木霊した。



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