05話


 結紀ゆうきの言葉に、枝薙えだなぎは眉根を寄せて僅かに唇を震わせた。

 しかし、声は言葉となる前に喉元でつかえ、口の中でわだかまる。


 撫でるように触れるのすら戸惑われる、ただならぬ雰囲気が、枝薙の肌をヒリヒリとした緊張感で擦った。


 ——ついさっき知り合ったばかりの僕に、どう踏み込めっていうんだ……。


 しかし訊かなくては友人となった意味がない。苦悩に軋む姿をただ眺めるなんて、そんなものは友人とは呼べないだろう。


 枝薙は意を決し、重く固まりそうになった口を無理やり開いた。



「……ねぇ。何があったのか、訊いてもいい?」


 あまりに不器用で愚直な質問に、結紀はゆるゆると顔を上げると、緊張を解すように柔らかく破顔した。



「それは……ああ、構わなよ」



 僅かな逡巡を挟み、結紀はすぐに頷いた。


 未だにあの光景を思いだすだけで、背筋を這い上がってくる恐怖に冷や汗が止まらなくなるが、それでもを、あの悪魔のごとき存在を知らないままでは、いつ戯れに蹂躙されるか分かったもんじゃない。


 被害を少しでも減らせるなら、情報などいくらでも出すべきだ。


 ――とはいえ、俺が持ってる情報なんてたかが知れてるけど……。


 それでも、対策を立てるなら少しでも人数は多い方がいいのは間違いない。

 あの存在を知る人間を増えていけば、その危険性も自ずと周知されていくだろう。


 結局のところ人任せになってしまう自身の不甲斐なさに、結紀は湧き上がってくる怒りを噛み締めて飲み込んだ。



「申し訳ないけど、俺が持ってる情報も少ない。それでも構わないなら話すけど……どうかな?」



 覚悟を問うような視線に、枝薙は無言のまま頷いた。


 その強張った表情に結紀も頷いて返すと、眉間にしわを寄せ、鋭い視線を宙に投げる。まるで虚空の先に、あの悍ましい悪逆を覗いているように……。



「――俺たちが駆けつけたとき……そこはすでに地獄だった」



 ただ見たが儘を――あの凄惨さを、余すことなく言葉にした。



      §      §      §



「――で、気がついたら医務室ここのベッドの上だった」



 結紀がそう要求したわけでもなく、自然と話が途切れるまで誰も口を開かなかった。ただ……話が終わった後でも、一人として気軽に口を開ける者はいなかった。


 ユクとココまで、空気に飲まれたように沈黙の底で揺蕩たゆたっていた。



「……そっか。そんなことが」



 沈黙を押し流す一言を発したのは、大方の予想通り枝薙だった。


 腕を組み、視線を地面に投げだしながら、聞いた内容を反芻するように静かに瞑目する。

 彼の中でどのような思考が巡っているのか、結紀には見当もつかないが、この状況をしっかりと正面から見据えているのだけは理解できた。



「うん。分かった……って言いたいところなんだけど。その女性ひとの危険性は実際に見てみないと、結紀君が言っているような脅威を真の意味で理解することはできないんだろうね。

 でっ、気の弱い人なら目にした時点でアウト、と……あれ? 積んでない?」


「いやいやいや、諦めないでくれ!? 何かあるだろ? 向こうだって見境なく、目に映った奴を片っ端から殺して回っているわけじゃないんだろうし」



 早々に手を上げようとする枝薙に結紀が食い下がる。


 しかし、これといって案が出てくるわけでもなく、眉尻の下がった同情を誘う顔で詰め寄ってくる結紀に、枝薙は困った様子で視線を向けた。



「でも、この学園に危険人物がいるから対策しようなんて言って、素直に頷いてくれる人がいると思う? 逆に嵌めようとしてるって疑われるのがオチだよ」


「そこはこう……Aクラス委員長の権限とか権力を使って、とか?」



 なおも縋ってくる結紀に、枝薙は遣る瀬無い表情で溜息を吐いた。



「自分で言ってて悲しくなってくるけど、クラス委員長にそんな権限も権力もないよ。たとえAクラスだとしてもね。

 君たちが僕の名前すら知らなかったのがいい例じゃないか。それでなくても覚者かくしゃは群れるのを嫌うし……」


「そこをなんとか! 俺だって協力するし、なんなら実際に動くのは俺だけでやってもいい。ただ警告を流すだけでもいいんだ。少しでも犠牲者が少ないうちに!」



 何をそんなに必死になっているのか。


 結紀の過去にその理由があるのは枝薙もなんとなくは察していたが、それでも他人のことでここまで我を通そうとする意味がよく分からない。


 だが、頼られるのは悪い気はしない。

 自分にできることがあるなら、やってやりたいとも思う。


 だから、仕方ないと苦笑を零した枝薙は小さく頷いた。



「分かった。委員長同士の緊急会合を開いて、各クラスで注意喚起するように頼んでみるよ。

 でも、期待しないでよ? クラスなんて言ってるけど、実態は実験テストの結果が近い人が集められてるだけの箱なんだから。……悲しいけどね」


「ああ、それで構わない。ありがとう! 情報を共有するだけでも違うだろうし、これで少しは被害も抑えられるだろう。後は彼女をどうやってするかだな……」


「……へっ? 説得?」



 不意打ちを食らったように枝薙は目を丸くした。


 冗談なら意味が分からなし、冗談でないなら質が悪い。

 正常とは思えない思考に、驚愕に染まった視線を送るが、結紀は思考に没頭するあまり気がついていなかった。


 しかし、その横顔には嘘も虚飾の色も見られない。


 どうやら結紀は気が狂ったわけでも冗談を言っているわけでもなく、本気で“説得”などと口にしているようだった。



「ああ。言葉が通じるんだ、可能性はゼロじゃないだろ」



 数秒遅れで返ってきた結紀の言葉に、生理的嫌悪を抑えきれないとでも言うように、枝薙は小刻みに頭を横に振って後退った。



「いやいや! 君が言ったんじゃないか! 人に拷問みたいな仕打ちをしておいて、それが息をするのと同じことみたいに自然体でいる危険人物だって!

 そんな奴に対して説得って……申し訳ないけど、正気じゃないよ」



 その反応に結紀は苦笑し、枝薙の感情を尤もだと肯定するように首を縦に振った。



「ああ、自分でも無茶を言ってるのは分かってる。でも、実際に会って、対峙したからなんとなく分かるんだ。

 確かにあいつは、息をするように人を蹂躙するけど、話を聞いてないわけじゃないんだって。なら、実力じゃ止められそうにないし、他の方法を試すしかないだろ? だから――」



 ――まずは話し合ってみないとな。



 そう言葉を切って、決意を固めるように結紀は拳を握った。


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