魔導の果てにて、君を待つ

大秋

序章

第一話 絶望より這い出る獣 前編





 はらり、はらりと。

 雪の降る季節だ。


 峨峨ががたる山々を彩る雪化粧は、傍から見ればどれほど美しいのだろうか。

 だが、その大地を歩むものにしてみれば、全てを拒絶する環境と共存する事は、困難を極めた。


 息を吸い込むごとに、冷たい空気が口腔を通り抜け臓腑を切りつける。

 吐き出される息は真っ白に、喉の奥底を抉るような痛みとともに空気に溶けた。


 ザクリ……ザクリ……と。


 身に着けた鎧も本来の質量以上の重みとなって、身体を大地へと縛り付ける。


 ザクリ……ザクリ……と。


 積もる雪に深く沈み込む足を、上げては下ろす。

 大地に無用な穴を穿ち続けて、もうどのくらいの時が過ぎたのだろう。

 終わりの見えない極寒の雪山を、そのまま棺桶にもなりうる甲冑を身に纏い、ただひたすらに行軍する。


 一歩、また一歩。

 踏みしめて、踏みしめて。


 一時の間、知己を得た友も、とうの昔に姿は見えなくなった。

 降り積もる雪とともに大地へと還ってしまった。


 最初から無理があった。

 玉砕という言葉すら楽観的に思えるほどの、我が身を顧みぬ常世への行進。

 正気ではない。

 正気ではないが、正気では生き残れないのもまた事実。


 しかし。

 しかしだ。


 大切なものも、守るべきものも失くしてしまった今、何故いまだ足掻き続けているのか。


 吸い込む空気の冷たさに、魂までが凍りそうだ。

 それでも呼吸は止まることなく、足は身体を前に運んでいく。

 数多の屍の上に生きることを許された生命は、簡単に世界に還る事を許されなかった。


 吹雪が強くなる。

 見えていた世界がどんどん狭くなる。

 次第に音も消えていく。


 希望も、絶望も。

 生きる理由すらも、何もかも飲み込んで、吹雪がかき消していく。

 命の温もりを忘れたように、全てを白く染めていく。


「あぁ、……あたたかいものが食べたい」





 * * *





──グラデウス山脈


 グラム王国 東部方面軍 第三旅団 演習地


 王国の東部を覆うように囲う、峻険しゅんけんなる山脈の中腹にて、東部方面の守りを担う軍隊、千五百余名による実地での山岳演習が行われていた。


 新兵を中心として、一年をかけた演習を通して正規軍の中核を担うために必要な、最初の軍行動でもある。


 演習が行われているのは、王国の東部に広がるグラデウスという名のついた山脈であった。

 麓は一年の大半が温暖な気候を保っているが、一歩山に足を踏み入れると、グラデウス山脈特有の側面を見せる。


 数時間で変わりゆく天候と、人が生きるにはあまりにも過酷な環境。

 年に一度だけ訪れる大雪もあり、グラム王国は新兵の鍛錬に山脈を活用していた。


 演習が終わると、次代の新兵へ引き継ぐように交代される。

 これを繰り返すことで王国全土の兵を鍛え、全体の質を一定に保つという意味でもとても重要な役割を担っていた。


 そんな山岳演習も、もうすぐ雪の降る季節へと変わる。

 グラデウス山脈の大雪という最後の難関を前に、気を引き締める者たち。


 王国兵の中には過酷な環境を生き抜いたという自信も芽生えている。

 国へ帰ってからの配属先への関心に期待を膨らませる者も多かった。


 そんな新兵の中に、二人の青年の姿があった。


 舞うように切っ先が振り切れる。

 遅れて音がやってくる。


 陽光に照らされて燐光をまとった穂先がしなる。

 煌めきながら、陰に日向に一面を照らす。


 風を巻き込むように、唸る音と共に空気が切り裂かれる。

 かと思えば長槍がしなり、たゆみ、跳ねるように大地をうねる。


 変幻自在に舞うそれは、まるで何者をも寄せ付けぬ龍のように、全てを睥睨へいげいする王者の風格を見せる。


「熱心だなオーリン。王都で道場でも開いてた方が楽だったろうに、今更だがなんで軍に入ったんだ?」

「それは決まってるさ、リバック。窮屈な世界から抜け出し、見聞を広めるためさ」


 ドスンとひとつ地を穿つと、青年の持つ長槍は、魂のある生き物から只の物質へと姿をかえす。

 刃長は一尺、つかを加えると男の背をゆうに超えるそれは、オーリンと呼ばれた男の得物であった。


 ゆるりと波打つ長髪を後ろに無造作にくくっている、黒髪黒眼の青年。靭やかな肢体は細く引き締まり、身形みなりを整えればまだ幼くもありそうだが、老成したものか、男の雰囲気が捉えどころを失わせる。


 背の丈はいたって平凡なのだが、堂々と槍を持つ佇まいと精悍な顔付きは、およそ新兵には見えず、戦場に置ける熟練の戦士と比べても遜色はない。


「お前のその向上心には恐れ入るよ。大層な鎧に身を固めても、寒さにすら勝てず身を震わすことしか出来ない俺には、どうにもお前のそれはまぶしくてかなわん」

 兜の頬当て部分を少しだけ上にあげて、リバックと呼ばれた男が、己の纏う全身鎧をコツコツと叩きながらオーリンへと笑いかけた。


「お前の鎧も見事なものだ。手入れを欠かさぬその鎧は、リバックの生きざまそのもののようだ」

「はは、毎度ありがとよ。さあ、今日は仕舞いだ。準備もできたようだし、飯としようぜ。今日は珍しくスープもあるそうだぞ」


 秋の終わりが近づいて、季節は冬へと移ろおうとしていた。

 寒さにより枯れ葉が散り散りに舞い逃げる山においても、オーリンの周りだけは気温が上がって熱気を発しているようだった。


「飯か……。暖かいものが食えるというのは、それだけで今日一日を生き抜いた証のようにも感じるな」


「まったくもって、いつも大げさだな」

 リバックは軽く息を吐き、肩をすくめるようにして、食事場へと移動を促す。


「そういえば知っているか? 西の方では害獣が多く出て田畑の被害が酷いらしい……」

 リバックがオーリンの方を振り返り、思い出したかのように続きの言葉を風に乗せた。


 その時──


 ひゅー……ひゅー……と。

 一瞬冷たい風が辺りを吹き抜け、ぞわりとオーリンの肌が粟立つ。

 視界の端に七色に輝く何かを捉えた。


「蝶?」


「どうかしたか?」


 どこか幻想的で、木々の間をたゆたう蝶のようなものがオーリンには見えた。と同時に、何か見られているような、そんな不思議な感覚にもとらわれる。


「何かいるのか?」

 森の方に視線を向けるオーリンにつられて、リバックはその方向を見る。


 その瞬間。


──ドスンッ


 重く鈍い金属音が辺りに響き、リバックの決して軽くはない鉄鎧もろとも、その体躯がオーリンの横を掠めるように吹き飛ばされた。


「リバック!!」


 強烈な悪寒がオーリンの全身を襲い、咄嗟に持っていた槍を構える。


 オーリンが対峙したそれ。


 つい今しがたリバックを吹き飛ばしたそれは、一呼吸前には確かに存在しなかったもの。


 山を縄張りとする獣とは明らかに違うその異様。


──グググ


 一目するだけで魂を鷲掴みにする、濁った緋色(ひいろ)の単眼。


 半月に開いた口には子供の腕ほどもありそうな牙がずらりと並ぶ。

 不格好な様ではあるが、二足で立ち、決して低くはないオーリンが遥か見上げる形となるほど巨大な体躯。


 ざんばら状でなまりのような光沢を持つ捩じれた長毛。

 山に存在する、人が呼ぶ害獣の類とは明らかに違うその存在は、幼い頃のオーリンが絵本で読み聞かせられ、夢見た英雄達が幻想の中で対峙したであろう化物の類。


 それは体躯のわりに全くといっていいほど生命が感じられなかった。

 それはオーリンから眼を離すことはなかった。

 それは口元をゆがめ、低い声で嗤うようにオーリンを見た。


「ふむ……」


 目の前に在るこの存在のことは未だ分かりはしなかった。

 どこからきて、何をしようというのか。

 その様子から、人に害意を持っているという事は分かった。


 だがそれ以上に、オーリンにとってその眼は到底我慢できるものではなかった。


 獣とは違い明らかに異質。

 異質ではあるが、オーリンは己を弱者と見下し不遜な態度をとる、この存在に無性に腹が立った。

 熱のこもった手と、幼き日より鍛錬を共にして自身を成長させてくれた愛槍を見やり、化物を見やる。


 腰を据えて両手で槍を構え穂先を揺らす。


 化物の眼はオーリンの眼を捉えたまま離さない。

 オーリンもまた化物の眼を捉えたまま離さない。

 化物の口がオーリンを見て三日月に笑う。


「修行中の身とはいえ、最初の相手が化物退治とは。……なんとまあ愉快なことだ」

 化物にやられたようにオーリンも嗤い返し、啖呵を切る。


 怪異を吹き飛ばさんと大声で笑い飛ばす。

 槍の切っ先を化物のその一つ眼に向けて。


 化物は緋眼をオーリンから離さぬまま、その大きな体躯を窮屈そうに内側に縮こまらせる。


 鈍く蠢くそれの動きが止まった瞬間、地面へとその大きな腕を叩きつけるようにして全身の力を一気に大地へ伝え、爆発音を轟かせて跳躍する。


 オーリンは槍を回転させながら間合いを取り、射程を見ながら、飛び出してきた化物の大きな眼を狙う。


 化物が空中で大木ほどありそうな腕を振るってオーリンの槍を払おうとする。

 腕が当たる瞬間に切っ先を持っていかれないように、即座にオーリンは大地を転がり槍の軌道をずらして躱す。


 オーリンはより低い体勢になりながらも、化物の視界から一瞬外れた所で、手首を返し槍を回転させながら、横手から化物の眼をめがけて切っ先を捩じり込む。


 ぐしゃりと眼球を裂く感触が手に伝わり、化物が一瞬硬直したのを感じ取ると、一足で射程を離れ距離をとった。


 視線の先にある化物の口が大きく開く。そこから一気に吐き出された怒りの咆哮が、木々を揺らし大地を震わせ、オーリンの魂を鷲掴みにする。

 構えを解かず槍は化物を捉えたままだが、その切っ先には化物の眼球と同じ色の血が垂れていた。


「難敵か」

 オーリンは対峙して一合交差する瞬間に理解した。


 目の前にいる化物の力を。


 幼き日より積み上げ、育んできた研鑽をあざけ笑うほどの個としての絶対的な存在の差。

 未だ化物に自身の毛ひとつも触れさせてはいないが、圧倒的な重圧と、本能が感じた恐怖に吐き出す呼吸は重く、次第に息が荒くなる。


 オーリンは槍を握った自分の手を見つつ、身体の芯のさらに内側、髄から湧き出る恐怖を抑え込むのに必死だった。


 白い煙とともにジュウジュウと焼ける音を立てながらも化物は痛みからか咆哮を上げ続ける。


 距離を取ってどんな事にでも対応できるようにしていたオーリンであったが、化物の様子を窺っているうちに状況がさらに悪い方向へと進んでいる事に気付く。


 オーリンの槍が傷付けた化物の単眼が、端から泡を出しながら細胞を修復していき、呼吸を四度もせぬうちに傷ついた眼は元通りとなっていた。


「無茶苦茶なヤツだ……」


 化物は自らを傷つけた存在へ気が狂うような怒りを表すかのように、呪詛のようにも聞こえる唸り声を断続的に発しながらオーリンを睨め付けた。


 さらに怪異は様相を深める。


 化物の鉄のように鈍く光る体毛が徐々に黒く染まっていき、漆黒へと変化しようとしていた。

 その色は太陽の光すら通さぬように周囲の生命色のすべてを吸収していく。

 それとともに空気が重くなり耳鳴りのような甲高い音が化物の内側から鳴り響く。


「よくもやってくれたな」


 今まさに、オーリンの眼の前で変異しようとしていた化物の首へ鈍い断裂音をさせながら銀色の剣が入り込む。


 途中で止まりそうになるが、途中からさらなる勢いが加わって力任せに一息に斬り飛ばす。


 首を失い胴体のみになった化物は何の抵抗もなく倒れた。

 その後ろには、兜の奥より爛々と眼を光らせた、頭の天辺から爪先まで、関節の可動部以外を厳重に守る全身鎧の男が立っていた。


「まったく、頭が痛いぜ」


 化物に奇襲を受けたリバックは、吹き飛ばされた一瞬だけ意識を失ったが、息を潜めながら戦いに介入する機会を窺っていた。


 化物が変異しようとして動きの止まった隙を好機とばかりに、鎧の重さを感じさせぬ軽やかさで戦場に飛び出したのであった。


「リバック、無事だったか……」


 オーリンは息をつき、槍を握る手を緩めてリバックに近寄る。


「鎧が少しへこんでしまったがな」


 地に伏す化物の死骸。

 眼を傷つけた時のように修復をする恐れがあったので、警戒は解けない。

 しばらく様子を見ていた二人であったが、時間が経っても化物が再度動き出す事はなかった。


「こいつ……魔獣か」


 動かないことを確認してから死骸を調べていたリバックが呟く。


「魔獣、これが?」


 リバックの言葉を受けて、オーリンは目を見開く。


「体毛は鎖のように重く頑強で、獣とは違い明らかに異常な図体ずうたいと見てくれ」


 リバックは兜を外しながら呟く。

 印象的な、鮮やかな灼熱色の長髪が流れ出る。


「かつて聖女の予言した大災害。地より這い出たる魔獣」


「魔導王と聖女の物語……」 


「あぁ、山にこいつだけとも限らん。騎士長に伝えねばならんだろう」


 リバックの言葉を受けて、オーリンは眼を細めながら考え込む。


 森の木々は揺らめき、葉が舞う。

 寒風は体温を奪い、息を白くする。


 オーリンとリバックの二人は、今しがたの戦いの熱を忘れるくらいに、山で得体のしれない何かが起こっていることを感じて、ただ表情を硬くすることしか出来なかった。




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