やるせなき脱力神番外編 おねだり

伊達サクット

番外編 おねだり(1)

 ウィーナの屋敷に冥王アメリカーンがやってきたのは、その日の昼下がりのことであった。


 冥王が直接ウィーナの屋敷まで出向いたのは初めてのことである。そもそも、冥王は冥界へと堕ちてきたウィーナを見て、すっかり熱を上げており、何とか自分の妃にしようと四方八方手を尽くしているところである。


 そんな中、冥王を屋敷に誘ったのはウィーナの方であった。


 冥王は、普段はまるで山のように巨大な体を持ち、冥王城の巨大な玉座に鎮座している。この度は、自身のサイズを人間と同じ大きさに縮小させてのお忍びの来訪であった。


 ウィーナは執務室で執事長のピエールとワルキュリア・カンパニーの運営に関しての話し合いをしている途中であった。さしもの女神ウィーナも、会社経営の才能には恵まれておらず、その道のプロに経営を委託しているのである。


 この日、彼女は組織結成時に作った制服(デザインセンスが悪いのと、布にこれといって防御系の永続魔法を施していない点、防具への着替えが一々面倒という理由で戦闘員から不満が募り、とっくに廃止になっている)を着用して、デスクワークを決め込んでいた。


 そんな話し合いをしている最中、執務室のドアをノックする音が聞こえた。


「入れ」


 ウィーナの応答を受けて入ってきたのは、平従者のビートである。まるで磨き抜かれた新品の鎧のように黒光りする外骨格を持った、蟻のような容姿を持つ種族である。


 黒ずんだ四肢の先端や顔の造形は、人間の造形に比較的近く、表情等は読み取りやすい男だ。


「冥王様がお出でになりました」


「分かった。通せ。客室で待たせるように」


 ビートの顔が少しばかり引きつる。


「あの、ウィーナ様は?」


 冥王と言えば、この冥界に君臨する絶対者であり、普通の冥界人ならその名を口にすることさえはばかられる神のごとき存在である。


「切りのいいところまで話したらすぐに行く」


 ウィーナはテーブルに置かれている資料に目を通しながら、そっけなく言った。


「冥王様を待たせるんですか?」


 ビートの言を聞き、ウィーナは白く長い指で、部屋の隅に置いてある柱時計を指し示した。


「早過ぎる。約束の時間までまだもう少しある」


「しかし」


「いいからビート。早く行ってきなさい」


 ビートの口答えをピエールが途中で遮った。優しい口調だが諭すように。


「了解しました」


 ビートは一礼して、ドアを静かに閉めた。




 ウィーナはピエールとの相談が一区切りした後、ビートと共に冥王の待つ客間に出向いた。


 彼は直属の死神達を付き添いで三名率いているばかりであった。本当にお忍びでやってきたことをうかがわせる。


 しかし、漆黒のマントから除かせる礼服は王の装いそのものだ。その顔は歪曲した角が生え、少しばかり刻まれた皺は却って老いより力強さを印象付ける。


 見たことがある者にとっては見紛うはずのない冥王アメリカーンその人であり、どれほど本気で人目を忍ぶ気があるのか疑いたくなる出で立ちであった。


「OH! 我が愛しのマイハニー! まさかあなたからミーを誘ってくれるなんて! サティスファクション!」


 彼はその荘厳で威厳に満ち溢れた外見からは全く想像もつかないほどフランクで砕けた口調で話し始めた。独特な王族言葉がその印象を助長させる。


「前置きはいい。戦士は用意してきたか?」


 ウィーナは努めて突き放した態度を取り、冥王を軽くあしらった。いつもながら、うざったい冥王だとウィーナは思う。


「既に中庭でスタンバイOKデース!」


「分かった。ビート。ジョブゼに『始まる』と伝えてこい」


 ウィーナはビートに命じた。彼は「分かりました」と返事をし、詰所の方へ足早に歩いていった。


 ウィーナ自らが冥王をバルコニーに案内する。屋敷の三階にある、広大な庭園を一望できる場所だ。これから、ウィーナは冥王との勝負を始める。


 この庭園で、こちらの用意した戦士であるジョブゼと、相手方が用意した戦士を戦わせ、勝った方が願いを叶えるという勝負である。


 バルコニーまで歩く途中も、冥王は何やらごちゃごちゃとうるさくウィーナに話しかけてきたが、ウィーナはほとんど聞いていなかった。


 バルコニーから聞こえる喧騒に惹かれて中庭を見下ろすと、手の空いている従者や執事達が戦いの様子を見物しようと庭中にひしめいているところであった。


「いつまでゴールドフィッシュのフンみたいにストーキングしてるんデースか! お前達は外しなサーイ」


 冥王は興奮気味で、死神達にシッシッと手を払い、彼らをバルコニーから立ち退かせた。冥王とウィーナ、二人っきりの空間ができあがった。


 バルコニーの中央には丸いテーブルが置かれており、冥王は嬉々として、ウィーナは「ストーカーは貴様だ……」ぼそりとつぶやき、渋々と向かい合って座った。


 しばらくして、ビートがワインとグラス、軽食等が盛られたトレーを持って現れた。彼は酷く緊張した面持ちだった。なにせこの冥界に君臨する王者に給仕するのだ。無理もないだろう。


 ビートは二人分のグラスをテーブルに置いて、丁寧だが震えた手つきでボトルの口を冥王のグラスに傾けた。


 そこでどうやら手元が狂ったらしい。震えるボトルの口から勢いよくワインが飛び出して、吹きこぼれた数滴ばかりのワインがテーブルクロスに赤い染みを作ったのだ。


「あ、も、申し訳ありません!」


 ビートが冷や汗を流し、滑り落としそうになったボトルを何とかテーブルに置いた。そして、怯えきった表情で冥王に頭を下げた。


「HAHAHA! 別に全然大したことありまセーン」


 冥王は砕けた笑い声を飛ばし、籠に入っていたナプキンを取り出して、自ら汚れたグラスの表面を拭きとった。


「ビート。私にも」


 ウィーナは怯えるビートの気持ちを切り替えさせるため、あえて自分のグラスに酒を注ぐことを急がせた。


「はい」


 ビートの手はまだ震えていた。そして、ウィーナのグラスに注がれたワインは、なみなみとグラスいっぱいに注がれてしまった。これではグラスを手に取った途端に溢れだす。


「随分入れたな」


 ウィーナが苦笑した。


「申し訳ありません!」


 再びビートが頭を下げた。仕方がないので、ウィーナはマナーなど構わずに、唇をテーブルに置かれたグラスまで運び音もなくワインをすすった。


 葡萄の豊潤な香りと、酒の刺激が口の中に広がる。冥王軍の兵站で採用されており、払い下げで民間に出回ったものを酒保商人から大量に買い付けた安物である。冥王の口に合うかどうかは分からないが、ウィーナの知ったことではなかった。


「OH……、マイハニー。乾杯もまだなのに」


 冥王が残念そうに言った。構わずウィーナは、グラスを手に取って一杯目をさっと飲み干して、テーブルに静かに置いた。


 ビートが再びウィーナにワインを給仕する。ビートがグラスいっぱいに注がなかったら目の前の忌まわしい男と乾杯する羽目になっていた。ウィーナは心中でビートの粗相に感謝した。


「さっさと始めるぞ。ビート、下に行ってもう始めるように伝えて、またここに戻ってこい」


 ウィーナがビートに命じると、とっさに冥王が口を挟んできた。


「何言ってんデースか! せっかくこうして会うことが叶ったというのに! ゆっくりとお酒を飲んで、勝負なんか最後の最後にちょろっとやればいいデース!」


 ビートはうろたえた表情で直立している。


「そんなことをするために設けた場ではない。ビート。いいから伝えてこい」


「分かりました!」


 ビートはウィーナの言うことを聞いて、バルコニーから去ろうとする。そこを再び冥王が口を挟んだ。


「駄目デース! 行ってはいけませーん! ゆっくりお話するんデース!」


 ビートは足を止める。


「構うな。すぐに始めるように伝えてこい!」


 ビートは足を動かす。


「せっかくのデートなのに! お前はそこにいなサーイ!」


 ビートは足を止める。


「デート!? いつからそんなことになった!? 私にはそんな悠長に話している時間はない。貴様と違って忙しいのだ」


 ウィーナは冥王をきつく睨んで言った。


「もし今勝負を始めたら、一瞬でお終いになってしまいマース! 何せミーの用意した戦士、冥王軍金剛闘士部隊総隊長・マッスル石黒はそちらの用意した戦士など瞬殺するでしょうからね!」


「舐めるな。私の部下ならお前の手駒などあっという間に叩き潰せる。それで用は済む。そうしたらさっさと帰れ」


 両者の間に緊張が走る。それを見守るビートも表情を強張らせていた。


 しばらくの沈黙を破って、冥王が不敵な笑みを作り上げた。


「いいんデースカー? ミーにそんな冷たい態度取って? この勝負を仕掛けたのはハニーの方デース。ミーとしては、このまま勝負せずに帰ったってOKデース! ユーがおねだりするものだから、こうしてミー直々にここまで出向いたのいうのに」


 ウィーナは歯を食いしばって考えた。部下のために仕掛けた勝負だ。ここで破談にするわけにはいかない。


「……ビート。しばらくここで待て」


 渋々ウィーナは命じた。冥王は嫌いだが、今彼に拗ねられてはまずい。虫唾が走るが、今回ばかりはウィーナの方が立場が弱い。


 冥王に借りを作りたくなかったので『おねだり』から『勝負』という形に持っていったのだが、肝心の冥王はこの勝負がウィーナの『おねだり』よって実現したと認識しているようだった。


 しばらく冥王とウィーナのお食事デートは続いた。その間、ビートは甲斐甲斐しく両者のグラスにワインを注ぎ、厨房から料理を運んできた。


「ところで、今日はプレゼントを用意してきました」


 冥王が悠然として掌を掲げると、彼の横に闇の塊が発生した。闇はすぐに晴れた。そこには、黒く輝く、一着の煌びやかなドレスが浮いていた。


「いらん」


 即答するウィーナ。構わず話す冥王。


「これは。糸を練り上げるのに二十年かかる、冥界でも最高のトルマド生地のみで作り上げ、永久にその輝きを失わなず、ひと欠片の汚れもつかないよう、冥界最高の魔術士達が魔力を込めたものです。ユーのために作りマーシタ。ユーのサイズの情報を得るのに苦労しましたよ」


「どこからそんな情報が漏れた……」


 冥王の得意げな解説を、ウィーナは冷淡な表情で迎え撃った。


「これを受け取って頂きマース」


「この一着を作るのに、どれだけの金がかかった? この冥界の民の納めた税で賄われる国庫の金をどれほど使った?」


 ウィーナの言葉を聞いた冥王が、途端に周囲を威圧する、底知れぬ迫力に満ち溢れた。そして、その口元に刻まれた皺をゆがめ、言葉を継ぐ。


「……そうデース。力なき民が飢えに苦しみ、自らの命を削ってまで差し出す税によって、罪なき民を踏みにじることによって作られたこのドレスをあなたが着ることに価値があるのデース」


 口調は王族ことばだが、話す様子に初期のフランクさは微塵もなかった。


「虫唾が走る」


 ウィーナは心底不快感を覚えた。何より、冥王がウィーナのために冥界の公費を使ってこんな豪勢なものを作っている。自分自身に不快感を覚えた。


「あなたは将来、この冥王の妃になる女性。善良な愚民達で血塗られた上の美しさを身に纏う姿こそが相応しい」


 ウィーナの眉が微かに震えたが、怒りを押さえ、鼻先で冷笑した。


「生憎だがそのような物、私には着る機会がない。仕事中に着る、これがあれば十分なのでな」


 ウィーナは自分の着ている服に目を移す。安物の生地で作られた古い制服で、豪勢なドレスを否定してみせた。


「じきに着る機会が訪れマース。勝負は私が勝ちますから」


 冥王は余裕たっぷりの表情で、ワインを口に運んだ。


 もし冥王の用意した戦士にジョブゼが負けたら、ウィーナは今度冥王城で開かれる式典にゲストとして参加しなければならない。


 式典で行われる儀式を、冥王の横に座して見届け、その後のパーティーでも常に冥王の横に座ることになる。パーディーではピアノを奏でることになり、ダンスまで一緒に踊る羽目になる。


 公の場でそんな姿を見せたら、世間の連中は結婚が秒読みなどと、こぞって噂するに違いない。


「その代わり、私が勝ったときは、約束は必ず守ってもらうぞ」


 ウィーナもワインで喉を潤し、庭に視線を落とした。


「まことに部下思いなお人デース! リアリー優しいんですネー!」


 冥王が肩をすくめて、軽妙だが、どこか馬鹿にしたような口調で言った。


「もう前置きは十分だろう。ビート、始めるよう伝えてこい」


「了解しました」


 ビートが一礼して部屋を去ろうとしたそのとき、一人の男がバルコニーに駆け込んできた。


「ウィーナ様!」


 男は声高に使えるべき者の名を呼んだ。着古した茶色いコートの下に鎧を着用し、青い肌に銀色の髪を持つ男。幹部従者ヴィクトである。突然の登場を受けて冥王は、ヴィクトに一瞥もくれず一笑に付す。


「ヴィクトですか。お前は相変わらず礼節を弁えんリトルBOY……」


「冥王様……」


 ヴィクトは気まずそうな表情で冥王の方に僅かばかり視線を移した。そして、すぐにウィーナに向き直って、足早にやってきた。


「ウィーナ様! なぜ私などのためにこのようなお戯れを!」


「戯れなどではない。私は本気だ」


「すぐにおやめ下さい。このような勝負、負けたときのリスクのことをお分かりでしょう」


 ヴィクトが言い終り、再び視線を冥王に向けた。若干の敵意を帯びた視線だった。


 バルコニーの入り口では、ビートが呆気にとられてその様子を見ていた。彼はじきに我に返ったようで、足早に階下の方へと向かった。


「ガッデム! 身の程知らずとは正にこのこと。お前の主君の計らいに感謝するのデースね」


 狼狽して立ちつくすヴィクトに、ウィーナは微笑み、優しく声をかけた。


「案ずるな。ジョブゼは勝つ」




 ウィーナの言葉を聞いても、ヴィクトはまだ納得のいく表情をしていなかった。


 そして、固い面持でしばらく庭を睥睨へいげいした後、こう切り出した。


「私にやらせて頂けないでしょうか?」


 ウィーナは腕を組んで少々思考を巡らした。この勝負にはジョブゼを出そうとしていた。しかし、ビートに『ジョブゼに始まると伝えてこい』と命じただけで、『ジョブゼに戦わせる』とはまだ一言も言っていない。


 ルール上、ヴィクトを戦わせることに問題はないだろう。


「私は構わん。冥王、いいか?」


 ウィーナは冥王に視線を向けた。


「ノープロブレム」


 冥王はおどけた口調で答えた。


「ありがとうございます」


 ヴィクトはウィーナと冥王に頭を下げた。


 庭先を見ると、既に二人の戦士が向き合い、まさに戦わんとしているところであった。


 周囲の野次馬達の喧騒が一段と大きくなって響いてくる。


 ジョブゼが剣と手斧を構えた。彼と相対する戦士・マッスル石黒は鎖鎌を頭上でブンブン回し始めた。


 マッスル石黒は、筋骨隆々で真っ黒の石のような巨体を持つ男であった。強そうである。


「それでは、戦ってきます」


 言うと同時にヴィクトは駆け出した。彼は三階のバルコニーから颯爽と飛び降り、体中を青白いオーラで包みながら一直線にマッスル石黒へと飛来した。


 そして、そのまま隕石の如くマッスル石黒に突撃をぶちかましたのである。マッスル石黒は突如の襲撃に全く対応できていない。完全な不意打ちであった。


「あんぎゃああああ!」


 遠く離れたバルコニーにもマッスル石黒の悲鳴は聞こえてきた。オーラと土砂が爆発し、砂煙が巻き起こって何も見えない。


 周囲の使用人や従者達は、状況がよく飲み込めずざわめき出す。ジョブゼは直立したままその様子をただ見守っている。


 砂煙が晴れた。そこに現れた光景。ヴィクトを中心に周囲の地面が深々とえぐられており、さながらクレーターのようである。


 すさまじい戦闘能力を持った戦士が戦闘すると、力の放出でしばしばこのような地形変動は起こり得るのだ。


 ヴィクトの足元には、まるで砂風呂のように頭だけ露出して、地面にすっぽり埋まってしまったマッスル石黒がいた。ウィーナの持つ女神の視力で、彼が失神していることは容易に認識できた。


「オーマイガー! オーマイガーアアアッ!」


 冥王がテーブルを叩きつけながら立ち上がり、バルコニーから身を乗り出した。


 庭ではジョブゼが何やら憤慨した様子でヴィクトに詰め寄ったが、ヴィクトはジョブゼに何かコソコソと耳打ちした。すると、ジョブゼは何やら納得したようで、大人しくその場を去った。戦闘狂の彼の出番を奪っておいて、何と交渉力の高い男だ。


 女神の聴力をもってすればこの距離でも会話の内容を聞きとることは可能であるが、あえて聞かなかった。内容に興味がないし、盗み聞きはいい趣味とは言えないので極力したくない。それに、何でも聞こえてしまうのは疲れる。


 女神の耳は都合の悪いことは聞こえないようにできているのだ。


「私の勝ちだな」


 とりあえず勝ち誇ってみせたが、笑顔は見せなかった。グラスの酒を悠然と口に運ぶ。


「ガッデーム! サノバビッチ! こんなの認めまセーン!」


 冥王が食い下がった。威厳も何もあったものではない。


「醜態を晒すな。お前も了解しただろう」


「こんなの卑怯ではないデースか!?」


「『互いに戦士を一人ずつ出して、戦わせる』。最初に確認した通りだ。どこが間違っている。他には何も決めていない」


 ウィーナは平然と言ってのけた。ウィーナは勝利の女神であると同時に、勝利の為なら、どんな卑劣な手段でも自分が納得できる範囲では厭わない女であった。


「うぐぐぐぐ……ファック! ファック! あの青肌ファッキンBOYめええっ!」


 冥王がヴィクトに罵声を浴びせたが、肝心の本人はこの場にいない。


 ウィーナは黙って冥王に広げた掌を差し伸べる。


 それに気付いた冥王が訝った表情を作る。


「ホワット?」


「早く。約束のもの」


「約束のものおおおっ!?」


「ほら、よこせ」


 ウィーナがぶっきらぼうに急かした。さっさと約束のものだけ渡して早く帰ってほしいのだ。


「ガッデーム渡すわけねーでしょーがソンナーン! 代わりにマッスル石黒を置いていきますから受け取りなサーイ! ファック!」


「いらん。私が望むのはヴィクトへの冥界司法官の資格回復だ」


 ヴィクトは冥界で最も難しい部類に入る資格試験・冥司法試験に合格していた。膨大な知識を要求される筆記試験の他に、ある程度の戦闘能力も要求される難関である。


「ぬううう……。なぜ、なぜあんな男に……」


 冥王がヴィクトに嫌悪感を抱くのも無理はない。ヴィクトは元々冥界でも屈指の名門である貴族の出であり、彼の一族は代々冥界政府中枢へ官僚を輩出していた。


 ヴィクトも例に漏れず執政部の官僚になった。だが彼は、冥王の絶対君主政治を排し、冥界に民主制を敷こうとする派閥に属していたのだ。


 そして、冥王アメリカーンはその勢力を謀略にはめて、一掃を謀った。ヴィクトは絶対民主制度となった冥界の、法律の草案等に携わっていた。冥王はそこに目をつけ、ヴィクトの司法官資格を剥奪したのだ。


 政争に負けたヴィクト達の派閥は、軒並み僻地へ左遷されたり、解雇される憂き目にあった。


 冥王から荘園を没収され家はすっかり没落し、官僚の資格も司法官の資格も失ってしまったヴィクトは、何を思ったのかワルキュリア・カンパニーへ再就職したのであった。


「冥王が約束を違えるのか?」


「……いいでしょう。負けは負けです。やりましょー!」


 冥王はテーブルに置いてある料理や酒を隅にずらし、テーブルに向かって手をかざした。


「ハアッ!」


 掛け声と共に、テーブルの中央に深い闇の塊が現れた。闇が晴れると、そこにはヴィクトの司法官の資格書と、冥王の魔力が備わった分厚い法律書が置かれていた。すなわち、冥王の庇護の下、強制力をもって法を執行する権限があることを意味するものであった。


「これを渡しなサーイ! 法務院にはヴィクトのファックが法曹資格を回復したってミーの方から伝えときマース!」


 冥王は酷くイライラした口調で言った。


「それは助かる。それではもう用は済んだろう。帰るがいい」


 ウィーナは資格書と法律書を手に取って言った。


「ドレスは受け取ってクダサーイ!」


 先程のドレスは空中に浮きっ放しだったのだ。


「いらないと言ったはずだ。持って帰れ」


「いらないんだったら捨てマース!」


「そうか。勝手にしろ!」


 冥王は苦々しげな表情で指を鳴らすと、ドレスはその場から消滅した。


「それでは、今日はこれで失礼シマース! シーユー!」


 冥王は、死神達を引き連れてバルコニーから去っていった。ウィーナは見送りもしない。


 一人バルコニーに残されたウィーナは、しばらくそのままワインを飲んでいた。


 すると、ビートがバルコニーに戻ってきた。


「ご苦労だったな。もう帰ったぞ……ってそれは?」


 ビートの手には、あの黒いドレスがあったのだ。


「今そこで冥王様に呼びとめられ、これを渡すように頼まれたんです」


 まさか従者に渡すとは。


「衣装部屋にしまっておけ。今度送り返す」


「了解しました」


「ああ、あと、それをしまったら、ヴィクトに戻って来るように伝えてくれ」


「はい。分かりました」


 ビートは一礼し、再び廊下へ歩いていった。






 ヴィクトとビートがバルコニーに戻ってきた。


 ウィーナは冥王が置いていった資格書と法律書を手に取り、ヴィクトに手渡した。


 ヴィクトは微かに、注視せねば気がつかない程の一瞬、訝しげな表情を見せた。


「ありがとうございます」


 彼は報酬を大切そうに持ち、ウィーナに深々と頭を下げた。


 これでヴィクトはこの世界の法を犯した者を強制力を持って制圧する権限を持つことになる。たとえ、相手との戦闘能力差がどれほど開いていても。冥王の力を宿した法律書の力には逆らえない。仮に逆らえたとしたら、それは冥王を超える者。


「うまく使いこなしてくれると嬉しい」


 ウィーナはヴィクトに微笑んでみせた。元々、彼が冥王の不興を買って剥奪された資格である。冥王さえ納得させれば回復は可能だ。そして、それができるのは自分だけだとウィーナは思っていた。


「しかし」


 ヴィクトは言葉を切り出した。ウィーナは黙って彼の言葉の続きを待つ。


「私の資格回復などの為に、ウィーナ様が危険を冒すなどあってはならないことです」


 やはり彼は不満げな顔つきになっていた。申し訳なさそうな表情でもある。


「お前の資格が回復すれば、仕事でできることの範囲は広がる。お前により活躍してもらう為だ。もし気に入らんというのであれば使わずともいい」


 ウィーナが好きでやったことだ。それを受け入れるか受け入れないかはヴィクト個人の自由である。


「期待してもらっていることは感謝しています。ただ、冥王様と賭けをなされるとは……。もし負けたら、その代償が」


「ああ」


「下手をしたら、ウィーナ様は冥王様と親密な間柄にならざるを得ない状況に追い込まれていたかもしれなかったんです。それに、このような勝負にジョブゼを。私はジョブゼに対して申し訳ないと思ってます」


「私もジョブゼも好きでやったことだ。賭けのリスクに関してはお前の知るところではない」


 ヴィクトは、ウィーナに贔屓されるような形で、資格回復が降って湧いた事実が辛いのであろう。ジョブゼに代わって自ら戦うことを名乗り出たのも、せめて自身の力で成果を得ようとした思い故からだ。


 しかし、ウィーナにとっては彼のそのような気持ちは考慮の内ではなかった。彼の資格を回復してやれるのが自分だけであるということ。自分が彼の上司であるということ。また、彼の資格があった方が組織にとっても彼自身にとっても有利であること。


 それが理由だ。


「はい……」


 ヴィクトは小さく頷いた。


「話はこれで終わりだ。私は仕事に戻る。ビート、片づけを頼む」


「はい」


 ビートはテーブルに残ったワインや食事をてきぱきと片付け始めた。ウィーナとヴィクトは、バルコニーから廊下へと戻ったところで別れた。

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