第10話 理想の世界

 私の目的はノアの箱舟だ、と言われても。

 正直、頭のおかしい御仁にしか思えないのですが。


「そんな顔をしないでくれ。端的に言っただけだ。一言だけでは頭の残念な人とそう変わらなく聞こえてしまうだろう。私も、インパクトの強い言葉だけの能無しと同じにされたくはないからな。少し考えれば分かるデマを流す馬鹿にもなるつもりもない」


 男がゆっくりと前に出てくる。

 自分と朱音さんの間に入るようにして。自分の視界の多くを持っていくように。


「君は、権力者層や発言力の強いものを見て自分の方が上手くやれると思ったことはないか? 地位の有無にかかわらず愚かな間違いを犯すものが多いとは思わないか? 馬鹿が多すぎると思わないか?」


「理解できない者は多いですけど、あくまでも理解できないだけで別の考えがあるかも知れませんよ」

「取り繕わなくて良い」


 男の声がやや大きくなった。

 一拍開いて、男の口がまた開く。


「失敗することや信念があることと愚かな行いは違う。この世界はクズが多い。見たことはないか? 少し脳みそを使えばわかることすら分からない奴らを。

 身近なところでは道を塞ぐように三人や四人が並んで歩いているのにゆっくりで、後ろも気にしない奴らのことだ。何かを否定することしかできない奴らだ。支配者層で言えば、国民にはやるなと言っているのに自分たちは無視している奴らなどがそうだ。どちらも、少し考えれば、いや、考えずともわかるはずのことではないか?」


「道を塞いだのは高校生の時、俺も一回やっちゃってるんで。何も言えないですね」


 自転車に乗っている方にはご迷惑をおかけしました。


 以後は気を付けているけどさ。道を塞いでいる奴らに心の中で罵声も浴びせてもいるし。

 特に雪が降った直後の狭くなった道をのろのろと前後左右の確認もせずに友人との間隔を変えて道を塞ぎ切っている奴らは。顔を覚えておきたくなるレベルで嫌ってはいる。


「一回や二回の失敗、反省するためには必要だろう。そこまで咎めればそれも嫌な管理社会。だがそうではない。クズどもはそうではない。大の大人が、『人の振り見て我が振り直せ』すらできないのでは話にならん。しかも今の世界はそういう奴らが声を大きくできる欠陥もある。この世界には、愚か者が多すぎる!」


 ああ、なるほどね。

 少し納得できてしまうのが、なんとも言い難い。


 こういう時は否定するのがセオリーなのだろうが、どこか正髄の言い分もわかる気がする。

 受け入れられる気がする。


「で、どうノアの箱舟と繋がるんですか?」


 いや、まあ、想像を否定してくれ、という意味があるのだけれど。


「力を背景に、不要なモノを削除する工程が同じだろう?」


 やっぱり否定はしてくれないか。想像通りの言葉を吐かれるか。


「普通の人は、受け入れがたいと言うと思いますけれど」

「君は、『自種を殺す形質は受け継がれない』と言っていたね」


 これから説得が始まるとわかる動作で、男が言った。

 頷いて返しておく。


「野生の、正常な淘汰が働いている生き物であれば、生存に不利な形質を持つモノは子孫を残せずに遺伝子を残せない。だから形質が受け継がれない。そうだろう?


 だが、人間はどうだ。


 クズを淘汰する機能がどこにある。社会には多少の生存の不利も賄う仕組みがある。個人の性質によって死ぬ可能性は限りなく低い。これは、正常の種とは言えないのではないか?」


「形質による生存の有利不利がなくなるように人間が進化した、とも言えると思いますけどね」


 生物学の話にしようと思ったのだろうが、進化や種として正常かどうかという討議に入った時点で哲学に近いと思う。


 哲学は、この男は得意そうだな。得意だと言っても違和感がないな。


「それでも良い。人間の性格は五十パーセントが遺伝子、もう五十パーセントは環境が決めると言う話もある。クズがクズの遺伝子を入れ、クズが育てると言うクズみたいな環境で新たな個体が成長する。これではクズは淘汰されず、クズが増えてクズみたいな世の中が出来上がる。そうだろう?」

「理論上は、そうですね」


 勘違いしてはいけないのは、統計解析にしろ理論にしろ、その過程で本来ならある膨大な情報の喪失は免れないと言うこと。


 だから、この男の発言が正しいとは言い切れない。


「そうだ。あくまで理論上だ。だが、クズであふれクズが氾濫しているのも事実。街中を歩けば必ずクズを見かけるだろう? ネットを開けば数分もせずにクズが見つかるだろう。種に不利益をまき散らしているのに、これはおかしいと思わないか。このままでは人間と言う種が崩壊すると思わないか? 生存に適していない性質が多くなると思わないか?」

「さあ。逆に全員があなたの言うところの『クズ』に変われば、息苦しさも感じないのではないんじゃないですか? 何が良いのかは、それこそ『神のみぞ知る』ですよ」


 男が大きく笑った。

 顎を上げて、喉仏が自分からも見えるように大きく笑った。


「神様とやらは教えてくれたか?」

「神の声が聞こえるとか、そういう人ではありませんので」


 こちとら世界を変えたいとか思う特別な方々ではありません。

 明日も明後日も変わらずに生きていければ良いだけの小市民ですから。


「なら聞かせてやれよ。神の声を」


 は? という言葉を挟む間もなく。

 男が朱音さんの頬を下から掴んだ。


「そんな顔するってことは、聞いてなかったのか? こいつが神だと」


「神?」


 髪? 紙?


「そうだ。こいつは神だ。禁書を焼くのが目的だと言っているのは聞いたが、どうして禁書を焼きたがるのか知っているか? 何のことは無い。他の神の力を削ぐためだ。神と言いつつ何もしない。四人もいるのに足の引っ張り合いに終始しているだけ。神とは、自己中な輩だ!」


 朱音さんの顔に変化はない。

 いや、触られたことで嫌悪感を示し、男を睨んでいるのみ。否定の言葉は紡がれていない。


 でも、神? 朱音さんが?

 あり得ない。と、言いたいけれども。


 今日はあり得ないことが起きすぎている。


「ま、別に神が人間に対してのみ好意的に働くとは思っていないから良いんだけどな。だがこれで分かっただろう? 神に触れる禁忌などない。あるのは人間同士のにらみ合いと、ことが起こった後の事実。良くするための行動が一時的に悪に見えても、徹底的にクズを排除した後に来るのはより良い世界だ」


 男に顔を戻す。

 一切間違ったことは言っていない、とでも言うような。罪悪感の無い表情である。


「人を殺すと言うことか?」

「クズを殺すと言うことだ。自然環境下ならばとっくに淘汰されていたと言うのに、狂った環境では生き延びてしまっている。それを元に戻すだけ。クズは、生存に不利な形質となったのだ」

「管理社会が嫌だと言っていたが、一人の基準だけで整理を行うのは、管理社会じゃないのか? 顔色を窺ってゴマを擦れるものだけが生き残れるように思えてしまうんだが」

「だろうな」


 男が頷いた。

 ゆったりとした動作で近づいてくる。


 思わず武器に伸ばしかけた手を止めて、男から目を離さない。本を出されたら終わりかも知れないし、そもそも攻撃手段もわからない。ゲームのように何発かもらっても大丈夫、と言うことはないだろう。二階程度の高さからなら子供のころは良く飛び降りていたけれども、怪物に殴られたことは無い。武器で戦ったことも無い。


 男がしゃがんだ。

 跳ねた肩は隠せないので、ゆっくりと戻す。左手の指は広げて、武器を拾うのに時間がかかることはアピールしておいた。


 いや、これはかかるのか? かかっても握るまでの僅かな間じゃないか?

 男が右手を伸ばしてきた。


「だから、私は仲間が欲しい。先ほど神を貶しておいて言う言葉ではないかも知れないが、君も神の試練に打ち勝った者だ。その書を手にしている以上資格がある。他者とは違う。そして私に心酔していないのも、私が君を欲する理由だ。私が間違っていると思えば、遠慮なく意見してくれる者が近くに欲しいのだ」


 は?


 どういう? 違う。どう返事をする? この状況で? 否と言えば殺されるかもしれないのなら、答えは一つなんじゃないか?


「武力を前提とした話し合いは、答えに多様性が無いと思うのですが」


 男の笑みは崩れない。


「仕方がないことさ。力を背景にした支配は基本だからな。どう言いつくろっても、皆がそうしている。ただ、そうだな。君に選択権があることを伝えるためには君をここから出せることを示した方が良いな」


 男が差し出していた右手を懐に入れた。視線も完全に自分から切れる。

 朱音さんとの距離は数歩分。


 左手で武器を掴む。低い体勢から一気にトップスピードに行くのは野球部時代にさんざんやってきた。滑りやすい地面にだけ気を付ければ良い。


 右足の一歩で、男をかわす。


 視線の有無とか殺気とかは自分には分からない。だから、前に行くしかない。


 武器を両手に持ちかえた。そのまま朱音さんを縛る土に振り下ろす。


「あ、がああああ」


 痛み、電流。激痛。

 何もしゃべれないまま、胸元に新たな衝撃を受けた。


 落下した先は柔らかめではあるが、肺からすべての空気が抜けたような気がしてしまう。

 遅れて、焼けるような感覚。胸から体全体に広がる熱。

 体を丸めて、芋虫のようにうねることしかできない。


「拘束を解いて蹴りを放つとは。なるほど。神の力を甘く見ていたようだ」


 男はしゃがんだまま朱音さんを見ていた。


「縛り上げろ」


 言葉と共に、更なる土が朱音さんを覆う。

 手を伸ばしたくても、抵抗したくても、ゴケプゾの力を引きずり出そうとしても、体が言うことを聞いてくれない。


 痺れと熱が内側から自分の動きを止めてくる。


「あいつが捕まったことを君が罪に思うことは無い。あいつは、自分の分身とも言える書を私に奪われているからな。交換条件として、神に近い書を持つ君を、いや、君の持つゴケプゾを生贄に捧げようとしているんだ。捨て駒としての君を求めていたんだ。庇うのは勝手だが、気を付けた方が良い。神は、何を考えているのか分からないからな」


 男は言いながら立ち上がり、また自分の目の前でしゃがんだ。


「とはいえ、今日は色々なことがありすぎて混乱しているだろう。私が神を欲するのは箱舟計画のためだが、一柱で足りるのかは分からない。だから、私の傍に来れば止めるチャンスはいくらでもあると伝えてはおこう。四柱の内、三柱でも手に入れれば、君にも一柱渡すかもしれない。私の理想が悪だと思えば、愚か者だと思えば止めるチャンスはいくらでもある」


 目の前に出されたのは名刺。

 『正髄洸太(SHYOZUI KOUTA)』と書かれた名刺。


「利用されていたにも関わらずあいつを救おうとした君を、私は尊敬するよ。だが、どちらがためになるか。みんなが笑顔で居られるか。考えておいて欲しい。ひとまず今日は、家に帰ってゆっくりするのが良いんじゃないか? この名刺があれば、私の世界にはいつでも入れるからな」


 目の前に置かれた名刺は、下が泥であるのに一切汚れず。むしろ、泥がよけているようにも見えた。


「古今東西、ありとあらゆる神話の中でも神はろくでなしだ。君を傷つけても君を癒しはしない。君の力も必要ない。でも、私は君を必要としている。ゴケプゾじゃない、その試練を乗り越え、戦いなれていないのに救おうとした君を、だ。あの瞬間、私を攻撃する選択肢もあったのに取らなかった君をだ」


 だから。

 それは。


 いつでも殺せるから見逃したと言っているように聞こえるんだよ。


「次会う時は色よい返事を期待しているよ」


 その言葉と共に、周りの世界がどんどん脱色されていった。

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