最高さ 前編

 何回嶋村さんに衝動をぶち撒けたのだろう。7回あたりで数えるのをやめた。確かに思春期にある情欲の爆発とか、俗に言う快楽に溺れるとかいったようなものもあっただろう。確かに彼女の柔らかな肉を掻き分けていく快感は、今まで感じたことのないような未知のものであった。


 それでも、それ以上に彼女の囁くような悲鳴が僕の脳を震わせたのだ。二の腕に爪を立て、肩に噛みつき、首を絞めていくときに苦悶に歪むあの顔を見る度に、僕の胸の奥が透き通っていくような感覚を覚えるのだ。


 もしかしたら、その感覚こそが『潤い』というものかもしれない。誰かを傷つけることで乾きを埋められない嶋村さんと、美しいと思っているものを傷つけることで潤いを得た僕。やっていることは近いようで遠いが、結局のところ同じ穴の狢だ。僕に彼女を非難することはできない。


 何もかも吐き出し、注ぎ込んだあとの嶋村さんは何事も無かったかのように優しい笑みを浮かべていた。何もかも肯定する慈母のようなその微笑みに、吸い込まれそうになると同時に思い出す。ここは蜘蛛の巣の中心だ。僕の心はとっくに巣の主に食べられている。嶋村七海の肉はあくまで彼女にとっては疑似餌でしかないのだろう。振り払ったつもりでも、蜘蛛の糸は僕に絡み付き、動きを制限するどころかマリオネットのように操っていたのかもしれない。それでも、僕は僕の衝動のままに彼女を喰らったのだ。


「貴方がやりたいことを全身全霊で受け入れてあげる。受け止めてあげる。肱川くん、愛しているわ」


 何もかも終わったあと、彼女が笑いながら放った言葉は、まるで白昼夢の出来事のようだった。どう答えたのかは覚えていない。気がついたら彼女の家を出て、自宅に戻っていた。太陽は落ち、時刻は夕飯時をとっくに過ぎていたが、何も食べる気が起きなかった。シャワーですら浴びたくなかったのだが、明日もまた学校だ。半ば義務感というか、強迫観念に背中を押されながら手短に済ませて自室に戻る。


 一向に空腹感が訪れない。もしかしたら嶋村さんを貪ったからかな、とシングルベッドに寝転がりながら自嘲気味に笑う。頭の中は冷えきっている。冷静になると罪悪感や恐怖感がやってきそうになるものだが、僕の心は凪いだ海のように静かであった。乾いた大地に雨が降り、地面の奥底に張っていた根に栄養が渡るような充足感のようなものすら感じる。


 僕、肱川統義という存在は、嶋村七海の肢体に消えない傷をつけた瞬間に変性したのだろう。変生と言ってもいい。今までの僕ならば惨めに悩んで考えて震えて、結局一睡も出来なかっただろう。なんて下らない。なんて矮小な考えなのだろう。満ち足りている今の僕にとっては、半日前の自分自身さえも嘲りの対象だった。


 彼女のくぐもった悲痛な声も、空気を求めて喘ぐ口も、強引に押し広げられる感覚に痙攣する柔らかな身体も。思い出せば思い出すほどに、頭が冴えていく。


 ベッドから身を乗り出し、窓を開ける。微かに夏の気配を帯びた風が僕の身体を通り過ぎていく。窓の外から見える風景は閑静な住宅街ということもあって近所の家の照明と街灯ぐらいしか夜を照らしていないが、今の僕には大都会のように輝いて見えた。沢山の人が生活を続けている、僕が生まれ育ったこの久我の町がとても愛おしく見えているのだ。何度も何度も見た風景ではあったが、『潤い』というのはこういうものなのか。嶋村さんが誰かを傷つけたあとの世界は、こんなふうに見えていたのか。


 愛おしいから、美しいから生まれた衝動も僕の中でゆっくりと膨らんできている。生まれてからずっと暮らしてきた久我の町並みを無惨なものにしたら、きっととても『潤う』のかもしれない。だがそれを実行するにはあまりにも社会的にも法規的にもリスクが大きすぎる。それが分からないほど、僕も馬鹿ではない。嶋村さんもきっと、明るみに出ないタイミングで実行に移したのだろう。僕も入念に準備を重ねなければならない。


 窓を閉じて、布団を被る。今夜はとりあえず満たされたまま眠りにつこう。冴え切った頭はともかく、蹂躙を重ねた肉体は疲労しきっていたようだ。睡魔は思ったより早く僕の意識を遥か彼方へと刈り取っていく。


 一瞬でノンレム睡眠へと到達し、夢も見ることなく朝へ向かって突き進む。睡眠の時間は体感時間と体感時間の隙間を瞬く間に駆け抜けて、あっという間に太陽が昇っていた。


 個人差というものはあるが人間の体内時計とはよく出来たもので、僕の意識休日だと認識していない限り大体はいつも起きる時間……つまりは午前7時ごろに目が覚めるようになっていた。今日もその通りの時間に目が覚める。昨日は衝撃的な出来事があった割には、至って普通の目覚めだ。なにか夢を見たのかもしれないが、覚えていない限りはその程度のものだ。覚えていたところで、夢の内容で一喜一憂するほどロマンチストでもない。夢占いなどあるらしいが、ただの記憶の整理になにを求めるというのか。ただの言いがかりでしかないというのに。


 ベッドから降り、リビングへ向かう。ドアを開けると母が朝食のトーストをテーブルの上に置いているところだった。香ばしい香りが微かに残っていた眠気を払っていく。普段より早く部屋に降りてきた僕を見て少し目を丸くしていたが、見なかったことにした。


「おはよう」


「おはよう、なんか早いじゃない。今日学校でなにかあるの?」


 母の言葉に「別に」とだけ答え、手早くトーストを胃に放り込む。スーパーで売っている特売の8枚切りではあったが、やはり焼きたてというものは格別だ。


 チャンネルを固定したかのように毎朝同じ番組を流す我が家のテレビからは相変わらずエンタメ情報だとかグルメ情報だとかが流されている。同じような情報を毎日毎日流されると、まるで日常がループしたような感覚に陥る。僕が見たいのは天気予報ぐらいだ。今こうやって晴れていても、この時期は急に天気が崩れたりする。学校から自宅までそこまで離れていないとしても、ずぶ濡れになるのは御免だ。傘が必要かどうかぐらいは知っておきたい。


 さほど興味が湧かないエンタメ情報のあとに流れた天気予報は午後から雨が降るという内容だった。そこまで強い雨にはならないということなので、折り畳み傘をカバンに突っ込んでおけば問題は無いだろう。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。近くの傷害事件も犯人が捕まって落ち着いたみたいだけど、気をつけなさいよ」


 母の声に適当に答える。結局のところ、あの男が全ての犯人というわけではないのだ。きっと嶋村さんが襲ったのは森本さんだけではないだろうし、これからも増えていくのだろう。一人程度で彼女の乾きが満たされることはない。根拠など全くないが、今の僕にはそれが理解出来た。幾ら潤っていても、時間が経てばどんなものも乾いていくのだ。


 ドアを開けて外に出る。いつもならばイヤホンを付けてお気に入りのロックナンバーを再生するのだが、そんな気にならなかった。周りの音や自身の足音が刻むビートだけでも素晴らしいメロディが奏でられていくような気がした。潤っている心においては、何もかもが素晴らしいものに見える、聞こえるとは思っていなかった。驚きを隠さずに大股でいつもの道を進んでいく。


「おはよう。気分はどう?」


 いつもの十字路のいつもの場所で、いつものように嶋村七海は立っていた。細い首には包帯が巻きつけてある。恐らく僕が力を加減することがなかった為、首に付けてしまった手や歯の跡を隠すために巻いたのだろう。痛々しく見えるその姿が、僕の潤いを一層強めていく。ならば、彼女の問いにはこう答えるしかないだろう。


「最高さ」


 自分でも驚くほどに口角が上がっているのを自覚すると同時に、数時間前には彼女の身体を貪っていたという事実に身体の一部が熱くなっていく。この場で向ける訳にはいかない衝動をどうにかやり過ごすために視線を頭上に向ける。雨の気配など微塵も感じられないほどに、空は突き抜けるような快晴だった。突き刺さるような太陽の輝きも、僕の心を乾かすにはまるで足りなかった。

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