抗い続けろ(スタンディング・スティル)

 レースは旧鎌倉往還――国道138号線を進み、富士山のお膝元である富士吉田市に突入した。ここからはもう登り一辺倒のコースとなる。


 追走グループを形成した選手たちは、ほとんど限界を超えたペースでローテーションを回していた。

 脚が動かなくなった選手から、先頭を離れる際に「後は頼む」と言い残して後ろに下がる。そうやって一人、また一人と人数が減っていった。

 頼む、と言われるたびに期待の重みがかかる。

 かつての僕はその重みに耐えかねて逃げ出したが、今は逆に、この重みが力を与えてくれることを実感できている。


ドーピング野郎ドーパーには、勝たせませんから!」


 後ろに下がっていく選手たちに、僕はそう声をかけた。

 自分のレースを捨てて、僕たち『パニアグア』をニシキに追いつかせる協力をしてくれた人たちへの、せめてもの感謝だった。


 眼前に富士山の威容が大きく迫る中、自衛隊の北富士演習場の脇を通り抜け、いよいよ富士山五合目に向かう有料道路へとたどり着いたところで、先頭を走るニシキを射程内に捉えることができた。

 僕たちとの差は50m弱というところだろうか。

 ニシキは一瞬振り返り、こちらの姿を確認した。ハイペースで一人先行していたのに捕まるとは思っていなかったはずで、多少はショックだったのではないかと思うけど、表情は確認できなかった。


「なんとか、最後の、勝負の前に、追いつけたな」


 息も絶え絶えになりながら、薄葉が勝ち誇った笑みを浮かべる。

 追走グループに残っていたのは『パニアグア』の三人と薄葉だけだった。その薄葉も、明らかにもう限界だった。


「薄葉、ありがとう」

「勝てよ」


 それだけ短く言うと、薄葉はペダルを回す脚を止めて右側に避けた。代わってヒカカゲさんが先頭に出る。

 これ以上別れを惜しむ暇もなければ、礼を言う暇もない。ここからは『パニアグア』のチームでニシキに追いつき追い越すしかないのだ。

 僕らは振り返らずに進んだ。

 有料道路の料金所を過ぎたところで、とうとうニシキに追いつく。


「よう、待たせたなぁニシキ。去年の六月の勝負の続きといこうや」


 先頭を行くヒカゲさんがそう呼びかけたことで、僕も思い出した。去年の富士山のヒルクライムレースで、僕はここにいる面々と出会ったのだ。

 同じコース、同じメンバー。

 因縁を感じずにはいられない。


「なにも続いてなどいない」


 鉄面皮のニシキにしては珍しく、わずかに苛立ちを含む返事だった。


「あの時は俺が勝った。今回も俺が勝つ。それだけだ」


 ニシキはサドルから立ち上がり、ダンシングで加速を始める。疲労の色が見えない鋭い加速に僕は舌を巻いた。


「へっ、まだまだ元気ってことかよ、仕方ねえ!」


 ヒカゲさんもダンシングに切り替えてニシキを追う。僕とマダラさんはヒカゲさんの走るラインをトレースしながら足の温存に努めていた。

 しかし、どう考えてもオーバーペースだ。この速度で走ると、富士山五合目駐車場まで一時間もかからずに登れてしまう。

 薬物で身体能力を底上げしているうえに、痛みや苦しみを軽減する鎮痛剤まで隠し持っているニシキはともかく、ヒカゲさんには厳しいペースなのではないだろうか。

 マダラさんも同じことを考えていたようだ。


「ヒカゲ、無理するなよ」

「おいおいマダラ、ここで無理しなくてどこで無理するってんだ。山中湖からずいぶん長い距離を休ませてもらったからな、ガンガンいくぜぇ」


 ヒカゲさんの顔は苦痛に歪んでいたが、口調だけは明るい。マダラさんもそれ以上はなにも言わず、ひたすらペースの維持に集中していた。

 アカマツの林を抜け、標高約1,400mの一合目下駐車場を通過する。


 後ろから観察していると、単純なパワーとスタミナはニシキのほうがヒカゲさんより一枚上手のようだった。コーナーを曲がってからの立ち上がりのキレが良く、直線を走るときと比較してもあまりスピードが落ちない。

 一方、ヒカゲさんは『ヒルクライム仙人』の異名が示すように、とてもスムーズで無駄な力を使わないヒルクライムの走り方をする。

 コーナーを曲がるときには理想的なアウト・イン・アウトのラインをとるし、大きくハンドルを切らずに重心移動で「自転車が自然に曲がっていく」ことを心がけているようだった。

 この一流のクライミングを間近で見ることができるのは、とてもありがたいことだと思う。教科書を読みながらヒルクライムのテストを受けているようなものだ。ヒカゲさんの真似をしながらペダルを回しているだけで、ずいぶんスタミナを節約できていると思った。


 ところが、富士山二合目の標高約1,600mを示す標識を過ぎたあたりで、ヒカゲさんの走り方に滑らかさが無くなってきた。ニシキとの差が詰められず、少しずつ離されているように見える。

 表情が苦しそうなだけでなく、ペダリングがぎこちない――右脚をかばっている。

 その事実に先に気づいたのはマダラさんだった。


「ヒカゲ――お前、右膝が痛んでいるだろう」

「目ざといなあ、さすがインストラクターだな」


 ヒカゲさんは顔に脂汗を浮かべながら笑った。


「昔、若い頃に交通事故で左脚を怪我してから、左の大腿筋が攣りやすいんだよ。今日も山中湖のあたりで左脚が攣っちまったんで、右脚でカバーしてたら、今度は右膝が痛みだしやがったんだ」


(そんな)


 それはとんでもない苦痛のはずだ。

 今、僕たちは一分間に90回転から100回転ぐらいのペースでペダルを回している。それだけの回数、両脚を上下させているということだ。ヒカゲさんはそのたびに激痛を感じていることだろう。

 痛みは気力も思考力も奪う。スポーツをしている間、痛みを感じなければどんなにいいことか――ニシキはそれを実現しているが。


「痛みを感じないのは、ズルすぎる」


 ヒルクライムの技術ではニシキを上回っているヒカゲさんが、痛みによって十分に実力を発揮できなくなっているのが悔しく、思わず僕はそんなことを呟いていた。


「おっと、それは違うぜ、シロウちゃん」


 四月の富士山は道路外にまだ雪が残っていて、観客も居ないので静かだった。そのせいで僕の呟きがヒカゲさんの耳に届いたらしい。


「痛みってのは、人間の肉体にとって最高にありがたい存在なんだよ。それを感じないのは不自然なことなんだ」

「ありがたい、存在?」


 痛みをありがたく感じる、という考えはこれまで聞いたことがなかった。


「痛みのプロの麻酔科医が言うことだから、信用しなって。体のどこかが痛むのは、『この箇所に異常が起きていますよ』『このままだと健康を害しますよ』っていう脳からの警告なんだ」

「はい」

「その警告を無視して、鎮痛剤とかで抑え込んで体を動かし続ければ、とりかえしのつかない大きな怪我や故障につながる。痛みを感じない膵臓ガンの早期発見が難しいのも同じ理由だねぇ」


 なるほど、と僕は思った。そう考えれば、確かに鎮痛剤の使用は不自然なことだ。


「これ、伊豆のトレーニングでも話したっけな? ニシキが使っているトラマドールもそうだ、なんで国際自転車競技連盟UCIが鎮痛剤を禁止薬物にしているかというと――うぐっ」


 そこまで言って、右脚でペダルを踏み込もうとした時、ヒカゲさんの脚から力が抜けた。痛みの点でも、スタミナの点でも、もう限界が近いようだ。


「ヒカゲ、代われ!」


 マダラさんが先頭に立とうとしたが、ヒカゲさんは手を振って押し留めた。


「三合目までやらせてくれ、そっからならマダラのスタミナも保つだろ」


 敢然とペダルを回し始めるヒカゲさん。その様子を見て、マダラさんは押し黙って後ろにとどまった。

 気力だけで前に進んでいる、という様子だ。それなのにヒカゲさんのコーナーのライン取りは正確で揺るがない。

 青木ヶ原の樹海を見下ろせる駐車場を過ぎ、急角度のヘアピンカーブに差し掛かる。

 標高約1,800mの標識が見えた。


「――」


 言葉を出す余裕もなくなり、ヒカゲさんは口を開けたまま、荒い呼吸で前方を指差している。

 突き出された人差し指が、どんな言葉よりも雄弁だった。Go ahead進め


 なにも言わず、マダラさんが飛び出す。

 僕もそれに続く。後ろは振り返らない。

 気迫のこもったマダラさんの追走で、僕たちは再びニシキの背中を射程圏内に捉えた。


「深山、作戦Cではこのままスプリント勝負に持ち込む予定だったが、少し変更するぞ」

「変更ですか」


 マダラさんの思わぬ提案に、僕は少し戸惑った。


「想定どおりならニシキは疲れていて、俺たちは体力が温存できているという状態だった。だが現状、ニシキの体力にはまだまだ余裕がありそうだ」


 そこには同意するほかない。

 苦しそうな表情をしているとライバルに付け入られてしまうので、ポーカーフェイスは自転車選手にとっても大事なスキルだ。

 しかし、ニシキの無表情さは演技のポーカーフェイスではなく、本当にまだ苦しくないのではないかと思わせてくる。


「そうなると、去年の六月と同じ展開になってしまう」


 僕もそれを思い出していた。僕とマダラさんとヒカゲさんがそれぞれスプリント勝負を仕掛けて、最後にニシキが勝った、あの展開を。


「俺と深山では、お前のほうがスプリント力がある。だから俺は今からニシキのスタミナを消耗させにいく」


 マダラさんの提案は、重い期待をともなっていた。


「――僕に勝負を任せるってことですね」

「いけるな?」


 サングラス越しにじっと見つめてくるマダラさん。

 このレースの最中、いろんな人から期待を託されたけど、今回の期待は特別重かった。

 とはいえ、僕の返事は決まりきっている。


「任せてください」

「よし」


 いったん息を入れて呼吸を落ち着かせると、マダラさんは意を決してアタックを開始した。


「深山シロウ、苦しくても抗い続けろよ」


 まるで遺言のような一言を僕に残して、リズムの良いダンシングでニシキに追いついていく。

 ニシキが振り返る。

 マダラさんが横に並びかけてくるのを見て、その顔にあからさまな不快の感情が浮かんだ。僕たちを突き離せないことに少なからず苛立ちを覚えているようだ。


 標高約2,000mの四合目へ向かう途中、大沢駐車場の付近もほぼ180度のヘアピンカーブになっている。

 ここでニシキは再度ペースアップを仕掛けた。マダラさんも反応する。

 スピードはニシキの方が上だったが、マダラさんはコースのイン側をついて詰め寄った。

 ヒカゲさんともまた違う、豪快なライン取りだ。


 一般的にこういう角度のきついコーナーでは、イン側のほうが斜度が大きく、アウト側がゆるやかだ。少しでも楽な方を走りたいのが人情で、ついアウト側に膨らんでしまいたいところを強烈な意志で抑え込んでいる。

 二人は肩がぶつかりそうなほどの距離で横並びになり、さらにペースを上げていく。

 僕は自分のペースを守りつつも、遅れないようにするので精一杯だった。


「薬物を利用しない俺たちのスタイルを『縛りプレイ』だと呼んだな、ニシキ」


 マダラさんは少しペースを落とした。意図的にペースを上げ下げしているようだ。

 ニシキは前を見つめたまま短く返す。


「事実だろう」

「俺は常々、『縛りプレイ』のほうが楽しいと思っていてな」


 そう言いながら、静かにペースアップ。マダラさんは身体的にも精神的にも揺さぶりをかけている。


「二十四時間自由に時間を使えて、トレーニング内容も摂取する栄養も自由。そんな状況だとトレーニングをするのに頭を使う必要がないよな」


 相手がなにを言わんとしているのかを探ろうとして、ニシキはマダラさんのほうに顔を向けた。


「制約があったほうが創意工夫が生まれる。仕事があるから限られた時間でトレーニングする必要があり、薬物を使わないから厳密に自分の疲労と成長を指標化して記録する必要がある」


 ふう、と息を吐いてまたペースを落とすマダラさん。


「お前は自分を強くするのになんの工夫もない。できることを片っ端からやっているだけの『パワープレイ』だ。アスリートとしては二流だな」


 遠目に見ても、ニシキの顔色が変わるのがわかった。

 徹頭徹尾トレーニング効果を高めることに集中していた自分のスタイルを否定されるのは、ニシキにとって許しがたい体験だったらしい。


「なら、俺に負ける貴様は『三流市民レーサー』だな、浅木マダラ!」


 ニシキがマダラさんを置いて加速する。

 が、マダラさんは食らいついていく。

 さらに二つのヘアピンカーブを越えて、二人は火花の散るような激しいアタック合戦を繰り広げた。


(ニシキが冷静さを失っている)


 スタミナを消耗させる、とマダラさんが宣言したとおりになった。

 マダラさんは豊富なレース経験を活かして、ニシキを泥仕合の展開に引きずり込んでいる。標高2,000mを超えて酸素が薄くなっているこの環境でアタックを繰り返すことが、どれくらい苦しいか。

 二人は呼吸を荒くし、だんだんとアタックに精彩を欠くようになってきた。相当に消耗しているようだ。

 僕が自分のペースを保っているだけで差が詰まっていくのがなによりの証拠だ。


 そして、去年の六月にマダラさんがアタックをしかけた御庭の坂が見えてきた。

 今年のマダラさんは、もうアタックする体力が残っていないようだ。


「仕事は、しただろう?」


 息苦しさに顔を上げられないようで、うつむいたまま切れ切れに声を出すマダラさん。僕は感謝の念をこめて大きな声をあげた。


「はい!」

「よし、勝ってこい」


 その声に背中を押され、僕はマダラさんを追い抜いて御庭の坂を登り始めた。少し前を行くニシキも表情が苦しそうだ。

 一年越しで、ついにここまでたどり着いた。

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