ロール・オーバー・ドーパーズ!

姫野西鶴

地ならし(スチームローラー)

 市民ホビーレースに出てみようと思ったのはただの気まぐれだった。


 一時期は自転車なんて見るのも嫌だったが、大学に入ってから二年間、真剣に打ち込んできたスポーツであることは間違いない。

 自転車のサドルの上で流れる風景を見るのが好きだった。速く走れば走るほど爽快感は増していった。好きが高じて大学では自転車競技部に入部した。

 が、僕はレースに疲れてしまった。

 だから休部届を出して、昔みたいにのんびりしたサイクリングを楽しむだけの趣味に戻ることにした――はずだった。


(――なのに、またレースを走っている)


 自転車のハンドルの先に取り付けたサイクルコンピュータサイコンの表示に目を落とす。標高が2,100mを超えている。

 日本一の山、富士山。

 僕が今走っているレースは、標高約1,000mの富士山麓公園から2,300mの富士山五合目駐車場まで一気に駆け上がるヒルクライムレースだ。

 参加者にプロ選手はいない。全員が趣味で自転車に乗っているアマチュア市民なので、市民ホビーレースと呼ばれる。


(学連で走っていたレースとはずいぶん違う)


 学連――日本学生自転車競技連盟が主催するレースは、サーキットや公園を貸し切って行われることが多い。そういったレースのコースは登りあり、下りあり、急角度のコーナーありで、完走するだけでも難易度が高かった。

 加えて、大学対抗インカレレースはチーム戦だ。自分の大学を勝たせるために――たった一人のエース選手をトップでゴールに送り込むために、チームメイトが団結してエース選手をアシストする。いかに自分のチームのエースを守り、他のチームのエースの体力を消耗させるか、そういう駆け引きも重要だった。

 だから部の雰囲気は体育会系にならざるを得ない。

 上級生が下級生にチーム戦略を指示し、一・二年生はエース選手を守る「駒」として一所懸命に働く――そういう空気の重さが、「レースは疲れる」と僕に思わせるようになっていた。


(だけど、市民レースはそうじゃない)


 シンプルなのだ。

 あまり難しいコースが設定されることはないし、ヒルクライムレースに至っては「とにかく標高が一番高いところまで一番速く登れ」という単純明快なレースだ。

 チームを組んで出場する人もいるが、基本的には個人競技。そこでモノを言うのは身体能力フィジカルだ。強靭なパワーと尽きないスタミナを持つ人が表彰台に立つ。シンプルで爽快だ。


「シンプルなのがいい」


 早い呼吸にまじって、僕のつぶやきは声に出ていた。

 それが耳に届いたらしく、僕の隣を並走していた背の高い選手がこちらに顔を向けた。


「ああ、ここからの勝負はシンプルだな。あんたもそう思うかい、深山ミヤマシロウ」


 その選手が僕の名前を口にしたので、僕も驚いてそちらに首を回す。

 年齢は三十代後半といったところだろうか。自転車用ヘルメットの上部に空けられた通気口から茶色の髪が飛び出しているのが見えた。

 どこかで見た顔だな、と思いながら、僕は自分の疑問を訊ねてみた。


「僕を知ってるんですか」

「国内の自転車レースが好きなんでね。去年の大学対抗インカレで二位に入った二年生のことはよく覚えてるよ」


 その選手はそう言って笑った。

 はにかむようにクックッと笑うその表情に見覚えがあった――有名な強豪市民レーサーだ。


高根タカネヒカゲさん?」

「あらら、俺も有名人だね」


 ヒカゲさんはまたクックッと声を出さずに笑った。

 高根ヒカゲ――社会人になってから趣味で自転車に乗り始めたらしいが、たちまち頭角を現し、三十代前半の頃に国内の主要な市民ヒルクライムレースをほとんど制覇してしまった強豪クライマー。

 長身だがとても痩せていて手脚が長いので、立ち漕ぎ《ダンシング》でひらひらと急坂を登っていく姿がまるで宙に浮いているように見えることから、ついたあだ名が『ヒルクライム仙人』。

 その輝かしい戦績から、自転車情報を発信する動画やテレビ番組にも出演してアマチュア自転車乗りたちの尊敬を集めている。


「ま、このレースの終盤で先頭集団に残ってるのは有名人ばっかりだがな。たとえば後方でチャンスを狙っている要注意選手は――」


 あごをしゃくって後ろを示すヒカゲさんに促され、軽く振り返ってみると、そこにも見たことのある顔の選手がいた。ヒカゲさんとは対照的に、身長は低いがガッチリとした体格で、燃えるような真っ赤なジャージに身を包んでいる。


「あいつは強いぜえ、浅木アサギマダラだ」

「あの人がマダラさん」


 浅木マダラ――『最強市民レーサー』の呼び声も高い選手だ。ヒルクライムレースを得意とするヒカゲさんと異なり、短距離の周回クリテリウムレースや長時間の耐久エンデューロレースでも活躍するオールラウンダーで、実業団チームにも所属し、アマチュアながらにプロ選手と肩を並べて全日本自転車競技選手権大会に出場した経験も持つ。

 学生時代に自転車競技をやっていたが就職とともに引退。その後トライアスロンの大会に参加したことをきっかけに自転車競技を再開したという経歴の持ち主だが、仕事とトレーニングを高いレベルで両立させているストイックな生活ぶりが有名だ。

 

「午前四時に起きて二時間トレーニングして仕事に行って、帰ってきてから一時間トレーニングして寝る生活を三百六十五日続けてるらしいぜ。もはや仙人の領域だよな」

「仙人はヒカゲさんのあだ名でしょう」

「おっと、『超新星スプリンター』深山シロウに知ってもらえてるとは光栄だね」


 ヒカゲさんがからかうように口にしたそのあだ名に、僕の胸はズキッと痛んだ。

 『超新星スプリンター』――たしかに僕はそう呼ばれていて、去年の大学対抗インカレで二位に入賞した経歴がある。

 昔の話だ。

 今、僕は部活を休止して、一人のアマチュア自転車乗りとしてここにいる。シンプルな市民レースが面白そうだと思い、レースに戻ってきてしまっただけだ。


「さっきも言ったが、ここからの勝負はシンプルだぜ。ほら」


 ヒカゲさんの言葉に僕の回想は中断された。

 ゴールまで残り2km地点、レースは富士山四合目・御庭おにわに差し掛かっていた。ここまで20km以上登ってきたところで、さらに坂がきつくなる。先頭集団に残っている選手はみんな苦しそうな表情を浮かべながらペダルを踏み込んでいる。

 僕の脳裏に、去年のレースの光景がフラッシュバックした。


(みんなが苦しいときに、前に出る人が勝つ)


 その直感どおり、レースの展開が動き始めた。

 後方から自転車のギアを変える音が聞こえる。誰かがペースアップした――首を回して確認する暇もなく、真っ赤なジャージの選手が僕のすぐ横を抜き去っていった。

 浅木マダラさんだ。『最強市民レーサー』が勝負に出た。


「ここが勝負の分かれ目だな」


 そう言うが早いか、ヒカゲさんはペダルを強力に踏み込んで加速した。マダラさんの自転車の真後ろにつく。

 自分の後ろの位置を確保した選手の顔を、マダラさんはちらっと確認した。


「来たか、ヒカゲ」

「よう、また会ったな」

 

 強豪市民レーサーの二人は、これまでも複数のレースで優勝争いを繰り広げてきた。二人はお互いに顔見知りでもあり、最後の勝負どころに残った本命選手だということだ。


(学連のレースとは違うけど、市民レースにも本当に強い人がいる)


 ヒカゲさんもマダラさんも僕より十歳以上年上で、一般人なら運動能力が衰えていても不思議ではない年齢だ。しかし、ここまでのレース運びを見るかぎり、二人は学連レースのトップエースたちと競っても負けない実力を持っている。


(この二人と、もっと競っていたい)


 息と脚の苦しさは限界に近かったが、その思いが僕の脚を動かした。心拍数の上昇を感じながらダンシングで二人との距離を詰める。


「む――学連レースの深山シロウ」


 自らの加速アタックについてきた者の顔を確認するマダラさん。彼が僕の名前を知っていることには少し驚いた。

 光栄だと思いたいが、名前を知られているということは「僕がどういうタイプの選手か」を知られているということでもある。


「スプリンターは、ここでふるい落とす」


 マダラさんはさらに加速する。

 まだ余力があるのか、と僕は奥歯を噛み締めながらペダルを踏み込んだ。

 僕の自転車選手としての武器はゴール前での鋭い加速だ。

 わずかな時間だけ高いトップスピードを出せるスプリントができる代わりに、一定以上のスピードを長時間維持し続けることは苦手なタイプで、このタイプには「ゴール前の勝負に持ち込ませない」というのが単純ながら有効な対策だ。

 僕は今それをやられている。

 息が苦しく、サイコンに表示される僕の心拍数が過去に記録した最大心拍数に近づいている。


(あと少し――!)


 レースを走っているという高揚感が僕の脚を動かした。

 やがて、急に負荷が楽になる。御庭の坂を越えたのだ。


(ここからは平坦な直線になる)


 ペダルの回転数ケイデンスを落とし、息を整える。富士山五合目駐車場に至る最後の直線は、ラスト数百メートルの登りを除いて平坦路だ。

 つまり、僕向きのコースだ。勝機が見えた。


「おいおいマダラ、シロウちゃんついてきちゃってるぜ」


 先頭を行くマダラさんの背後から、おどけた調子でヒカゲさんが呼びかける。『ヒルクライム仙人』のスタミナは流石のもので、息はあがっていたものの、レース最終局面でも会話をする余裕を残しているらしい。

 マダラさんはそれに答えず無言でペダルを回していた。


「残ったのは四人か」


 周囲を見渡したヒカゲさんが誰にともなくつぶやく。


(四人?)


 それを聞いて初めて、僕は自分の背後にもう一台自転車がついてきていることに気づいた。マダラさんのアタックによる選抜セレクションに耐えた人が、もう一人。

 首を回して確認する――真っ黒なジャージの選手。知らない顔だ。


薩摩サツマニシキじゃねえか、学連レース上がりが二人になったな」


 ヒカゲさんはその選手の名前を知っていた。ニシキと呼ばれた選手のほうは無反応でペダルを回し、僕の横に並びかけてくる。

 横目でその顔を見ると、ヒカゲさんやマダラさんと比べてかなり若い。

 僕より数歳年上、二十代後半というところだろうか。脚だけでなく上半身も筋肉質なので、僕と同じスプリンタータイプの選手かもしれない。

 しかし、学連レースの強豪選手だったなら、過去の大会の記録などで名前を知っていそうなものだけど、ニシキという名前は初耳だった。


「KO大学の自転車部で、一度もエースになったことがないお前がここまで残るとは意外だねえ」


 無言のままのニシキに背を向けたヒカゲさんが、挑発するように言い捨てた。

 僕の隣を走る彼の両腕が、一瞬びくりと震えた。

 鋭い視線を前方に向けたまま無言。勝負前のエネルギー補給なのか、旅行用の歯磨き粉チューブのようなものをジャージの背中のポケットから取り出すと、フタを噛んで開け、ニシキという選手はそれを飲み干した。


(――?)


 なんとなくだが、僕はその時、ニシキという選手の行為に違和感を覚えた。

 その様子を見ていないヒカゲさんとマダラさんは軽口を叩きあっている。


「こりゃあ四人で仲良くスプリント勝負だな、マダラ?」

「少し口を閉じたらどうだ、ヒカゲ。スタミナの無駄だぞ」


 そう言いながら、先頭を行く二人は少しペースを落とした。僕たちは自転車四台で縦一列になり、最後の勝負をしかけるタイミングを見計らい始める。

 舗装路の外は岩と砂が広がる光景が続き、富士山は火山なんだと思い出せてくれた。

 ほどなくして、落石を避けるためにトンネルのような覆いがかかった直線が見えてくる。


(見えた、最後の直線だ)


 ゆるやかな登りになっているこの直線を超えると、標高2,300mの富士山五合目駐車場――ゴールだ。


(誰が最初に行く?)


 僕らは縦一列を解体して、横に広がりながらお互いの様子を観察し始めた。

 自転車レースは空気抵抗と戦う競技だ。

 前に出て風よけになってくれる選手がいれば、後ろにいる選手は体力を温存することができる。だからこの場合一番望ましい展開は、飛び出した選手の後ろをついていき、ゴールライン間際でかわして抜き去り、勝つことだ。


(前を行くと不利、でも、いつまでも後ろにいると勝てない)


 これが自転車レースのシンプルだけど奥深い駆け引きだ。

 誰が最初に行く。

 最後の直線を前に、僕らはペースを落としての睨み合い状態になった。


 ギュッ、キッ。


 強烈に踏み込まれたペダルにかかったパワーをチェーンが伝え、自転車の後輪を回転させる。タイヤがアスファルトにグリップする音。

 誰かが飛び出した――黒いジャージ!


(この人が最初に行くのか!?)


 最初にスプリントを開始したのはニシキだった。

 瞬時に反応したのがマダラさん。次に僕。僕のうしろにヒカゲさんという順になった。

 再び縦一列になって、僕らは全身全霊でペダルを回す。


(ニシキという人、やっぱりスプリンターか?)


 ぐんぐんと加速していく。サイコンの速度表示は時速50kmを超えた。

 ものすごいペースで、あっという間に心拍数が上がって苦しくなる。もう後ろを振り返っている余裕はないが、タイヤの音が少し遠くなった。ヒカゲさんが遅れたらしい。

 残り三人。


(――ペースが落ちない!)


 僕は焦りを感じた。

 最初に飛び出した人は空気抵抗をフルに受けるので、どこかでペースが緩むのが普通だ。その隙をついて一気に抜き去りたいが、ニシキはさらに速度を上げていく。

 やがて、僕のひとつ前を行くマダラさんもじわじわと遅れ始めた。


(ニシキに押し切られる)


 心がざわついた。

 『超新星スプリンター』と呼ばれたのは過去の話だけど、市民レースでも誰かにスプリント勝負で負けるのは嫌だった。

 瞬時に車体を傾けてマダラさんをかわし、全力で加速する。


「いいいいい」


 悲鳴をあげる大腿四頭筋を黙らせるために叫んだ。奥歯を噛み締めながら唸ると、こんな声が出てしまう。

 マダラさんを置き去りにして、加速、加速、加速。


「いいいいいい」 


 追いつく。

 僕はニシキと横並びになった。ゴールまであと100mもない。

 

(勝てる)


 と思った。

 その瞬間だった。


「えああああ!」


 ニシキが吠えた。再加速する。

 最初にスプリントを始めたのに、まだ脚力が残っていた。黒いジャージの背中が遠ざかっていく。その背中に書かれた『DTA』という三文字が、やけに印象に残った。

 右手を高く空に突き上げるニシキ。


『ゴール! 市民レース部門優勝は、薩摩ニシキ選手!』

 

 富士山五合目駐車場で待機していたレーススタッフが、高らかに勝者の名前を場内アナウンスで告げていた。

 僕は呆然としながら二位でゴールラインを通過する。

 完敗だった――ゴール直前でかわされて負けるのではなく、後ろについていながら追い抜けなかった、完全な力負け。

 苦い思いを抱えながら自転車を停め、息を整える。


(こんな強いスプリンターが無名だなんて――)


 心の中でそう呟きながらも、僕はなにか釈然としないものを感じていた。無名の選手に、ヒカゲさんもマダラさんも僕も、ローラーで押し潰されるようにして負けてしまった。

 それは普通なら、ちょっと考えにくいレース展開だ。

 なぜこんな展開になったのか――とても不快な疑問が、僕の胸を塗りつぶしていく。


(――あの時、ニシキは何を飲んでいたんだ?)

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