第五章 山田和臣

(1)美女との再会

 誰しもが経験していることだと思うけど、ときどき猛烈に何もしたくない気分になる。

 ぼんやりとSNSを眺めていたい。うとうととまどろんでいたい。難しいことを考えたくない。

 今日はそういう日だった。

 朝、目覚めて、今日の予定を思い浮かべる。

 大学は今日は全休。午前中は何もない。午後は昼頃から夕方までアルバイト。

 バイトは休めないにしても、せめてそれまではのんびりしよう。そう思い、とりあえず起きて着替えて歯を磨く。

 静かだ。前からこんなに静かだったっけ。があがいたときは……もう少し色んな音が鳴っていた気がする。

 ちょっとした同居人の気配。何気ないおはよう。そういったものが一切なくなった。

 でも本当は、それが普通なんだと思う。

 ここは学生の一人暮らしを基本に想定されたアパートだ。自分のような大きな楽器を入れる学生のために広めの間取りの部屋が多いが、みんなそこに一人で寝起きしている。

 二人で暮らしていた俺たちが、少し特殊だっただけ。

 なんとなくの朝の習慣でインスタントのコーヒーを淹れる。

 どこかの部屋からピアノの音色が聞こえる。。

 もうすぐ春休みのこの時期は、期末試験の練習をしている音が多い。進級試験を兼ねた学年末演奏テスト。何かしらの楽器を専攻している学生は皆、出席しなければいけない。もちろん自分も。そうじゃないと四年生になれない。

 ふと、テーブルの上に置きっぱなしにしていたイギリスの音楽院のパンフレットが目に入る。あのコンクールで優勝した後に、留学の推薦をもらえた学校。

 家族にも大学の先生にも、海外へ行くことを反対はされなかった。むしろ賛成されたくらいだ。自分自身も行ってみたいと思っている。だからおそらく秋には自分はイギリスにいると思う。

 何も問題はないのに、心の中の本当に小さな一部分が、ここから動くことを嫌がっている。思い浮かべるのは、があの顔だ。喧嘩というのかわからないけれど、気まずいまま疎遠になっている。


「……あ。間違えた」


 手元を見ると、コーヒーの入ったマグカップが二つ並んでいた。

 まだ脳内がときどき、があのいる生活が続いているものと勘違いしているみたいだ。




 俺とがあ……楽は、客観的に見ればいわゆるセフレというものだったのだろう。一度も付き合おうと言ったこともないし、まともにお互いが好きかどうかを確かめ合ったこともないまま、いつの間にかなんとなく、幼なじみという関係に体の関係がプラスされた。

 なのになぜかお互いにお互いのことが好きで、どうせ他に恋人もいないだろうという変な確信もあった気がする。よくよく考えるとおかしな同居生活だった。

 俺は居心地が良いと思っていたけれど、男友達や幼なじみという名前だけでは片づけられない関係性のままの生活は、見えない場所がぐらぐらしていて本当は崩れやすくて。

 そんなぐらつきに無理をしつつも一緒にいてくれたのは、があのほうだ。

 自分のやりたいようにやってしまう俺に対して、大雑把ながあは平気な顔で生活を合わせてくれていたけど、同じ空間にいる以上、俺だって彼が居心地の良いように合わせるべきだったんだ。

 実家にいるとき、親や妹たちと暮らしていてそんなこと、考えたこともなかった。

 結局みんな、俺に優しかったってことなんだろう。とんだ甘ったれの長男だ。


「山田くん、妹さん来てるよ」

「えっ」


 考えごとをしながらバイト先の店のバックヤードで作業をしていると、社員さんに話しかけられた。愛莉は滅多にここには来ない。美蘭か。あの子は他の店員に顔を覚えられているレベルでここの常連だ。


「シフト、あと十分で上がりでしょ。キリいいところで終わって妹さんと喋ってきていいよ」


 そういわれても、わざわざこの場で妹と話したいこともないけどなあ。

 とか思いつつも、タイムカードを切った俺は帰り支度を整えて売り場へ向かった。

 そこそこ大きな、アニメグッズ専門店。美蘭は奥のほうのCD・DVD/BDコーナーにいた。


「美蘭」

「あ、お兄ちゃん、いたの?」


 真剣に棚の商品を吟味していた妹が、長いポニーテールを揺らして振り向いた。


「いたよ。なんか買うの?」

「ううん。見てただけ。学年模試終わったからウインドウショッピングしに来た」


 テスト明けにウインドウショッピングするにしても、この店を選ぶところが美蘭らしいなと思う。もう一人の妹の愛莉なら服を見に行くような気がする。

 自分ならテストが終わったらどこに行くだろう。あまり出かけない気がする。たぶん家でごろごろしてゲームでもするかな。


「お兄ちゃん、もうバイト終わったの?」

「うん。もう帰る。欲しいものあったら買ってあげるけど」

「そういえば、スタッフさんは割引価格購入できるんだよね」

「そ。安く買えますよお嬢さん」

「う~、迷うけど……今日はいいや。私も帰ろ」


 欲望よりも理性が勝ったらしい。

 二人で店を出る。冬の空は暗くなるのが早い。一応美蘭を駅まで送っていくことにした。

 街灯が照らす歩道を並んで歩く。


「最近どう? 広瀬くんと仲良くやってる?」


 少し前に妹と付き合い始めたという男の子について尋ねてみると、照れ隠しなのか何なのか、不自然な無表情で首を縦に振っている。その動きがちょっと面白くてふふっと笑うと、睨まれてしまった。


「お兄ちゃんこそ、最近どうなの。あんまり帰ってこないからお父さん寂しがってたよ。お兄ちゃんの代わりに圭都くんが身代わりになって話し相手してる」

「それは単純にお父さんが圭ちゃんのこと気に入ってるだけじゃん。昔からどっちが息子だよってくらい可愛がってたし」


 俺は親に言わせれば少々変わり者の子どもだったらしい。反抗期こそなかったものの、があと一緒に突然髪を染めたりして困惑させた実績もある。

 真面目で品行方正な圭ちゃんは生徒会長でもやっていそうなタイプの男子で(というか実際に高校時代は生徒会長をやっていたらしい)、うちの両親が「圭都くんはいい子だ」を連呼して可愛がるのもうなずける。もちろん、俺が実の息子なのに蔑ろにされているとかではなく、俺は俺で十分愛されて育ったこともわかっているけど。


「楽くんと鉢合わせするのを心配してるなら、あれだよ。楽くんそんなにこっち帰ってこないから」

「ああ、うん……」


 美蘭は繊細な話題にもこうやってさばさばと切り込んでいく節がある。友だちに嫌われたりしないだろうかと心配にはなるものの、個人的には変に言いにくそうにされるよりはありがたい。

 確かにがあとはあまり会いたくない。喧嘩をしたのなら謝ればいいけれど、自分たちはふわっと解散したから。余計にどんな顔で「久しぶり」と言えばいいのかわからない。


「美蘭はさ、普段どうしてる? 例えば皐月と……気まずいときとか」

「えー? そんなの状況によるけど。でもまあ、自分が原因で気まずくなってるならさっさと謝るし、皐月が原因なら皐月が謝るまで待つか、早く謝れよって怒る。どっちが原因でもないなら、気まずいとか気にしないで普通に話しかける」

「……ある意味単純でいいよね、美蘭は」

「人を単細胞呼ばわりしないでくれる?」


 単細胞とは言ってない。




 美蘭と駅で別れてアパートに帰ると、部屋のドアに張り紙がしてあった。


『鍋パーティーしてます。良かったら来てください 204号室 掘』


 204号室。隣の部屋だ。ほりさん……中に住んでいる人とはたまに挨拶するくらいしか面識がない。よく画材を持っているのを見かけるから美術学科の人だと思う。

 鍋かあ。そういえば今年の冬は一度も食べていない。今食べておかないと、あっという間に春になって機会を失うかもしれない。

 そんなことを思った俺は、自分の部屋には入らず隣の部屋のインターホンを押した。

 数秒待っていると、中からパタパタと足音がして内側からドアが開く。

 髪を一つに結んだ、小柄な女性が立っていた。


「えっと、203の山田です。鍋の張り紙見て、来ました」

「あっ、それはどうも! 堀です。どうぞどうぞ、中入ってください。他にも何人か来てくれてるんで」


 実家から一人で食べきれない量の野菜届いちゃって。せっかくだからお肉とか自分で具材追加で買って、鍋にすることにしたんですけど、誘える友達がいなくて。

 そう話す彼女に続いて部屋の中にお邪魔すると、俺の部屋とほぼ同じ間取りのそこには、家主以外に三人、先客がいた。

 俺の部屋の反対側の隣人である202号室の高科たかしな幸人ゆきとさん。この人は同じ音楽学科の先輩だから一応知っている。それから、もう一つ向こうの201号室に住む、名前はよく知らないけど写真学科の男子。そしてもう一人、はっと目を引くような美人の女性。

 彼女と目が合った瞬間、数か月前の記憶が蘇る。この子、知ってる。向こうも俺を見て目を見開いている。

 一瞬かたまっていると、ぺこりと頭を下げられた。


「お久しぶりです」

「あ、はい。お久しぶりです」


 名前を頭をフル回転させて何とか思い出す。

 があの同級生。彼が確か……アオイ、と呼んでいた女の子だ。

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