(4)甘える、甘やかす

 家に帰ってからも、私は菊池さんの出演作品をチェックし、過去のブログ記事なんかを漁りまくった。

 舞台を中心に活躍している俳優さんだから、ドラマや映画みたいに簡単にネットで過去の出演作を見られるわけではない。それでも配信サイトで公開されているものは課金するっきゃない。……部活が忙いしバイトもしていないから、時間もお金も可能な範囲内でしか使えないけど。

 そしてそんな私から広瀬は離れていくかもなあ、なんて薄々思っていた。

 彼は人並みにマンガを読んだり流行っているアニメやドラマを見たりはしているようだけれど、私みたいなハマるととことん情報収集して追いかけるオタクタイプの人間ではない。

 推しにのめり込む私を見て幻滅する可能性あり。まあそれならそれで厄介払いができていいか、と呑気に考えていたのだけれど。


「菊池さん、かっけ~……」


 広瀬が私と一緒にテレビ画面を見ながら悩まし気にため息をつく。

 どういうわけか、広瀬まで菊池樹にハマっていた。

 ちなみに場所は、お兄ちゃんのアパート。「菊池樹が出演している作品の映像を手に入れたから、見たかったらウチおいで」とお兄ちゃんに言われたため、喜び勇んで部活が休みの日曜にのこのこやって来た次第。

 菊池さんは男性ファッション誌のモデルも務めているらしく、それを見た広瀬は役者というよりもモデルとしての菊池樹をチェックし始めた。要するに私とは違うベクトルから彼のファンになってしまったのである。

 ファン仲間ができたのならそれはそれでいい。ついでだから広瀬も誘ってお兄ちゃんの家にお邪魔することにした。皐月には「嫌がっておいて結局仲良しか」と突っ込まれたけど。


「菊池さん、笑顔が素敵……」

「スタイル良すぎる……」


 映像にくぎ付けになっている私たちを見て、お兄ちゃんはピアノにもたれかかって呆れたように笑った。


「二人とも、そんなに菊池くんのこと好きなんだ……」

「いや、だって! かっこよくない!? というか、お兄ちゃんこの映像どうしたの? 市販じゃないよねこれ!?」

「オレもそう思った! どうしたんすか、これ」


 お兄ちゃんがわざわざ家に招いて見せてくれた映像は、私が彼の作品履歴を隅から隅までチェックしても見当たらなかったタイトルの短編映画だ。

 いかにも予算がなさそうで安っぽさに溢れた映像だけど、話はけっこう面白いし主演の菊池さんは相変わらずきらきらと画面の中で輝いている。

 お兄ちゃん、これをどこで手に入れたんだろう。


「実はさ、菊池くん、うちの大学の後輩だったんだよね」

「……え?」

「こないだの劇のチケット譲ってくれた例の友だちに妹が菊池樹のファンになったっぽいって話したら、菊池くん演劇学科にいるぞって。試しに会ってみたら仲良くなった。それで授業で作った自主製作映画のディスク貸してくれた。それがこれ」

「お兄ちゃん、菊池さんと会ったの!?」

「ほ、本人に会ったんすか!?」


 のけぞる勢いで私と広瀬が驚いているっていうのに、お兄ちゃんは大したことないように首を縦に振る。


「俺は学科が違うから知り合いあんまりいないけど、演劇科のほうは裏方志望だけじゃなくて俳優の卵とかも多いから。ちょこちょこ事務所に所属してたりプロとして仕事してる学生もいるらしいよ」

「へ、へえ~……」


 意外と世界は狭いもんだな……。少し冷静になりつつ隣を見ると、広瀬はまだちょっと混乱ぎみだった。


「広瀬、そろそろ落ち着きなよ。日本の東京近辺に住んでるんだから、知り合いをたどれば芸能人に行きつくこともあるって」

「そんなん言われてもなあ。先輩はなんだかんだで肝が据わってんだって。和臣さんが有名人だから……」

「広瀬くんが思ってるほど、別に俺有名じゃないからね」


 自称・一般男子大学生のお兄ちゃんは小さく肩をすくめた。





「広瀬、無理してない? ごめんね」


 お兄ちゃんのアパートからの帰り道、駅のホームで電車を待ちながら口を開いた。


「? なんの話?」


 広瀬がきょとんと目を丸くして少し背が低い私を見下ろす。

 前から薄々思っていたのだ。悪いな、と。


「私に付き合って菊池さんの話に乗ってくれてるところ、あるんじゃないかなって」

「ええ? そんなこともないけど。実際、あの人かっこいいもんなあ。あとファッションセンスがいいんだ。インスタ見てみてよ、私服の紹介とかよくしてくれてて、見ていて楽しいから……って、先輩ならもう見てるか」

「あはは、見てる。私服のセンスいいの、わかる」


 小さく笑うと、広瀬も笑う。そういえば、今日は学校が休みだからお互いに私服だ。制服姿じゃない広瀬は普段よりも大人っぽい雰囲気がして、新鮮な感じがする。


「だからさ、無理はしてない。オレはオレで菊池さんのファンだし。まあでも、たまには先輩と他の話もしたいよねえ」

「他の話かあ……」


 言われてみれば、私はくっつき虫のような広瀬を追い払わなくなった代わりに彼と菊池トークをするようになったけれど、それ以外の話題の雑談はあまりしていない。

 だから、彼と一緒にいる時間のわりには彼のことを知らないし、向こうも私のことはあまり知らないだろう。


「じゃあ、広瀬の好きな食べ物」

「カレー」

「小学生じゃん」

「高校生がカレー好きでもよくない? じゃあ先輩カレー嫌いなの?」

「好きだね、うん。私の負けだ」


 何の話だ、これ。


「先輩は?」

「私、好き嫌いないから何でも食べる」

「ええっ、甘いのも辛いのも苦いのも、野菜とかも?」

「なんでも来いだよ。お兄ちゃんも愛莉も好き嫌い激しいから、二人が食べないものを食べるのが私担当」

「苦労してんだね」

「はは……」


 お兄ちゃんは意外とマイペース、愛莉は末っ子らしくわがまま。

 皐月の家のほうは一番上の圭都くんがしっかりしているけど、うちはそうでもないから、真ん中の私もそれなりに頑張ってる、つもり。まあ、なんだかんだでお兄ちゃんに甘えてるときもあるけど。


「オレ、十一歳年上の兄ちゃんが一人いる」

「あー、年が離れてるから甘やかしてもらってるやつだ」

「うん。面倒見てもらうの大好き。先輩もなんだかんだでオレのこと甘やかしてくれるから好き」

「そ、そんなに甘やかしてないし」


 脈絡なく不意打ちで好きと言われると心臓に悪い。体温が少し上がった気がする。

 そんな話をしているうちに、電車が来たから乗る。車両の中は結構混んでいた。


「広瀬、そこの席空いてるよ。座れば?」

「いやいやいや、そこは先輩が座るべき」

「だって広瀬のほうが駅遠いし乗ってる時間長いから、立ってると疲れる……あ、」


 全然関係ない人が座っちゃった。

 結局二人で入口付近に並んで立つ。広瀬が不満げに息を吐く。


「甘やかされるの好きって言ったけど、あんまりやられるとなんか違う」

「え?」


 電車が大きく揺れて、私の体がぐらつく。バランスを崩して倒れそうになっている私の腕を広瀬がつかんだ。

 目線を上げて彼の顔を見ると、への字になっていた口がふっと緩む。


「ありがと……あ、これ、もしかして広瀬に甘やかされている……?」


 先輩なのに……というよりも、帰宅部の広瀬と違って日々部活で体幹を鍛えているのに私だけぐらぐらしてる、という悔しさがあるような……。


「うーん、どっちかというと優しくしてるつもり」


 違いがよくわからないのですが。

 黙っていると、もう機嫌を直したのか広瀬は妙に楽しそうに私をそのまま引き寄せた。


「!」

「あと、やっぱ結局、甘えてるかなあ」


 ぎゅっと腕ごと体を密着させられる。近い……。


「こうしても怒んない先輩に、甘えてる」


 そっか、普通は怒るのか。確かに広瀬と初めて会ったときは、手を離せと怒った記憶がある。

 今は、多少戸惑うけど怒る気にはならない。

 付き合ってもないのにこの距離感を許すのって、甘やかしてんのかな。いや、そうじゃなくて……。


「広瀬」

「はい」

「最近、付き合ってって言わなくなったね」

「えっ、付き合ってくれんの?」

「いや、それは……ごめんなさい?」

「ふっ……なぜ疑問形」


 広瀬の笑いにつられて私も口元が緩みかける。


「まあさ、今の状態も悪くないかなあとか思って。どうせ先輩、そうやって断るし」


 本当は、ごめんじゃなくていいよ、と言いたいのかもしれない。

 でも、よくわからない。考えれば考えるほど、頭の中はこんがらがる。

 ステージの上の菊池樹を目にしたとき、この人を好きだという衝撃がずどんと胸を貫いた。私はああいうのが恋に落ちることだと思う。大橋くんのときもそうだった。

 広瀬はそういうのとは違う。少しずつ私のパーソナルスペースを侵食して、気づかないうちに私との彼との間に流れる空気が親密なものに塗り替えられていく。

 あの突然落下する衝撃がどこにもない。


 これはいったい、何なんだろう。

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