(8)好き同士なら、いつかきっと

 次の日から、カズは家でピアノを弾かなくなった。おれが「むかつく」と言ったからだと思う。 相変わらず忙しそうではあるけれど、家にいる時間が少し増えた。セックスの回数も増えた。おれが「寂しい」と言ったからだと思う。

 おれは、前よりも頻度は減ったもののまだ夜になると飲み歩いたりしている。おれがいないあいだにピアノの練習でもしていてくれればいい。それが彼にとっての学業であり当然の生活なのだから。

 だけど、これじゃあいけないのも本当はわかっている。


「なあ、カズ」


 二人ともが休日の午後、事後にベッドの中でまどろみつつ話しかけると、カズは気だるげにまぶたを上げた。


「もうこういうことするの、やめたい」

「……え」

「おれが寂しがってたから、一緒に寝てくれてたんだろ。ありがと」

「……」

「でもおれ最近、カズとセックスしても寂しいままだ」

「……そう」


 カズは、ふっと肩の荷が下りたように息を吐いた。それだけのことがおれの胸をちくりと刺す。でももう、おかしくなっていたものを色々と正すって決めたから。


「ピアノ弾いてよ」

「……でも」

「ごめん。弾くなっていう、つもりじゃなかった。好きなときにピアノ弾いてくれていい。……もしよかったら、今聴きたい」


 カズが迷うようなそぶりを見せたけれど、結局「何聴きたい?」と尋ねてきた。「なんでもいい」と答えると、困ったやつだなあと笑われた。

 確かにおれは、困ったやつだと思う。

 年下の妹がいるくせに年下気質だし自分勝手だし甘ったれだ。我慢とかもあまりしないし、駄々をこねてカズがなだめてくれることもしょっちゅうだ。先日、むかつくとおれがわめいてカズにキスされたときのように。

 外は小雨で、窓ガラスを水滴が点々と濡らしている。

 カズが弾いてくれたのは、そんな雨の日らしい、鬱々しているけど温もりのある、優しい曲だった。前にも聴いたことがある。たぶん、カズが好きなショパンという人の曲。

 おれがレポートに追われるようにカズは日々、好みに関わらず弾かなきゃならない課題曲がある。それを彼は何でも弾きこなす。

 だけど好きな作曲家の曲を弾いているときが一番優しい音が出るのを、おれは知っている。

 子どもの頃によくやったように、地べたにしゃがみ込んで背中ををピアノの脚に預けてみた。こうして体の一部をピアノにくっつけてもたれると、優しい振動がおれの中に入って浸透していく感覚がする。これが心地よくて、幼いおれはカズの練習中にこうやってよくうとうとしていた。

 おれもカズみたいに演奏してみたいと思ったことはない。だけど、ピアノを演奏するカズのそばにいるのは好きだった。


「カズ、」


 頭上を振り仰いで彼を見ると演奏する指が止まり、音色が消える。


「おれ、カズのこと、好きだ」

「……俺も、があが好きだよ」

「でもそれ以上に、ピアノが好きだよな」


 カズはゆっくりと手を首の後ろに当てておれを見た。


「どっちのほうが……とか、好きの大きさを比べたことはない」

「おれは、自分とピアノをよく比べる。ときどき、カズが音楽なんかやっていなければよかったって思うときがある。ピアノがあるからカズは普通じゃなくて、有名になったりして、おれの知らない人になってくんだって」


 でも本当はわかっている。きっとカズからピアノをはぎ取ったって、カズは知らない人のままだ。他人である以上、すべてを知って理解することなんかできないんだから。そうしたらおれはたぶん、ピアノの代わりにカズの別の何かにむかついて嫉妬するのだろう。


「おれ、この部屋、出ていこうと思う」


 おれを見つめる瞳がゆらりと揺れた。それを目にして口にしたことを撤回してしまわないように、目を閉じた。

カズと住むのがいやなわけじゃない。ピアノや音楽や、おれにはよくわからない芸術が身近にありすぎる、この場所にいたくないだけ。でも、ここはとてもカズに似合っていると思う。だからおれだけがいなくなればいい。


「それは……俺がピアノやめたら、があは出ていかない?」

「……やめらんないだろ、ピアノ」


 現実問題として音大生の彼がピアノをやめることは大学をやめることだし、将来の道をひとつ諦めることになる。それに、おれは彼の好きなものも特技も個性も捨ててほしいとは思っていないのだ。こんなに心がぐちゃぐちゃになって出ていこうとまでしているのに、彼にそのままでいてほしいとも願っている。


「おれがめちゃくちゃ言ってるだけだから、ごめん。絶対やめないで」

「……俺こそ、ごめん」

「カズのピアノ、むかつくのに好きだから困る」


 ぽろろろ、と。

 カズがみじろぎしたはずみにぶつかった鍵盤が、意味のない音を鳴らした。






 大学への通学はカズと住んでいたアパートのほうが距離が近いとはいえ、実家からも時間はかかるが一応通える。

 迷ったおれは、とりあえず一度実家に戻ることにした。けれど、ある程度準備が整えばまた出ていく。アオイの暮らすマンションに空き部屋があるらしい。そこも含めて大学近くに住まいを求めて不動産屋に相談だ。


「あの……お兄」


 荷物と一緒に帰ってきて部屋で一息ついていると、皐月が恐る恐るといった態度で顔をのぞかせた。


「……おかえり」

「おー。ただいま」


 なぜか妙に元気がない皐月は、部屋の中に入ってくるとカーペットの上であぐらをかくおれの隣にちょこんと座った。


「なんだよ、神妙な顔して」

「いや、えっと……。お兄が帰ってきたの、わたしのせいだったら、ごめんなさい」

「は? なんで皐月?」


 そう言ってから、彼女が何を気にしているのか察した。

 無理しないで。

 あの部屋にいるお兄はちょっとだけ苦しそうに見える。

 以前、おれに言った言葉が原因でおれがカズとのルームシェアを解消したと思っているのかもしれない。

 確かにあれは、ひとつのきっかけだったとは思う。でも、あれがすべてではない。前から無意識に抱えていたものを、彼女が言葉にして気づかせてくれただけだ。


「皐月はなんも悪くねえよ」


 おれがそう言うと、皐月はきまり悪そうに表情を歪めて顔を三角座りした膝にうずめた。

 それと同時にドアをノックする音がした。返事をすると相手は兄貴だった。


「楽、おかえり。母さんが落ち着いたら風呂入れって。皐月は何してんの」

「……反省してる」

「だからお前、別に悪くないって」


 皐月は顔を見せないまま、ふるふると首を横にふった。きっと彼女が欲しいのは「悪くない」という言葉ではないのだろう。でも、それ以上のことをおれは言えない。関係ないとかは、口にできない。おれは皐月の言葉も含めた様々なものを抱え込んだ結果、自分で決めてここにいる。

 皐月は無関係じゃないけど、悪くもない。それだけだ。


「……俺にはなんの話かわかんないけどさ、」


 兄貴が優しい声音とともに、おれと皐月の頭をぽんと叩いた。


「なんか、大変だったんだな」

「なんかってなんだよ、無責任だな」


 笑いながらも、兄貴の声を聞いていると瞳の表面に涙がにじんでくる。

 おれの大学生活は、カズと一緒に楽しく過ぎるものだと思っていた。お互いが就職してからのことは想像がつかないけれど、学生のうちは仲良く同じ部屋でやっていくものだと。

 なのに、何やってるんだろう。どうしてカズをさんざん困らせたあげく、ひとりだけここに戻ってきたんだろう。

 どうして。たぶん。


「不安だったんだ……」


 目じりからあふれた涙が頬を伝う感触が気持ち悪い。


「カズと一緒にいると安心するのに、それ以上に不安になるんだ」


 どこにも行ってほしくないからそばにいたのに、そばにいるほど彼がどこかに行ってしまう道のりがはっきりと見えてしまう気がして。怖くて、いらいらした。

 大学生にもなって家族の前で泣く姿を見せるのが情けなくて、皐月みたいに顔を膝で隠した。

 丸まったおれの背中に、大きくて暖かい手が添えられる。これは兄貴の手。

 震えている肩に、小さくて柔らかい手が乗せられる。こっちは皐月の手。


「お兄は……楽にいは、今でも好き?」


 皐月がささやくように問いかける。何をかは確認しなくてもわかる。

 額を膝小僧に押し付けたまま首を縦にふった。離れたからって嫌いになったわけじゃない。カズが、好きだ。


「和臣くんだってお兄のこと、好きだよね」

「……」


 ピアノよりも好きだとは言ってくれなかったけど、確かにカズは口にしてくれた。

 があが好きだよ、と。それを信じていいのならば、そうなのだろう。

 肩に置かれた手があやすようにぽんぽんと動く。


「お互いに好きなら、色々あっても大丈夫。らしいよ」

「……らしいって、何」

「愛莉がそう言ってた。わたしと美蘭は愛莉の言う通り、色々あっても大丈夫だった」


 おれは、その「色々」を知らない。だけどそれは親友同士の間に起きたことであって。おれたちは……。


「友情でも恋愛でも同じだよ。好き同士だったら最後は大丈夫なんだよ、きっと。ね、圭にい」


 兄貴は何も答えない代わりに、背中を優しくさすってくれる。皐月の言う通りだ、というように。

 大丈夫だろうか。大丈夫だったらいいのに。

 今はこんなでも、少し時間が経てば、少しのあいだ距離を置けば。

 元通りじゃなくてもいいから、またカズと何気ない日常を過ごせるような。

 うまく描けない未来のことを考えながら嗚咽を漏らす。背中と肩に感じる人肌のぬくもりが、おれからさらに涙を絞り出させようとする。こんなときに両隣にいてくれるせいだ。

 だけどいてくれて良かった。いてくれなければきっと、もっとつらかったから。

 安心して涙の雫を膝や床に落としながらおれは、兄と妹の優しさに包まれたまま、しばらくうずくまっていた。





第三章「如月楽」終

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