(5)猫かぶりの崩壊

 あたしの冷えた心が戻らなくたって、時間は過ぎるしやらなきゃいけないことは山ほどある。


 別に圭都くんが今すぐ結婚するとかそういうわけでもないけれど、今までにない変な胸のしめつけがあたしを苦しい気持ちにさせる。だからあたしは逃げるように毎日勉強した。他のことに集中していたらなんだかちょっとだけ楽な気がする。そしてあっという間に時間は過ぎて、7月の模試に加えて期末テスト。

 学校の中を教室だったり図書室だったりと場所を変えて、集中力を保つ。図書室で勉強しながらふと窓の外を見ると、グラウンドでは野球部やサッカー部、陸上部なんかが練習している様子が見える。

 あたしは帰宅部だけど、部活やってる人はもっと忙しくて大変だろうなあ。来週にはテスト直前になるから部活動も原則停止になる。そしたらゆーこちゃんと勉強しよう。

 そう思って、再びひとりでテスト勉強に戻る。


 そうこうしているうちにその来週になり、ゆーこちゃんとの勉強会も無事行われて、模試も終わる。

 そしてやっと定期テストも終わった放課後。

 他にすることもなくてずっと勉強していたあたしは結構手ごたえがあって満足していた。

 圭都くんを日曜日に起こす役目は続けていたけれど、さすがにテスト前は彼の部屋に入り浸ったりせずに自分の部屋で大人しくしていたから正直圭都くん不足だ。

 次の日曜は思いっきりくっついていよう。……じゃないと、まだ何かが変なあたしの心がもっと変になってしまいそう。


「あっ、山田さーん」


 急に声をかけられて顔を上げると、クラス委員長の女子があたしに色紙を差し出した。


「なあに、これ?」

「あのね、担任が今度結婚すんだって。だからクラス全員のお祝いメッセージを集めてるの。山田さんも空いてるトコに書いてくれる?」


 結婚。今一番聞きたくないワードに、ひゅっと体が硬くなる。なんで今。先生、なんで今なのさ……?


「……山田さん?」

「まだ若いのに……25歳で結婚は早いよ、早まってるよ……!」

「ええ? い、いやでもなんか、学生時代から大分長く付き合ってたらしい、よ……?」


 だから早くないってか。知らんどうでもいい。

 様子がおかしいあたしに戸惑っている委員長から色紙を受け取ると、あたしは心のこもっていない「おめでとうございます」を書きなぐった。





 テストの結果は、模試も期末も前回よりかなり良かった。やっぱり圭都くんの言う通りだ。あたしはできると思えば無理じゃない。塾にも行かなくたって、自分で工夫して頑張ればできる。

 だけど頑張っても何しても無理なことだってある。

 あたしはどうあがいても15歳だし、念じたからって早く年を取れるわけでもない。圭都くんとの年の差は永遠に10歳だ。

 あたしが一つ大人になれば、圭都くんも一つ大人になる。いつまで経っても距離は縮まらない。


「圭都くーん、おはよー」


 いつもより力ない声で日曜の朝を知らせに行くと、彼は相変わらずベッドの中でむにゃむにゃと中途半端な返事をした。

 すっぽりかぶった毛布からはみ出ている頭。寝ぐせがついてる。可愛い。


「……圭都くん」

「うん……起きる……」


 あーあ、やっぱりこの人が好きだ。抱きつきたい。

 いつも抑えていた欲に負けて、あたしは彼の毛布を引っ張る。さすがに怒られるかもしれないと思いながらそこにもぐりこむけれど、圭都くんは何も言わなかった。

 同じベッドの上にいても、同じ毛布の中にいても、何とも思われない程度の存在。


「そういや、あっちゃんテストどうだった?」


 目の前の喉ぼとけが上下するのを見つめながら、あたしは口を開く。


「良かった。全教科90点以上だった」

「すごいじゃん」

「……」

「良かったのに、元気ない?」

「……そんなことないけど」


 喉のあたりに引っかかっているもやもやをどう説明すればいいのかわからない。だから黙るしかない。

 圭都くんが、上半身を少し起こして頬杖をつき、困った顔であたしを見る。


「どうしたらあっちゃん元気出るかなあ?」

「元気だよ」

「嘘。あっ、そうだ。じゃあテスト頑張ったごほうび、なんかあげる」

「ごほうび……?」


 圭都くんが明るく笑う。


「そう。何がいい? 物でもいいし、どっか出かけるのでもいいし、あっちゃんが元気になることならなんでも」


 やめてほしい。今そんな「なんでも」なんて甘やかすようなことを言わないでほしい。崩れかけている我慢が完全に崩壊してしまう。


「けーくん」

「うん?」


 たまにしか呼ばない呼び方をすると、圭都くんの肩がびくりと揺れる。なぜかその彼の動きがスローモーションに見えた。あたしの口も心なしか、ゆっくりとしか動かない。


「あたし、けーくんがほしい。ごほうびくれるんだったら、あたしと結婚して」


 圭都くんの目が珍しいものを見るように大きく見開かれた。


「あっちゃん……?」


 困惑した彼の声を聞いて我に返る。自分は、何を言ってしまったんだろう。

 慌ててベッドから這い出て立ち上がると、圭都くんは半分寝ころんだままぽかんと口を開けて、あたしを見ていた。

 その表情を見ていると、一気に後悔が押し寄せる。


「ごめんなさい、冗談。あたし、お菓子がほしいな。圭都くんの会社のが食べたい」


 無理をして顔に笑顔を貼り付けて取り繕うように安っぽいごほうびを所望してみる。手遅れだってわかってるけど。

 怖くて彼の顔が見られない。


「今日は、帰るね」


 うつむいたままそう言って圭都くんの部屋を出る。廊下からドアを閉めるまで、彼は何も言わずに黙っていた。

 あたしのバカ。無害な猫が、猫じゃなくなってしまった。

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