3. Soda

 彼のスタジオに足を運ぶ回数は、だんだんと増えていった。

 月に1回、2週間に1回、週に1回、3日に一度、2日に一度。

 怪しさ満点のはずだったスタジオは、いつの間にか私達の秘密基地のようになっていた。


 たくさんのバラで撮影をした時の、彼の勇気は忘れもしない。

 口下手で、カメラを持つ時以外は挙動不審な彼が、自ら私に想いを伝えた。

 私もそれがきっかけで自分の気持ちを直視できて、私達はモデルとカメラマンの関係を超えた。


「今日は、これを、使って、欲しいんだ」

「何が入ってるの?」

「今は、まだ、開けないで」


 黄色い小箱を持たされて、「両手で包み込むように」とか「左手に乗せて、小首を傾げて箱を見つめて」など、いつものように流暢な指示が出されていく。30枚ほど撮ってから、「箱、開けてみて」と言われた。

 顔を出したのは、小さな輝きを纏ったリング。


「これ……」

「嵌めて、もらえますか」


 20歳の私には、もったいないくらいの輝き。

 そして彼は、こんな大事な時でさえ、すぐに言葉にできなかったようだった。その代わりなのか、カメラを置いた彼は私に駆け寄り、箱ごと抱き締めた。

 「好きだ」とも、「付き合って欲しい」とも、「結婚してくれ」ともすぐに言えない、何とも頼りない人だけれど、私の“世界”を開いてくれた大事な人。彼の長い前髪が額に触れる。この感触を、これからもずっと欲しい。私にだけ、この感触を。


「嵌めて、もらえますか」

「……腕解いてもらえないと、嵌められないよ」


 彼は慌てて私を解放した。左手の薬指にそっと嵌められたリングは、嵌めたのが初めてだとは思えないくらいによく馴染んでいた。


「君には、ヒマワリと指輪が、よく似合う」

「ありがとう…………」


 メイクが崩れるのもお構いなしに、涙がどんどん流れてきた。私の胸は史上最大級に高鳴った。強炭酸のような、形容しがたいほどの圧倒的な刺激が私を包み込んでいった。

 これから、彼と生きていく。

 そう誓った私の顔は、メイクが崩れてひどい有様だったけれど、今までで一番良い笑顔をしていた。



 彼が私の親に頼み込んで頼み込んで、学生結婚が叶った。自由を求めて上京した私が見つけた相手を、両親は一切批判しなかった。揉めたのは時期のことだけだった。そういう意味では、両親は何だかんだで私の全てを抑圧していたわけではなかったのだ、と今更ながら悟った。


 周囲に学生結婚なんてした人は誰もいなくて、かなり珍しがられた。サークルや飲み会にはあまり参加できなくなったが、それでも良いと思えるほどに彼を愛していた。

 私が大学4年生になったら、今後のことを話し合うつもりだった。互いの仕事をどうするか。家族形態をどうするのか。私も、真剣に考えて答えを出すつもりだった。

 ——ある編集者に、声をかけられるまでは。



 あるファッション誌の編集者に声をかけられたのは、大学3年生の終わりのことだった。

 夫の個展を見た彼女は、私のモデルとしての素質を評価してくれたようだった。彼女に言われるがままにスタジオに行けば、そこは夫のスタジオの10倍はありそうな大きな所で。

 桁違いのスタッフ、桁違いの撮影セット、桁違いの衣装、桁違いのモデル。

 ただただ圧倒されていたけれど、普段の夫の矢継ぎ早なポージング指示に慣れていたおかげで、私はその有名なファッション誌に突如掲載されることになった。

 そしてネット社会の潮流に呑まれ、私はあれよあれよという間に、自分のSNSアカウントに公式マークがつくほどのモデルになっていたのだ。


 夫は私の成功を、自分のことのように喜んだ。彼もまた、私を発掘したカメラマンとして、急速に知名度を上げていた。有名アイドルグループのCDのジャケット写真撮影の仕事なども、度々舞い込むようになっていた。

 私も夫も、幸せの絶頂にいた。

 仕事で成功を収め、愛する人と共に暮らす生活。自分が世界一幸せだと信じて疑わなかったあの頃。

 今思えば、こんな絶頂期だったからこそ、真剣に話し合うべきだったと思っている。


 まだ21歳で、有名になった事実に浮き足立ち、夫と同じくらいに仕事を愛するようになっていた私。大学という小さな“世界”ではなくて、きらびやかな大人達のいる“世界”に足を踏み入れ、それが広がっていくことが嬉しくて仕方なかった私。

 一方、28歳で、仕事とプライベートの比重を決めようとしていた彼。一人っ子だったために、子どもにはきょうだいを作らせてあげたいと思っていた彼。晩産だった母のために、いち早く孫を見せてあげたいと願っていた彼。



 開栓した炭酸水は、そのままにしておけば、炭酸が抜けてしまう。

 そんなこと、常識なのに。


 いつの間にか、互いに恋の刺激がなくなった。

 愛に慣れ、家は私達の“世界”でなく、ただの日常になった。

 今まで色んなことが胸を熱くする刺激だったのに、ただ過ぎゆく時間の中で、それらはパチンパチンとぜていく。



 炭酸がすっかり抜けて水になってしまうまでに、そう時間はかからなかった。


 だけど、貰いすぎた幸せを1人で返していくには、長い長い時間が必要だった。

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