第6話 土曜・メガネクリアー


 彼女はまた、髪を切った。短い襟足から伸びるうなじが、ひどく無防備に見える。

 サイドの髪を耳にかけなおし、下唇を半分だけ噛む。下唇の左右どちらか半分だけを器用に噛むのが、原稿をチェックする際の彼女の癖だ。真剣な眼差しで隈無く検めながら、時たま思い出したようにそれを行う。左右交互に。

 原稿をめくる時、耳たぶから垂れたピアスが揺れた。大胆に梳いた髪の下で、金色の細いチェーンが数本、まだ微かに揺れている。これは、初めて見るピアスだ。多分。



「彼にピアスを褒められてからね、なんとなく集めるようになっちゃって」


 自分でも馬鹿みたいだけど、と照れながら、彼女は笑って言った。


 それを聞いた俺がどんな気持ちでいるかなんて、全く気に留めることもなく。



 若くして亡くなった、美貌の天才画家。その才能と引き換えのように彼の周囲には不幸が折り重なり、その重みに潰されるようにして、彼は命を絶った。

 少し前、一部で話題になったので、俺もおおよそのことは知っていた。だが、その画家のビジネスパートナーだった男性も、同時期に亡くなっていたことは、彼女から聞いて初めて知った。その男性は、彼女のかつての同僚であったということも。


 彼女は以前、その元同僚の伝手で、その画家に数度に渡り取材を行っていた。もしかしたら、個人的な付き合いも多少はあったのかもしれない。詳しいことは聞いていない。悔しくて聞けない。いや……怖くて、かも。


 その画家に恋をしていたわけではない、と彼女は言い張る。あくまで彼の作品のファンなのだ、と。でもその後、小さな声で付け加える。「あと、人柄とルックスも……」


……それって、普通に ” 好き ” ってことなんじゃないのか?



 彼についての本を書くつもりだと、彼女は言った。画家が亡くなって、一連の騒動が少し収まりかけた頃のことだ。

 彼の恋人であった女性(確か、バレリーナだかダンサーだか、とにかく美しい女性らしい)の怪我からの復帰公演に合わせて出版し、舞台に花を添えるのだと。それが、亡くなった画家と元同僚に対して自分が出来る、精一杯の手向けなのだと。


 まだ涙の跡が残る瞳で気丈に顔を上げ微笑んでみせた彼女を目の前にして、俺は何も出来なかった。ハンカチを差し出すことすら出来ず、ただ両の拳を固く握りしめて立ち尽くすだけだった。多分、「頑張ってください」みたいなことを言った気はする。ぎこちない励ましの表情なんかを浮かべていたかもしれない。でも彼女は、俺のことなんかちっとも見てはいなかった。ただつよく、前だけを見ていた……



 そしてつい先ごろ、必要と思われる取材を終え、本格的に執筆を始めたらしい。


「タイトルは、『月と、太陽』。ただ、サブタイトルがね……まだ迷ってるの」


 そう聞いたのは、つい先日のことだ。完成したら原稿を読ませてくれると言うが、正直な所、読みたいような読みたくないような……かなり複雑な心境だ。




 不意に、金色のチェーンが大きく揺れた。追想から我に帰ると同時に、彼女が「うん」と大きく頷き、微笑んだ。


「オッケー、いいじゃない。これで通すわ」


 原稿を丁寧に封筒へ仕舞うと、彼女はバッグからUSBを取り出した。手渡されたそれを受け取り、PCのデータをコピーする。彼女が自分のバッグをゴソゴソと探っている間にコピーは完了し、USBを返した。


「はい。原稿とデータ、拝受しました。お疲れ様です、日良カガミ先生」

「先生は止めて下さいってば、芹沢先輩」


 最敬礼から身を起こすと、彼女は笑いながら首を振った。


「それを言うなら杉原君だって、未だに先輩呼びじゃない。私は、君の編集担当なんだからね」


 芹沢 周。

 大学の文芸サークルのOBだったこの人は、現在は小さな出版社のライター兼編集者。俺を絵本作家として育ててくれた、いや、現在進行形で育ててくれている人だ。 言葉も絵の線も極力削ぎ落とした、絵本作家としての現在のスタイルを共に創り上げてくれた。また、「日良カガミ」という「眼鏡」をもじったペンネームの発案者でもある。視力がすこぶる良く、眼鏡を必要としない眼鏡屋である俺を面白がって付けた渾名の中の、一つを選んだ。

 ちなみに、俺が普段からかけている眼鏡は、度の入っていない透明のUVカットグラスだ。



「じゃあ……芹沢さん?」


 本当なら、周(あまね)さんと呼びたいところだが。


「はい、なんでしょう。日良先生」

「だからぁ……人前では普通に呼んでくれって言ってるじゃないですか」

「いいじゃない。人前って言ったって、店内誰もいないんだし」

「暇な店ですみませんね」


 やだ、拗ねないでよ。と、彼女は笑う。別に拗ねてるわけじゃない。朝イチの客がいない時に、って気を遣って訪ねて来てくれたのはそっちじゃないか。この人は、いつもこうやって俺をからかう。まあ、それが嬉しくて、俺も餌を捲くような事を言ってしまうわけだが。


「それにしても、ほんと面白い店だよね。眼鏡と食器が同じ棚に並んでるとか、何たるカオス」

「気に入ったのがあったら持って行って下さい。両親が毎週のように送ってくるんで」

「でも、売り物なんでしょう?」


 うちの両親は、俺が認定眼鏡士の資格を取った途端に店をほったらかし、趣味の陶芸をやるためにと良い土を求めて旅に出てしまった自由人だ。おかげで俺は、勤めていた大手チェーンの眼鏡店を退職し、店を継ぐことになった。

 まあ、それで自由な時間が増えたおかげで創作活動を再開し、芹沢先輩との交流も復活して、副業として絵本作家という道を拓くことも出来たわけで……当時はあまりの身勝手さに腹を立てものだが、今では多少、両親に感謝はしている。



 結局先輩は、このあと取材の予定があるとかで、何も選ばなかった。確かに、朝から重たい割れ物を抱えて歩き回りたくはないだろう。だが興味はあるようで、全ての作品をじっくりと時間をかけて眺めている。


「先輩、時間大丈夫なんですか?」

「何よ、追い出す気?」

「違いますって」


 そんなわけないじゃないか。なんならずっと居て欲しいくらいだ。今日も明日も、その先も……


「取材の時間ならもうちょっと余裕あるから……あ、そうだ。前に言ってた彼女、実智さん? お店は近くなのよね?」

「そう、この並びの一番端の古書店です。でも今は他所でバイトしてるから、夜まで戻りませんよ。あと、彼女はただの……」


「幼馴染、ね。はいはい。で? やっぱり説得は出来ないの?」

「ええ、全く……なんであんなに拒否るかなぁ」



 文芸サークル時代、俺はしばしば実智のことを話題に挙げていた。

 そもそも自分が読書好きになったきっかけが、あの古本屋だった。雨の日は本屋の奥の小上がりに入り浸って、実智と一緒にずっと古本を読み漁り、時には互いに気に入った本を薦めあったりしていたものだ。

 そうするうち、俺たちは共同でオリジナルの物語を作り始めた。主人公は冒険の旅に出て、あちこち不思議な場所に赴き、目眩く経験をして様々な困難をくぐり抜け………

 年下ながら、実智の作り出す物語といったらそれはもう色鮮やかで、夢や希望、心踊るスリルや喜び、あらゆる昂奮に満ちていた。俺が小さな展開を新たに差し出す度に、実智はそれを何倍にも膨らませ、魅力的に輝かせた。 

 だが、実智はそれらの物語を形にすることを頑なに拒んだ。子供の頃も、大人になってからも。


「空想だから楽しいのよ。文章として残すのは、なんか違うの。形にして人に見せるものじゃない」


 勿体ないと思うのだが、彼女はそう言うばかりで取りつく島もないのだ。



「君がそこまで言うんだから、ちょっと文章を読んでみたいんだけどなあ……」

「頑固なんですよ……思いつきでペラペラ喋る癖に、絶対に書かない」

「んー、話を考えるのと実際に文章で表現することは、また違うからねえ」


 実は一度だけ、実智の書いた小説を読んだことがある。と言っても、覚え書きに毛が生えた程度の数ページだけだが。それはとても小学生とは思えない表現力で、その数ページだけで、当時中学生だった俺は物凄い衝撃を受けたのだ。俺は何度も、小説を書けと実智を焚きつけた。時には懇願に近い事まで言った。続きが読みたかったから。他の話も読んでみたかったから……その書きかけの小説は明らかに隠してあったので(たまたま少しはみ出していたのを見つけてしまったのだ)、実智本人にははもちろん、誰にもその事は言っていない。



「書くとなると別、っていうのはよくわかります。でも、あの千里眼みたいな観察力と洞察力、構成や作話の能力……絶対、面白い物語が書ける筈なんだ」


 昨日のライブ打ち上げ後の顛末、あれも驚異的だった。


 ホールの片隅でチャラ男とふたり話し込んでいると思ったら、何故か彼がハルの兄で俺の同級生、凪一の船で、漁の手伝いをするという話になっていた。たかだか15分ほどの間に起きたことだ。

 後で聞いたところによれば、チャラ男の北関東訛り(俺は全く気付かなかった)へのコンプレックスから来た現在の状況を言い当て、人間関係を含む現状への不満や苛立ち、将来への不安を看破し、それに気づかないふりをして強がっているという事実を本人に突きつけ……結果、凪一の船に乗せるのだ、と。


 話を聞いても、わからなかった。全く、意味がわからなかった。


 チャラ男の置かれている状況を色々言い当てたところまでは、まだ、いい。いや、それもわからないけど、まあ百歩譲って、いいとする。

 だが、何故船に? 詳しく聞きたかったが、実智をもはや神と崇め纏わりつくチャラ男に阻まれ、まだ詳しいことは聞けていない。



「着眼点が独特で、物事の見極めや分析に優れていて、それを解決したり発展させたりする発想力があるのね。それも、常人にはちょっと思いつかないような道筋、方法で」


 ふうん……と小さな顎をつまみ、芹沢先輩は下唇を半分噛んだ。何度見ても可愛らしい仕草だ。


「でも、そもそも本人に書く気が無くちゃ、話にならない。そのチャラ男とかいう人の話も気になるところだけど………ねえ、詳しいことが聞けたら君が書いてみれば?」


「それが出来たら、とっくにそうしてます」

「だよね……」



 俺には、小説が書けない。

 ストーリーは、作れる。だが、頭の中にある全てを文章にしてしまい、言葉の取捨選択が出来ない。

 舞台から、人物の過去や背景、情景描写心理描写を事細かに書き連ね、主なストーリー展開に加えそれに纏わる枝葉の部分までも緻密に書き込み、あらゆる形容、比喩、暗喩等の表現をぎゅうぎゅう詰めにして、読者の解釈を差し挟む余地など微塵も無い……そんな、窒息しそうな文章になってしまうのだ。

「契約書とか仕様書、論文みたいな文章のくせに妙に回りくどくて、そもそも読む気が起きない」というのが、サークル時代に下された俺の自作小説への評価だった。


 それならば、書いた文章から言葉を表現を削って削って削り倒し、俳句の域にまで研ぎ澄ませてみましょう……ということで、芹沢先輩のアドバイスの下で出来上がったのが、今の俺のスタイルなのだ。とてつもなく不器用でコストパフォーマンスの悪い、だが、独自のスタイル。



「まあ、その話は追い追いで。小説云々は置いておいても、君がそんなに固執する彼女に会ってみたいとは思うけどね」

「固執? ……って言うと語弊が。単にあいつは」


「単なる幼馴染、でしょ。わかってるって」



 彼女は屈託なく笑うと、軽やかに手を振って次の仕事へと向かった。



 全く、どこまで分かっているのやら………


 ひょっとしたら先輩は俺の気持ちなどとうに察知していて、上手く躱されているだけなのではないか……などと、時おり勘繰ってしまう。となれば、絵本作家と編集者という関係を壊すようなことは慎むべきなのではないか。この想いは口に出されることなく、胸に深くしまっておくべきなのではないか。だがしかし、彼女への想いは厳然として揺るぎなく、いやそれどころか日増しに強くなっているわけで、その証拠に、俺は彼女のピアスにさえ焦げ付くような嫉妬を覚えているわけで………



 ひとり店内に取り残された俺は眼鏡を外し、陳腐に表現するならば肺が真空になりそうなほど、深いため息を吐いた。



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