常連客【3】

 その女性は漆黒を纏って現れた。


 艶やかな黒髪と黒いドレス。


 黒髪で縁取りされた輪郭の中に浮かぶのは、銀色の双眸で、まるで夜空の星のようである。そして、シンプルな黒いドレスは、女性特有のラインをくっきり浮かび上がらせ、彼女のスタイルの良さを強調していた。


 だが、それだけでは寒いのか、肩からは淡いクリーム色に金糸の刺繍の入ったストールが巻かれている。ドレスの生地に合わせて、良い素材を使っていることが見て取れた。


「いらっしゃい、アリー」


 カウンターで新聞を読んでいた店長が、顔を上げ彼女の名を読んだ。


 その言葉に、彼女がルーさんの妻なのか、とエドワードの中で好奇心が膨れ上がってきた。エドワードは、高いところを整理するために梯子に足を掛けていたのを忘れ、身を乗り出した。その拍子に、重心が移動して、梯子が後方に倒れていく。


 あっ、と息を呑むが、もう遅い。空中で身体の向きを変えることもできず、エドワードの体は、今しがた入店してきた女性の上へと倒れていった。


 とすんっ、と音がして、頬に触れる熱と地に足を着いた感触に、エドワードは閉じていた目を開けた。銀色の双眸が自分を捉えている。


「大丈夫?」


 と少々低いが、心地よい声で彼女は問い掛ける。


「……はい」


 エドワードが戸惑いながら答えれば、彼女はふわりと微笑んだ。洗練された雰囲気を持つ女性なのに、笑うと何とも可愛らしい、とエドワードは思った。


 思わず見惚れていると、


「何、美味しい状態で見惚れてるのさ」


 店長の声に、エドワードは我に返る。よくよく見れば、エドワードは彼女に抱きかかえられる形で立っている。


「うわ、ごめんなさい」


 エドワードは、顔を真っ赤にして慌てて彼女の腕の中から飛びのいた。ゆっくりと深呼吸をして心を落ち着かせる。酸素が脳まで行き渡ると、思考がはっきりしてきた。冷静になって考えると、それ程高くない所から落ちたとはいえ、女性がヒト一人を受け止めるのは、大変なことである。彼女が尻餅をつかなかったことが不思議であったが、まずは彼女に怪我がないか確かめることが、幼いながらも紳士としては当然の義務であった。


「あの、あなたの方こそお怪我はありませんでしたか?」


「私? 私は、大丈夫よ」


 そう答える彼女は確かに大した外傷はないように見える。だが、よく見れば、彼女が肩から巻いていたストールが破れていた。


「ごめんなさい。僕のせいでストールが……」


 とエドワードが謝罪を口にすれば、彼女はふるふると首を横に振った。


「気にしないで。これは最初から破れていたのだもの」


「ああ、またルーにやられたんだね」


 続いて店長の言葉に、エドワードは戸惑いを隠せなかった。


「そうよ。あの人ったら、毎回毎回……少しは力加減を覚えて欲しいわ」


 不機嫌そうに眉を吊り上げて、彼女は言った。アリーさん達夫婦は、やはり仲が悪いのかもしれない、とエドワードは思った。


「じゃあ、いつも通り新しいストールをお求めだね」


「ええ、お願い」


「ちょっと待っててね」


 そう答えて店長は、ランプを片手に席を立った。店長の姿が地下へと消える。店先には、エドワードとアリーだけが取り残された。


「新しい子、よね?」


 アリーは、夫と違い、人の顔を覚えるのは得意らしい。


「あ、はい。一週間程前からお世話になっています。エドワードと申します」


 腰を折って、丁寧にお辞儀をすると、アリーは先程の不機嫌が嘘のように、ふふっと笑った。


「ディランとは大違い。礼義正しいのね」


 意図せず、夫と同じ言葉を口にしたアリーに、言おうか、言うまいか迷った後、


「……ルーさんにも、そう言われました」


 と、エドワードは結局それを口にした。アリーの顔を窺うと、どうにも複雑な顔をしている。


「あの人に会ったのね」


「はい、今朝……」


「あの人、人の顔を覚えるのが苦手だから、あなたを困らせたのではなくて?」


 エドワードが、言葉に詰まっていると、


「全くだよ。ディランと間違えてエドワードのこと苛めてたんだから」


 と、丁度地下室から戻ってきた店長が恨めしそうに声をあげた。確かに最初は彼のことを恐ろしく思ったが、店長の言葉はどうも誇張されている気がする。エドワードには、仮にも彼の妻に対して要らぬ誤解を与えてはいけない気がした。彼らの仲が悪いなら尚更である。


 だが、店長は、そんなこと露にも気にせず、


「アリーから、よくよく叱っておいてよ」


 と言った。


「ええ、そうさせてもらうわ」


「よかったね、エドワード。アリーに叱ってもらえば、ルーも反省するさ」


「そういう問題なんですか? 僕には、要らぬ火種を作ったようにしか見えないんですが」


 店長にだけ聞こえるように、カウンターに寄ってエドワードは呟いた。


 だが、


「エドワードが思っている程、事態は深刻ではないよ」


 そう言って、店長は客へと向き直ってしまう。店長は、ルーに渡したのと同じように、羊皮紙の中から品物を出した。


「はい、アリー。お求めの品だよ」


「ありがとう」


 アリーはお礼を言って、その真新しいストールを巻いた。それを見届けて、店長が問い掛ける。


「今日は、他にもお求めの品があるんじゃないかい?」


 その言葉を聞いて、アリーは花が咲いたように笑った。


「アルヴィンには、お見通しね。とびきり素敵なドレスをお願いしたいんだけれど」 


「明後日は、久しぶりのデートの日だもんね」


「デート、ですか?」


「そう、明後日は久しぶりに二人一緒に出掛けられるの」


 この場合、お相手は彼女の夫なんだろうか。でも、


「お二人は仲が悪いんじゃ……」


 と、思わずエドワードが漏らした呟きに、


「あら、どうしてそう思ったの?」


 とアリーは心底意外そうである。


「エドワードは、ルーが君に裾を伸ばされて新しい服を買いに来たり、アリーがルーにストールを破かれたりしたのは、君達の仲が悪いからだと思ったんだよ」


 エドワードに代わり店長がそう答えると、彼女は可笑しそうに笑った。


「だって、彼、いつも恥ずかしがって手なんて繋いでくれないのよ。だから、私は、彼のセーターの裾を掴むのだけれど、それで毎日毎日伸びちゃうの」


「ルーもいつも同じ要領でアリーのストールを引っ張るしね」


「え、でも、じゃあ、なんでお二人は別々に買い物に? 店長の話を聞く限りじゃ、ルーさんは毎日朝方に、アリーさんは毎日夕方にいらっしゃるんでしょ?」


 エドワードの疑問に、店長とアリーの二人は互いに顔を見合わせて、苦笑を浮かべた。


「それは、仕方がないことだから……」


「そうそう、エドワードも明後日が何の日か知れば、きっと答えがわかるさ」


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