17にちめ「普通科生になった日」

「早かったな。もしかして俺がお湯に浸かれないから気を遣ってくれた?」

「まさか。誰がてめぇなんぞに……単に長風呂が嫌いなだけだ」

「なるほど。カラスの行水か」


 銭湯の脱衣所はむんと湿気が籠もっている。せっかくの風呂上がりなのに――八束は怪我を配慮してシャワーだけで済ませたが――扇風機の首振りに合わせてカニ歩きしたいくらい蒸し暑い。


 月乃との待ち合わせは結局すっぽかした。一連のストーカー騒動があった手前、二人きりで会うのが怖かったのだ。午後の授業ごとばっくれ、田中と落ち合って今に至る。


 二人はタオルを首に掛けたまま、自動販売機と向き合った。風呂上がりといえば、やっぱり牛乳が欠かせない。八束はフルーツ牛乳を、田中はコーヒー牛乳を。どちらも牛乳感のまるでない物を買った――だって甘くておいしいから。

 背中から吹く扇風機の風が、二人の髪をうなじから掻き上げる。

 口の中が甘ったるくなったところで田中が言った。日中のオールバックは崩れ、前髪がおでこを野暮ったく覆っている。


「やっぱ戻った方がよくねぇか? 理数科」

「なんだよ田中まで」

「『理数科に来い』って誘われてんなら、素直に入っちまえばいいじゃねぇか。そうすりゃ赤羽と距離はとれるわ、普通科からは出られるわで一石二鳥だろ。金がないわけじゃねぇんだし」

「田中……」


 その説得めいた言葉の数々からは、田中自身の思いが読み取れるだろう。

 田中がかねてから志望していた工業科でなく普通科に入った理由、それは貧乏だったからだ。

 西園高校は私立高校なだけあって、普通科以外の学科に在籍するには相応の授業料を支払わなくてはならない。日々の暮らしすら四苦八苦している田中にとって、そのお金はとても用意できるものじゃなかったのだ。

 鈍色の声には嫉妬にも似た悔しさが隠れているように思える。普通科から出られる環境が整っているのに、なにを悩む必要があるんだって。

 それでも……賛同はできない。普通科から出て行くことはできない。


「背中を押してくれるのは嬉しいんだけど、あいにくそれはできないんだ。その……穂積と約束しちゃったから」

「……約束だ?」

「うん。あれはバレンタインの頃だったかな? あの時、約束したんだ。『穂積が外から普通科を変えるなら、俺は内から変えてやる』って」


 あれは先のバレンタインデー、学科振り分け試験の結果が出た日のことだった。

 八束は空き瓶をケースに返却して語りだす。これまで穂積以外の誰にも話さなかった、自分が普通科に来たわけについて。


「あれは確か放課後だったかな? 穂積はたまたま職員室で俺の進路を知ったらしくて、それで飛んできたんだ。なんでも『一緒の学科に行くのが気まずいから理数科を蹴った』って勘違いしたみたいで、血相を変えてさ。もう誤解を解くのが大変だったのなんのって」

「思い出話はいいから、本題に入れ」

「あはは、懐かしくて……ごめん。それで約束の話だけど……ほら、穂積って根っからの真人間じゃん? 生徒会長も真面目に『学校をよくしたい』って考えて立候補したくらいだし。そんな穂積が何とかしようとしてる問題の一つに『普通科生に対する差別問題』ってのがあるんだよ」


 時間帯もあって脱衣所が混雑してきた。ぼちぼち荷物をまとめる。


「田中も知っての通り、普通科生の扱いって最悪だろ? 校舎はボロいし、授業はあってないようなもんだし。もう校内じゃ『普通科生とは目を合わせるな』っていう不文律まで成立しちゃってるけど、穂積はそんな当たり前を見て見ぬ振りできないらしいんだ」

「それで必死こいてるわけか……まあ椋浦らしいっちゃらしいわな。それで?」

「でも、いくら生徒会長だからって、できることには限界があるだろ? 外部からどんなに手を出したところで、普通科生のやさぐれた性根までは直せないわけだし。そこで俺の出番ってわけだ」

「ほ〜ん……?」

「俺は元々穂積と一緒の学科に行きたくて理数科を考えてた。でも振られた今となっては進路を合わせる理由もない。だったらこの際、内部から普通科を変えようと思ったんだ。ほら、俺みたいに自分から普通科に来るような変わり者がいたら、教室の空気も変わるだろうし、これでも学年主席だから、それで少しは周りの目も変わるかなって」


「つまり鮎沢は、慈善事業のために普通科に落ちてきたっつーのか?」

「呆れた?」

「ほとほとな……ったく、人が嫌々落ちてきたのに、んなくだらねぇ理由で選ぶなよ……しっかし、椋浦がよく許したな」

「それがまた大変だったんだ。穂積は見かけによらず我が強いから一歩も譲らなくて。結局バレンタインってことで、たまたま持ってきてた友チョコで気を引いて、なし崩しに認めさせたんだけど……そんな感じで約束しちゃったから、普通科を出るわけにはいかないんだ。約束は約束だから」


 二人は番台近くの竹製のベンチに腰掛けている。

『穂積が外から普通科を変えるなら、俺は内から変えてやる』

 その約束こそ他でもない、八束が普通科生となった理由であった。


 穂積に振られた一月三一日当時、周りは死刑宣告を待つ囚人のような顔だらけだった。凜も玲奈も田中だって。親しい友達はみんな普通科行きがほぼ決まっていたのだ。

 普通科といえば、校内の負け犬が集まるところ。そこに逃げ場はなく、設立当初から三年生に上がった普通科生は誰一人としていない。劣悪な環境に耐えかね、みんな半年以内に辞めてしまう。

 そんな場所と知っていながら、彼らは行く……いや、行かざるを得ない。

 八束は彼らを見捨てることができなかった。友達としてはもちろん、下から見上げることしかできない苦しみを、そのせいで大切な人を失う痛みを知る者として。

 だから普通科を変えようと思った。もう大切な人を誰も失わないために。


「約束ね……」

 田中が顔を上げた。

「話は分かった……だがな、とんだお節介だ。俺らは別に何も望んじゃいねぇし、今さらてめぇらが足掻いたところで、どうこうなる話じゃねぇ……ったく、何が『普通科を変える』だ。んなしょんべん臭ぇ戯れ言なんざ、自己満足に過ぎねぇってんだ」


 目の前を行き交うおじさんや学生が『男湯』の暖簾をはためかせる。


「俺はただ、お前らのためを思って――」

「別に俺はてめぇらの幼稚なままごとに呆れてんじゃねぇんだ」


 鈍色の声は、言葉の乱暴さとは裏腹に穏やかで、年長者のそれのように落ち着いているだろう。


「じゃあ、どうして……」

「そうやって、てめぇが普通科に来たかったを隠して、俺らへの思いやりだとか、嘘の理由をもっともらしくこじつけてんのが気に食わねぇんだ」

「……えっ?」


 八束は眉をひそめた。本当の理由?

 田中は何を言っているんだ?


「なあ鮎沢……お前は本当に俺らを思って、普通科に来たのか?」

「当たり前だろ……?」


 気まずい睨めっこが続く。根負けしたように口を開いたのは田中だった。

「……そっか。こりゃ予想以上に重傷だわ」

 田中が立ち上がる。手ぬぐいを首に掛け、肩越しに八束を見下ろす。


「一つ忠告してやる。自分を騙すのは、もうやめにしろ。じゃねぇと、いつまで経っても前に進めねぇぞ」

「……どういう意味だよ?」

「さあな……まあ、せいぜい考えるこった」




 暗く毒々しい空。下校時刻を知らせる鐘が鳴った。

「八束さん……」

 月乃は俯いたまま。ジャージの裾をぎゅっと掴んだ。

 体育館裏には月乃しかいない。高窓を通してバスケ部の元気な声や、床にボールを弾ませる音が聞こえる。


 待ち合わせ場所に八束は来なかった。三時間経っても、四時間経っても。

 のに、八束は来てくれなかった。

 空気が冷たい。瞳の紅が夜の色に呑まれていく。

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