第3話 小袖の手 2

「何だ、今日はお姉ちゃんの弁当じゃねのか、島崎」

 と同僚の山脇に言われ、巧は振り返って「まあな」とだるそうに答えた。

 ハンバーガーショップの窓際で昼食をとっていた巧の横にトレイを持った同僚がどさっと座った。

「何だよ、お姉ちゃん、彼氏出来てから弟に構わなくなったのか?」

「そうじゃねえよ。最近、忙しくて朝もばたばたして暇がねえんだろ。自分の仕事もあんのに、弁当もういいって言ってんだけどな」

 ハンバーガーにかぶりつきながら巧は答えた。

「それにまあ、姉ちゃんが彼氏出来て、そっちの世話焼きに行ってくれたほうがありがたいよ」

「何だよ、それ、中学んときから親代わりに育ててもらって、大学まで出してもらったんだろ? 恩知らずめ!」

 山脇に小突かれて、巧ははははっとさわやかに笑ったが、姉の好子の世話焼きにはうんざりしていたのも事実だった。

 母親を亡くしてから自分が弟を育てなければという使命感に駆られたのだろうが、朝から晩まで、服装や持ち物、友人とのつきあいまで口を出す。決して頭ごなしに禁止したりするわけではない。それとなく会話の中に盛り込んでくるぐらいだが、思春期にはそれすらも頭にきたものだ。巧の就職が決まった事で少し安心したのだろう、彼氏が出来たようなのでほっとしていたところだ。

 巧よりも手のかかる父親が転がり込んで来たのもその一因だろう。そちらに夢中で巧には口うるさく言わなくなった。

 姉の世話焼きには閉口するが、二人のアパートに父親がのさばっているのも我慢ならない。人のいい姉はこき使われ、金を搾取されても満足かもしれないが、自分はごめんだ。

 貧乏をしていた子供の頃を思うと腹が立ってしかたがない。

 目の前で死にかけてもがいていても絶対に助けない自信すらある。


「あ、受付の香織ちゃんだ、可愛いな~~」

 と言う同僚の声に巧ははっと我に返った。

 会社の受付嬢がテイクアウトの袋を持って店を出て行くところだった。

「可愛いな~~でも、あの子あれなんだよな~~」

「あれって?」

 と巧が聞くと、山脇はじゅうっと空になったジュースをすすりながら、

「あの子、肩のとこにタトゥーしてるってさ。美人だけどタトゥーはちょっとな~~」

 と言った。

「タトゥ? って入れ墨?」

「そうそう」

「へえ、清楚な感じなのにな」

「なー、彼氏の名前とかだったら嫌じゃん?」

「彼氏の名前? でも彼氏いないって噂だろ?」

「だからぁ。元カレとかよ」

「あー、なるほど」

 横断歩道を渡っていく受付嬢を巧はガラス越しに見送った。

 確かに可愛いし彼女に出来れば鼻が高いが、タトゥーが入った身体を見れば冷めるような気がする。

「そういや入れ墨と言えばさぁ。こんな噂知ってるか? 恨み晴らします系の」

「恨み?」

「そうそう。噂さだけど、恨み晴らしてくれる入れ墨師がいるんだって」

「高い金とって代わりに復讐してくれるってやつ? 100%詐欺だろ」

「だよなー。でも、結構あちこちで聞くよ。代理人がいるらしくってさ。どっかのバーの片隅で話聞いてくれるんだってさ。派手な着物姿の女を連れてたら本物だってよ」

「恨みねえ……そんな晴らさずにいられない恨みなんかそうそうあるか?」

「そりゃ、あるんじゃね? このご時世、人一人殺してもそうそう死刑になんないじゃん。刑務所入っても何年も税金で三食昼寝付きだぜ? そういう奴らに殺された被害者の身内なら晴らさずにおくべきか~~~ってなんねえ? あ、やべえ、おい、時間だ!」

 時計を見た山脇がトレーを手に立ち上がった。

 続いて巧も立ち上がった。 

「恨みはらします……か。漫画みたいな話だな」


 父親と二人になりたくなく、巧はわざと遅い時間にアパートへ戻った。

 日付が変わる時間だというのに部屋に灯りがついているのを見て巧は舌打ちをした。

 貧乏な暮らしに慣れているので、巧には節約が身についていた。

 使わない電気は消す、冷蔵庫はすぐ閉める、などささやかなものだが、母親にも好子にも口うるさく言われているので今ではそれが身についていた。

 それが父親ときたら酒を飲んで酔っぱらった後、自分は自分の布団に入るが、台所の電気やテレビ、エアコンは朝までつけっぱなしの時もある。注意をしても「すまんなぁ」と言うばかりだ。

「マジで部屋を探さなきゃな。もう、うんざりだ……ただいま」

 鍵を開けて部屋に入ると、台所の椅子に好子が座っていた。

 好子は机にうつぶしていたが、巧の声にはっと顔を上げた。

「お、おかえり」

「……どうしたの?」

「え、ううん。何でも」

「何でもじゃねえだろ。泣いてたのか? あいつに何かやられたのかよ!」

「そうじゃないの……そうじゃないのよ」

 明らかに涙を流した跡があり、目も赤く充血している。

 髪の毛もぼさぼさで、顔色も悪い。

「何やられたんだ? また家の金を盗んで逃げたのか?」

「違うわ」

 母親と幼い姉弟を捨てて女と逃げる時、貯金と家中の金目の物、好子や巧の貯金箱まで壊して逃げた父親とその時の悲しい気持ちがフラッシュバックする。

 巧は目眩がして机に手をついた。

 だが襖の向こうから父親のいびきが聞こえてきた。

「いるのかよ……で、何があったんだ? 姉ちゃん、もしかして杉田さんと喧嘩でもしたの?」

「……ううん、喧嘩っていうか……別れちゃったの」

「……どうして? 結婚するって言ってなかった?」

「うん……でも、もういいの。やっぱり、あんたがお嫁さんもらうまでは姉ちゃん頑張って働かなきゃね」

 青白い顔で微笑み顔は歪んでいる。笑ってみせようとしているが、顔が引きつってうまく笑えないのだろう。

「……もしかして……あいつが?」

「違うの! 違うの! 私が……私から別れてくださいって言ったの」

「だから、あいつが何かしたんだろう? まさか、杉田さんをあいつに会わせたのか?」

「ええ、だって、結婚するなら、お父さんだもの、紹介しとかないと……って思って。杉田さんも会いたいって言ってくれたし……」

 杉田は好子の恋人で父親の過去を知っても好子と結婚を決めてくれた好青年だった。

 巧はそれを心の底から喜んでいた。苦労をしてきた好子もこれでやっと幸せになれると嬉しかった。

「杉田さんは気にしないって言ってくれたの。君の父親は僕の父親にもなるって……でも、ほら……あちらのご両親が……過去は過去として乗り越えればいいけど……でも……娘をただでやるわけには……って言葉自体が下品で、人格を疑うって……」

 巧の顔が真っ青になった。

「金を……せびりに行ったのか? 杉田さんの家に?」

 好子はこくんっと頭を垂れた。

「随分と酔って……たんでしょうね……」

「それで? 姉ちゃんが謝って帰ってきたのか? それで結婚が破談になったのか? あいつのせいで?」

 巧は身体中が怒りで震えた。頭がくらくらした。

 鞄を床にたたきつけ父親が寝ている部屋の襖を開ける。父親がいびきをかきながら寝ている部屋は酒と加齢臭でむっとしていた。

 巧は布団を被ったままの父親の身体を蹴り飛ばした。

「うわっ!!!」

 と言って父親の目が開く。

「巧!」

 と言って良子が匠の腕を引っ張る。

「な、なんだ、なんだ」

「くそ野郎! 姉ちゃんの結婚の邪魔までしやがって! 死ねよ! てめえ!」

 巧の叫びに父親は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに、

「ふん」

 と言って身体を起こし首をぽりぽりとかいた。

「なんで杉田さんの家まで金をせびりに行ってんだ!」

「娘の婿になるんだ、小遣いくらい気持ちよくくれると思うじゃないか。まあ、あんなケチな家に嫁ぐと苦労するのは好子だ。早い目に分かってよかったろ?」

 と言った。

「くそ野郎……」

「やめて、巧、もういいから」

「よくねえよ! 今すぐこいつを追い出して、縁を切るって杉田さんに言えよ!」

「好子はお前みたいな薄情もんとは違って、わしを追い出したりせんさ、なあ、好子」

 父親はふあ~~と大あくびをした。

「姉ちゃん! 一生、こんな荷物を背負って生きてくのかよ?」 

「荷物とはなんだ、親に向かって!」

「育ててもらった覚えもねえし、親だなんて思ってねえよ! くそ野郎、さっさと死ね!」

 腕を振り上げた巧に父親はうわぁと大げさに声を上げ身を丸めた。

 二人の間に好子が割り込み、巧の身体を抑えた。

「いいのよ。だって仕事も忙しいし、ほら、お父さんと巧を置いて結婚するのもちょっと迷ってたしね。二人とも手がかかるんだもの。あんたが結婚するまでは、まだまだお金も貯めなきゃだし。姉ちゃん、あんたとお父さんの世話するのが楽しいのよ。だから全然大丈夫」

 そう言ってにこっと笑った好子の笑顔に巧は少しだけぞっとなった。

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