上京

第1話 東京

あの機械音が、耳から離れようとしない。

それは耳鳴りのように突然自分の耳にだけ聞こえる。


自分の母の命が尽きた、あの瞬間の音。


あれ以来、心電図を見ることすら嫌いになった。

母さんの手はまだ完全に冷たい死人のものではなかったが、生命の熱を感じさせる温度ではなかった。


「弓くん……」

あの音の直後、横にいた看護師の男性が、そっと背中を撫でてくれた。


いつもお見舞いにやってくる僕と仲良くしてくれた人だった。

そんな彼の手から温かい、生きた人の温度が伝わってきた。


そこではじめて僕は、母さんの死を受け入れて泣いた。





僕はコンプレックスである十四歳にしては、少し小柄な体に大きめのリュックサックをせおい、海外旅行用のこれまた大きめなボストンバッグを肩にかける。


長野という雪深い土地で暮らしたからなのか、はたまたもともとなのか、中学生にしては色白な肌とは反対に、真っ黒な前髪が視界の隅で揺れた。


「お世話になりました」

頭を下げると、四十過ぎたくらいの女性が「頭なんて下げないで」と僕の肩に手を置く。


「お父さんと生活できることになってよかったけれど……辛かったらいつでも帰ってきていいのよ?ここが、あなたの家なんだから」

「ありがとうございます」


嘘つき、と僕は心の中でつぶやく。

彼女が他の職員同様に、自分のことを疫病神のように言っているのを知っている。


それでいて、僕に慈愛の手を差し伸べる自分に浸っているだけで、実際は何もしてくれていないことも。


しかし事実として、僕がここで過ごした期間は、この施設に良くないことばかり起きている。

職員だけではない。察しのいい子ども達も、おかしなことに巻き込まれたくないと、僕を避けていた。


だからこそ僕はそんな職員たちの態度に怒ることも、反抗することなく、上官の命令を絶対とする兵士のごとく従順に過ごしていた。


若葉さんが来て一旦は解決したが、過去のこととして水に流せるほど職員たちも強くはないし、流せるほどのしょうもない事件でもなかった。


そのことを僕は理解しているし、納得もしていた。

むしろ、こうして優しさに浸っているとしても、優しく接してくれることに感謝している。

僕だったら、僕と会話だってしたくないから。


「弓ちゃん、行っちゃうの?」

カナちゃんが、目に溢れんばかりの涙をためて僕に抱きつく。


たった三年ではあったが、こうして僕を本当の家族のように想ってくれる子もいた。

皆が皆、僕を毛嫌いしているわけではなかったと思いたい。

そう思うだけで、僕はここに居られてよかったと、本心から思える。


「うん」

僕がしゃがんでカナちゃんを抱きしめると、見送りにきていた幼い子どもたちが僕のそばへ駆け寄ってきた。


「そろそろ」

僕の後ろから、黒いスーツに身を包んだ、SPのような男性が声をかける。

以前若葉さんが言っていた、お迎え係の人らしい。


「……わかりました」

僕は返事をすると、立ち上がって子どもたち一人一人の顔を見る。

「東京に着いたら、お手紙書くからね」


僕の言葉に、絶対だよ、約束だよ、と何人かの子どもたちは口々に言った。

僕は「約束」と指切りげんまんをして、微笑んだ。







高速道路から見る東京の景色は、物心ついたころから長野で暮らしていた僕には、現実感を感じさせないものだった。


日が沈んだこの時間でも光が氾濫する街は、まさに眠らない街を冠するにふさわしい姿で僕の目にうつる。


今は亡き母と顔も知らない父と共に、僕が二歳になるまでは暮らしていた街──東京。


この街での生活がぼんやりとしか記憶にない僕には、この街が自分とは初対面のような気持ちだった。


高速道路を囲むように、空を突き破るほど背の高いビルが群れをなし、道路を走る車を襲おうとしているように錯覚する。


人の数も僕の暮らしていた町とは比べものにならないほど多い。

僕の暮らしていた町は、大都市ではないけれど極端に人の少ないところではなかった。

むしろ、東京が異常なのだ。


「東京は、はじめてですか」

運転しているお迎え係の人が、疑問というより確信をもって僕に声をかけてきた。


僕は窓から彼に、慌てて視線をうつす。

長野から東京へ来るまで、一度も彼の方から話してくることはなかった。

自分が他愛のない世間話をふっても、生返事ばかりだったのに、と僕はびっくりする。


「えっと、はじめてでは、ないんです。二歳まで東京で暮らしていたらしくって」

「そうですか」

「でも記憶にないんで、はじめてですね。ほぼ……はい」


僕の言葉を最後に、再び車内は沈黙に包まれた。

僕は膝の上にのせたリュックサックに、顔をのせる。


戸隠の生まれだった母は、進学先の松本市で父と出会い、父との結婚を機に東京にやって来た。

そして、二歳になった僕を連れて長野へ戻るまでの四年間、この東京で暮らしていた。


僕はぼんやりと車窓の外を眺めた。

車の窓ガラスに、寂しげな自分の顔と光の尾を引く車が見える。


母さん、十二年前に、あなたはどんな思いでこの街を後にしたんですか?


離婚しないまま、自分だけ子どもを連れて地元に帰ったのは、どうしてですか?


まぶたが、ゆっくりと重力に引っ張られていった。

父さんは、どんな人なんだろう……。

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